見出し画像

リベルダージ:地球の裏側で日系コミュニティを覗いて見えたもの

ブラジル・サンパウロには、世界最大級とも言われる日本人街が存在する。街の中心のやや東側にある、リベルダージ地区だ。

1910年代にはすでに日本人が集住していたというリベルダージ地区は、100年以上の時をかけて、変化を経験しつつ今も日系ブラジル人たちの拠り所であり続けている。また、高まる日本食人気や韓国・中国系の人々や文化の合流によって、サンパウロにおけるポップカルチャーの一つの中心地とも呼べる場となっている。ヨーロッパで仲が良かったブラジル人の友人からよく話を聞いていて、何年も前から興味を持っていたが、やっと訪れる機会を得た。

実際に歩いてみると、日本庭園があったり、和風な装飾を施した建物などはあるものの、映画のセットのように急に日本にワープしたかのような感覚を得るわけではない。

確かに、地区内で統一されている赤い柱と丸みを帯びた電灯がそれとなくぼんぼりや鳥居をイメージさせる。だが、近代的な新築マンションの建設が進んでいたり、小洒落たレストランやバーやアイス屋が立ち並ぶようなサンパウロの他のエリアと比べると、建物は古く、看板のデザインなどの志向の面でも年季を感じさせるものが多い。

ここを歩いて何よりもまず感じるのは、日系移民たちがひっそりと、圧倒的な差異との長い交渉を続けながらブラジルに溶け込んできた血と汗の滲み跡のようなものだ。

この地区の歴史や基本情報については、wikipediaやその他ブログなどでたくさん語られているので、俺が改めてここで焼き直す必要はないだろう。1日足らず、しかもメインの活動はこの地区にある「ブラジル日本移民史料館」=「Museu Histórico da Imigração Japonesa no Brasil」を訪問しただけのことではあるが、この地区を初めて訪れた経験を経て、ブラジルをはじめこの世界における「日系」という存在について考えたことをここに少し書き留めておきたい。

まず、特定の国からの移民に関する史料館なるものが存在し、それを管轄する「ブラジル日本文化福祉教会」という組織のビルが建っているという事実自体が、ブラジル社会における日系移民の強い存在感を示唆している。調べてみたが、世界中のあらゆる地域からの移民によって成り立っている国であるにも関わらず、そのような個別の史料館をブラジルに持つのは日系移民だけだ。数だけで考えると、他の地域からの移民に比べてむしろ少数派であるにも拘らず。

膨大な研究の蓄積があるテーマなので、結論めいたことは言えないが、史料館を観て強く感じたのは、この国で日系移民は、他のどのルーツを持つ移民たちとも共感し合うことが難しい、複雑なアンビヴァレンスの中に置かれ続けてきたということだ。

日本からのブラジルへの移民は1908年に本格的に始まっているが、これはブラジルにおいて奴隷制が廃止され(1889年)、プランテーションでの労働が有給労働制に変わったことが大きな理由だという。奴隷制廃止によって最も大きな影響を受けた産業の一つにコーヒー産業があったが、20世紀に入るくらいまではポルトガル、スペイン、イタリアといったヨーロッパから大量の移民が流入していたため、奴隷制がなくなっても労働者不足に困ることはなかった。しかし、徐々にコーヒー農園での低賃金の労働が「奴隷制時代の残存」であるとして、ヨーロッパ諸国がブラジルへの移民を制限し始めた。そのとき、以前はエリート層からブラジルの「白人化」のために好ましくないとされていた日本や中国からの移民を受け入れること決めた、という。

つまり、ここには当時劇的に変化を強いられていたレイシズムの二重性がある。奴隷制廃止によって穴が空いた「黒人の替わり」のポジションを埋めるための存在として、「白人がやるに相応しくない仕事」をさせるために受け入れられた、という点では、フレームワークを作る段階で日系移民たちは差別的扱いを受けている。しかし同時に、そもそも日系移民を受け入れようとしたのは、当時のレイシズムが奴隷制時代と比べて僅かでも「緩和」されたからだ、という側面もある。レイシズムがレイシズムであるその機能性を完全に保ちながらも、その内実に地殻変動が起こったとき、ちょうど隙間のスペースに紛れ込んだ異分子が日系移民だった。

