藤のうたたね

第一夜

もうそろそろ桜が咲こうかというのに、降り止まない春雨。それを横になって眺め続けていると、まるで冬が別れを惜しんで泣いているようだと思えてくる。
思えば、今も昔も泣いていることが多い私だった。
 「母上、気を強くお持ちください。先の帝であった父上を亡くしてから数年、母上まで私を置いて行かれるのですか…」
「四の宮、貴方のことを思うとこの世にいつまでも留まりたいように思い、心残りで気がかりに思うけれども、この老いた体はもはや長くはないようです。」
そういう母は酷く苦しげで弱々しく、私のためにこの世に長く縛り続けるのも申し訳なく思う。
「私の死後は兄宮の兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)を頼りなさい。入内のことも、世の流れの中でどうにもならないことはあるかと思うけれど、貴方が幸せであるよう、母はいつまでも祈っています。」
重ね重ね私の行く末を案じ、幸せを祈りながら、母ははかなく亡くなった。母が亡くなってしまえば、私には頼るものは母を同じくする兄宮しかいない。母を失ってうち沈んでいるのを見かねた兄からしきりに勧められ、ついに帝の元へ嫁ぐこととなった。
 父が帝であった時に暮らした、懐かしく煌びやかな宮中。数多くのお妃様方。年上の聡明で優しい帝。母と慎ましく暮らしていた日々とはかけ離れた日々。そのかけ離れた日々に、私の喪失感も紛らわされていくようだった。幸いなことに帝からの格別の寵を賜り、なに不自由ない暮らしをさせていただいている。亡き桐壷の更衣に私が似ているようで、帝はその埋まらない空洞を、私を慰めに埋めようとしていらっしゃるようだ。母が最期の時まで心配していらっしゃった弘徽殿(こきでん)の女御様の嫉妬も、父と母の高貴な身分のため、私の身に直接降りかかるようなことはなされないようで。母が天から私のことを守ってくださっているのだと、頼もしくうれしく思う。
 帝が深く寵愛された桐壷の更衣には、世にもまれな美しさをそなえた若宮がいらっしゃる。帝は若宮を形見と思われて、寵愛も殊更である。先日帝が此方にお渡りになった時、若宮もいらっしゃり初めてそのお姿を拝見したけれど、伝え聞くより遥かに愛らしく美しく、帝が寵愛されるのも無理のないことだと心底思われた。ましてや最愛の方の忘れ形見であればなおのこと。あのように愛らしい若宮を残されて亡くなった更衣様も、さぞかし無念であられただろう。その若宮とは五歳しか歳が離れておらず、対面するのははばかられ恥ずかしい気持ちがするけども、
帝が
「若宮を可愛がっておやりなさい。不思議なほどこの子の母と貴方は似ているのです。失礼と思わずに、可愛がってやってください。この子の目つきや顔つきが、また母とよく似ていますから、この子と貴方を母と子と見ても良いと思います。」
とおっしゃられることもあり、余りに隠れて隔ててしまうことは憚られる。それに何より、素直に甘えてこられる若宮は言いようもなく愛らしく、このような子を無下に出来るはずもない。
 今から思えば、その様な私の甘さへの罰が今世の苦しみであるのだろうかとさえ思われる。けれども私は、このような苦しみを与えられてもなお、あの時の若君の手を振り払えはしないのだ。たとえ時が戻るようなことがあっても。自分の浅ましさにほとほと呆れ返るけれども、もはや時はすでに遅い。

