1、 わんこの名前は何ですか?

  秋空がきれいに晴れ渡った10月最初の日曜日の午後、ひばりは家にやってきた。短い毛をした茶色の雑種で、まだ2ヶ月にも満たない子犬だった。しっぽがくるっと巻き上がり、おしりの穴はキュッと締まって、喉元から胸にかけての大きい部分が真っ白い毛でおおわれていた。ぱっと見では柴犬に見えなくもないが、じっくり見ると柴犬ではない。柴、紀州、甲斐などの日本犬の純血種と比べると、明らかに耳がオーバーサイズで、目も大きくて丸かった。ただ、それはそうとひばりは、なかなかの犬らしい犬だった。日本の庭先に昔からいた飼い犬。そこら辺をほっつき歩いていた野良犬。日本全国どこにでもいる、けれどどこにも売られていない犬の典型であり、そうした雑多な犬全般に通じる普遍的な資質を備えた犬だった。もしも犬の系統に「雑種」という犬種があったとしたら、ひばりは雑種犬の正統な血を引く後継犬と言えるかもしれない。

 
  ひばりが家にきたワケを説明するのは難しい。犬を飼うのは夢だったけれど、それは「ウチの犬」を妄想して楽しむためのネタとしての夢であり、実現に向けて計画を立てたり準備したりする対象ではなかった。それでもひばりが来る1年と少し前、都会での暮らしに区切りをつけて琵琶湖畔に移り住んでから、犬を飼うということは条件的には可能になった。同居人となった姉(次姉)も大の犬好きだったし、マンションではペットの飼育が許されていて、目の前には広い公園まであった。私たちはよくバルコニーに並んで、散歩にやってくる犬たちを観察した。いつものんびりマイペース、黒柴のクロちゃん。フリスビー大好き、ボーダーコリーのボーダーちゃん。闘争本能ほとんどゼロ、秋田犬のあーちゃん。など。


「さっきエレベーターでエリカちゃんに会ったわ」
 ある時外出先から帰ってくると、姉は「ただいま」と言うよりも先に、エリカちゃんとの出会いを浮ついた声で報告した。私はパソコンから顔をあげることもなく、エリカちゃん? と聞き返した。
「誰やそれ」
「だからエリカちゃんや。エ・リ・カ・ちゃん」
「知らんわ」
「ボーダーコリーのエリカちゃんや」
「えっ、あのボーダーちゃん、エリカちゃんっていうの?」
「そう。エリカって言いますっ!って自己紹介してくれはったんよ。べつに、お名前何ですかって訊いたわけでもなかったんやけど」
「そうか、エリカかぁ・・」
 よい意味で想定から大きく外れた印象的な名前だった。センスを感じるネーミング。その音の響きには、あのボーダーコリーと飼い主との関係性がよく表れているような気がした。そうか、あのボーダーちゃんは、エリカと言うのか。いや、もしかしたら「エリカ」じゃなくて「えりか」かもしれないな。そんな深読みをするうちにふと考えた。犬につけられる名前には、その時々を彩る時代の空気が表れているのではないかと。人の子の名前が、欧米文化への憧れや個性的であることへの欲求を反映して、キラキラの度合いを増していったように。


  昔の犬はエリカなんて名前じゃなかった。シロとかクロとか、ポチとかコロとか、ゲンとかドンとか、チャッピーにラッキー、ポン太にゴン太、それにプラスアルファして、太郎や次郎のようなオーソドックスな和名があるだけだった。犬の名前とはそういうものだったし、それが犬と飼い主との間に敷かれたあの時代の距離感だった。犬という動物に対する世間一般的な眼差しではなかったか。
「エリカかぁ……」
 唸ってしまった。あのボーダーコリーがエリカというなら、うちの犬にもそれ相応の名前を付けてやらなければならない。「エリカ」にも負けないくらい豊かな響きを持つ名前。クロやドンほど遠くもなく、だからと言って信子や幸雄ほど近すぎるでもない、絶妙な距離にある名前。動物病院の待合室で「○○ちゃーん、中村○○ちゃーん」と呼ばれたときに、「はい!」と大きなお声でお返事したくなるような、そんな名前にしようと思った。