状況はさらに複雑かもしれない。史料館には、都道府県別にブラジルに移民を送り出した数が紹介されていた。それを見ると、北海道と沖縄が非常に多く(他には鹿児島、福岡、広島、福島など)の移民を送り出していることがわかる。アイヌと琉球の歴史や、これらの地域が「和人」によって征服された経緯を考えたとき、そもそもレイシズムを動力源の一つとして急速に形成されていた明治時代当時の日本の中で、特に周縁にいた人たちが、「以前よりは隙間ができた」ブラジルのレイシズムの変化によって、移民することを可能とされていたのかもしれない、ということになる。

世界全体がきしみながら変貌している時代の中で、一つの地域が動き、地球の真裏のもう一つの地域がそれに呼応する。しかもそれら複数の地域は、世界全体を引っ張っているさらに大きな潮流の中に同時に存在している。そのような何重にも編み込まれた時空間の中で、日系ブラジル移民という現象が起こったということがわかった。

さらに史料館内を進むと、日系移民たちが直面した様々な苦労が描かれている。食生活を頑なに変えたくなかった彼らにとってブラジルで手に入る食材がいかに合わなかったか。元々奴隷労働が行われていた土地に住み着いたため、子供のための学校など存在すらしなかった場所に、どうやって自分たちで学校を建てたか(当時の日系移民たちは、ブラジルで財産を築いて日本に帰り、子供たちを日本の学校に編入させるつもりでいた)。差別や不遇、詐欺被害や衛生上の問題などが多発する中で、いかに日系移民たちで団結し、ネットワークを作り、知識や技術を蓄え、乗り越えたか。第二次世界大戦中、ブラジルにとって敵国だった日本出身の彼らは、財産を没収され、不当に逮捕され、日本語学校を一つ残らず封鎖させられたこと。日本の敗戦が決まったあとも、あまりにも地理的に遠く正しい情報が伝わらなかったブラジルでは、日本の敗戦を信じる側と、信じない側で内部紛争が勃発し、殺害事件まで起きてしまったこと。

あれこれ言う前に、「異文化」と呼ばれる空間に一人で飛び込んだ経験を持つ身として、100年以上前に文字通り地球の裏側に移民した彼らの労苦は、想像を絶するものだったに違いないことは理解できる。それを耐えて耐えて生き延び、こうして史料館を作り上げるまでの地位をブラジルで築いた。そのことに驚嘆し、ナショナリズムとは異なる次元から、敬意を表したいと思った。

他方で、史料館で新たに学んだことの一つに、日系移民たちもまた、ブラジルという植民地国家の中で、植民者のグループとして手つかずの大地を開拓(裏を返せば破壊)していたという側面がある。サンパウロ周辺の農地に「コロニア」を形成していた日系移民たちは、その後アマゾナス州やパラ州などのアマゾン熱帯雨林にも、開拓の手を伸ばしていく。館内には、「緑の地獄」と呼ばれていた密林を開拓したことが、誇らしく記述されていた。

しかし、「緑の地獄」や「未知の世界」と呼ばれていた(いや、今も呼ばれている)原生林には、もちろん先住民たちや固有の動植物たちが存在していた。そこは決して、外部世界が言うような地獄ではなかったはずだ。「土地の知恵」を携えないまま、土地を内部から知ろうとしないまま、それを「地獄」と呼び、利潤を生み出す平らな農地に作り変えていく、現代に至るまで加速することを止めない南米全体に蔓延る収奪のロジックの荒波の中に、やはり日系移民たちもいた。その中で、彼らは決して耐え忍ぶ受難者たちなだけではなかった、ということもまた否定し難い事実だろう。

リベルダージで日系ブラジル社会の軌跡を追うことで、時代ごとに世界的に発生した大きなうねりの中で、日系移民たちが置かれてきた両義的立ち位置とその複雑性の一端について考えることができた。

史料館で観たことについてはまだまだ語り尽くせないが、最後にもう一つだけ驚いたことを記すならば、第一回芥川賞を受賞したのは、自らが移民としてブラジルに渡り(半年で帰国しているが)農場で働いた経験を基に書かれた、石川達三による小説『蒼氓』(1935年)であるという事実だ。あまりにもアイコニックな受賞歴を持つこの作品が今では日本国内でほとんど話題に上らないことが、日系移民という現象が世界そのものに与えている影響の大きさと、まるでパラレルワールドでの出来事であるかのような不可視性の両極を端的に表している。とにかく、早いタイミングで読んでみようと思う。

リベルダージで見つけた「群馬県人会」。他にも福島県人会や岡山県人会、愛媛県人会などの看板を見つけた。日本人というだけではなく、祖先の出身地ごとにコミュニティを作っている日系ブラジル人たちの強固な結束を感じた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?