第二夜

 昨夜も苦しみながら眠りに落ちたが、ひどく懐かしいことを思い出したものだと思う。いよいよ私の命の灯も、残り僅かな証なのだろうか。今上帝の行く末の為に、御仏に祈り生まれの罪を少しでも晴らそうとするけれども、体はもう思うようには動かず、心の中で読経を唱えるばかり。このようなことになってしまったのも、全てはあの一夜から。さてもなんと恐ろしい。
 若宮は元服なされたのちに、臣籍に降下なされ源氏を名のられるようになった。帝は愛らしい童の姿を変えられるのを惜しく思っておられたけれども、元服された若宮は新たな男性としての魅力が備わり、より一層美しく思われる。それと同時に、亡き更衣様がこのお姿を見ていらっしゃったら、どんなに喜んだことだろうとお思いになっているようで、どれ程年月がたとうとも、あの方への想いは、なくなりはしないのだと身に染みて感じる。元から私への愛情と更衣様への愛情は別物で、それは他の数多くのお妃様方へでも同じこと。同じ愛情の形ではないのだから、他の誰にも同じ物は、与えられはしない。それは無くなってしまったあの方が持っていかれてしまった。帝はお優しく、また私を格別に愛してくださるけれども、時として私は桐壷の更衣の身代わりなのだと、自分を情けなく思わずにはいられなかった。帝の愛情に嘘偽りはないとわかっていても、それは時として心の隙間にそっと入り込んで影を落とす。
 源氏の君が、初めて忍ばれたのもそのように心が掻き乱れた夜だった。元服されてからは、今までのように隔てもなくお会いすることもなく、御簾越し(みすごし)での対面となってはいたが、親しくお尋ねになっていた。それがまさか、あのように私のことを想われていようとは思いもせず。恐れ多くも、帝の妃である私を慕うなどということを…
…いや、本当にそうだろうか。本当にあの頃の私は何も気が付きはしなかったのだろうか。
日ごと美しくなる若宮の眼差しに、一つの熱も感じなかったのか。けれども私も、目がくらんでいた。その眩い美しさに。母の面影を私の中に求め、愛らしかった若宮。その頃よりました素晴らしさなど、御簾(みす)で隔てていようとも、感じられぬはずもなく。もはやれっきとした妻も頂いている身であるのに、あのように忍んで来られようとは。恐ろしさと、美しさに体が凍ってしまったようだった。その氷を解かされていかれた様など、もう恐ろしくも情けなくもあり、記憶から消してしまいたい。
 この夜から、私の苦しみは始まり、あの方の苦しみも始まってしまった。帝にお会いする度に情けなく申し訳なく思われ、この身に勿体ないほどの愛情に押し潰されてしまいそうな心地の日々。しかしそのように思うのも、自分の行いからである。せめてこのようなことを二度と起こさぬよう、帝のお心に背くことがないようにと、心を律して過ごしていた。幾年月(いくとしつき)か過ぎ、自らの罪を忘れる日はなくとも残りの生を罪滅ぼしに捧げることで、気を紛らわしていた私には、それは全くの寝耳に水な出来事だった。王命婦(おうのみょうぶ)がどのように手引きをしたのか考えもしたくはない。もう二度とあの方のお顔を、夜の暗がりの中では見まいと思い過ごしていた日々だったのに。それでもその夢のようなひと時の悪夢は、私とあの方にとって、忘れることのできない夢として、残り続けることとなる。あの方の子を身籠ることによって。私はあの方の熱の高さをその身で一度知りながら、侮っていたのだろうか。それとも、何処かで望んでしまった心を見咎められ、さらなる苦しみを与えられたのだろうか。どちらにしろ、今となってはあの方との業の深さを憂うほかない。このような苦しみを背負ってまで何故、あの方は私を想い続けるのだろう。帝に同じように格別に愛されている二人なのに。罪の深さも格別となって、他と比べようもない。