  それから数ヶ月が過ぎたある日、私はその名前をユーチューブの中に見つけた。昭和歌謡界のレジェンドが、谷村新司の「昴」を歌い上げている動画だった。曲を作った本人よりもはるかに高い、恐るべき歌唱技術で歌う姿があった。
「美空ひばりにするわ」と私は言った。
「うちの犬の名前はこれでいかせてもらうわ」
 姉は「すごくいい」と言って笑ったが、犬の名前に苗字は要らないのではないかと注文をつけた。
「でも道で名前を聞かれたときに、美空ひばりって言います! ってフルネームで紹介できたら楽しいと思わん?」
「そら楽しいよ。楽しいけど、正式登録される苗字は、やっぱり中村になるんじゃないのかな。それだと中村美空ひばり、みたいになっちゃうんじゃない?」
「そっかぁ・・・。それじゃあ、ひばりでいいわ。シンプルに」
 すると姉は「いい名前やけど」と言って再び注文をつけた。
「メスならいいけど、オスやったらどうするの?」
「うちの犬はメスやから」
「いや、分からんよ。オスかもしれん」
「そっかぁ。じゃあいいよオスでも。ひばりで」
「えっ、オスやのにひばりでいいの?!」
「うん、それはそれで斬新な感じがする。だいたいエリカちゃんだって、ああ見えてオスなわけやし」
「エリカちゃんなぁ。あれはあれでビックリしたけど……」
 その事実に直面したときは、私だって、まさか?! と思ったし、自分の目を疑いもした。女の子とばかり思い込んでいた、あのお上品で聡明なエリカちゃんが、まさか片足を空高く突き上げて放尿するとは思ってもみなかったから。それでも2度、3度と目撃するうちに、そんな光景にも慣れていった。とくに違和感もなくなり、そのうちにはある種の独創性さえ感じるようになった。オス犬にあえて「エリカ」とは、なんて新しい感覚なのだろう!


  犬の名前はひばりに決まった。以来犬を見かけると、ひばりと仲良くしてくれるだろうか、遊んでくれるだろうかと気を揉むようになった。夕飯で残飯が出れば、ひばりにあげたらどれほど喜ぶだろうと思いつつも、泣く泣くクズカゴに放り込んだ。魚のアラや肉の茹で汁はもちろん、カチカチになったパンくずを捨てる時でさえ。
 しかし、これだけの条件が整っていながら、それでも私はまだ犬を飼うということを本気にしてはいなかった。飼える気がしなかった。どうやって飼えばいいのかがよく分からないままだった。マンションの室内で犬を飼うということが、うまく想像できないでいた。
 ひばりが家に来たとして、ひばりは自分の住む家と家周辺のテリトリーとをどうやって認識するのだろう? マンションの一室に住みながら、自分が番犬であることや犬としての役割をどうやって理解するのだろう? 人間と同じ部屋に暮らして、この世界のヒエラルキーや犬社会の秩序をどうやって学んでいくのだろう?


  ひばりには本物の風を全身で感じて欲しかった。絶え間なく変化する風に、この世の中の雑多な色を嗅ぎ取って欲しかった。風が運んでくる音をしっかりと聞き分けて欲しかった。なぜなら、主人が帰宅するずっと前からその気配を感じ取り、今か今かと待っている、それが犬というものだから。それが私の知っている「犬たち」の姿だったから。だから、ひばりから風を奪ってはいけない。
 自分の中から消えることのない遠い昔の「犬たち」の記憶が、マンションに暮らす今の私を「犬」から遠ざけ続けていた。犬が好きだった。だから今は、犬を飼うことはできない。

つづく

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中村安希

ひばりの家

子犬を1匹引き取りました。ひばり、という名の雑種犬です。犬のいる暮らしについて、少しずつ書き進めていきます。どうぞよろしくお願いします。インスタ:https://www.instagram.com/hibari_nakamura/
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