第三夜
 寝苦しい夜は明け、今日は今上帝がお越しになって、私を見舞ってくださる。東宮から冷泉帝(れいぜいてい)として即位されてから、妃も何人か嫁がれ、歳の割に大人びていらっしゃってきた。けれども、私の前では少し子供に戻るようで。いつまでもその成長と行く末が心配になってしまうのは、親として仕方のないことだろう。
桐壷院が亡くなられた時には、まだ幼すぎて分別もつかなかったのに、今はすっかり成長されて私の病状に心を痛めている。喜ばしい成長だけれども、子を残していかなければならない親としては、これほど辛いことはないだろう。思えばこの子が即位し、女として栄華を極め、この世で並ぶ人もいなかったけれど、心のうちに満たされない想いと罪を抱えて、際限なく苦しんだことも、私に並ぶ人はいなかったことだろう。
 この子が生まれたのは、二月の梅の花がようやくほころぼうかという頃だった。懐妊(かいにん)の時期を偽っていたため、二カ月も出産が遅れたことを、帝は心配されたので、喜びもひとしおのようだった。それを見るにつけても恐れ多く、何故お産で死んでしまわなかったのだろうと思わずにはいられない。一人苦しみから逃れることを、御仏は許してはくださらなかったのだ。どうせ逃れられない二人の縁であったのならば、こうも茨で出来た痛々しいものでなくともと思わずにはいられない。けれども、生まれたばかりのこの子の眼差し、握られた指の力強さに、ただはらはらと涙が落ちる。ただそこに在るという愛おしさ、匂いたつ幸福。母である私への愛情。  私は私だけであった。ずっと、ずっと。身代わりではけしてない。    残りの私の人生は、私を愛するこの子に。
 桐壷帝が譲位され、朱雀帝(すざくてい)が立った後の穏やかな生活は、私の人生の中で最も穏やかで心安らぐ時間だった。桐壷院と世の夫婦のように連れ添うのどかな時間。その中に浸かっていると、それが永遠に続くように思えた。夏の夜のように短いそのぬるま湯は院の死と共に冷めて、私に再び苦しみを思い出させた。一度薄れかけていたものは、かえって痛みを増す。そうなれば、この恋とも愛とも呼ぶべきではない愛執(あいしゅう)を、絶ち切るほかなく。誰にも相談せず出家したあの日。世の人々はこの身を惜しんだけれど、そんな貴い者ではないとこの身に沁みてわかっている。このような禍々しい縁に絡めとられ、よくもまあこの様に生きながらえたものだ。自分の浅ましさや醜さを、嫌というほど見た人生。その様な私でも、皇子が帝として盤石(ばんじゃく)になるまで守り通す事が出来た。生きた事にも意味があったのだろう。それが慰めである。僅かな安らぎと多くの苦しみ、貴い縁。本当に数奇なこと。

第四夜 
 その私の最期の時は、やはり因縁深い源氏の君が相応しい。いよいよ今日こそはと思う日に、この人はやってくる。昔から相も変わらず、恐ろしく間がいいというか悪いというか。それも今日これまでかと胸の内で思うけれども、ついに音を結ぶことはなく。懐かしくも忌々しくも思った妙なる香りが、辺りを侵食していくのがわかる。今はただ懐かしく、何の罪も持たなかった美しい思い出に免じて、この人の数々の厚意に感謝を。
「亡き院のご遺言通りに帝の補佐をなさり、ご後見をしてくださいますご厚意は、長年の間度々身に沁みて感謝申し上げております。どうした折に、並々でない感謝の気持ちをお伝えしたらいいのかと、そのことばかりをのん気に考えていたのですが、もう今となってはそれも叶わず。かえすがえす残念で。」
涙で泣き濡れて、袖を濡らすその艶やかさが見なくとも感じられ、いたわしく思われる。                            「わたくしもこの世に生きているのはもう長くないように思われます。」
初めて会ったあの頃のような関係のままいられたのなら、この様に涙を流したりはしなかったのだろうか。源氏の君への想いを貫き通すことも憎み切ることもできず。桐壷院への想いも守れずに。              この人のために身を滅ぼした人も、身を引いた人も数多くいたというのに。忍びきることだけを成し遂げ、どちらにもなり切れなかった私。来世ではと誓いを言ったこの人だけれども、私は川を渡った先どこに辿り着くことだろう。亡き院も私を待たれているのでしょうが、罪を持った身でゆけるはずもなく。ましてや、初めに誓い合った更衣様がいらっしゃるであろう処にどうして。今はただ、煙のように儚く立ち消えのぼる身体が、どこまでも軽い。今世の罪の一切をそそいだ後は、ただ新しい来世をとばかり。縁も契りも断ち切り、新たな人と、新たな縁を。
まっさらな私となって、ただ。
                <完>


参考文献

全訳 源氏物語 上巻 与謝野晶子 訳 一部セリフ引用

源氏物語 巻一・二・三・四 瀬戸内寂聴 訳 一部セリフ引用

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