5.  俗に言う「犬好き」とは・・・

  子犬を見ていた時と比べて、成犬はその十分の一ほどの時間であっという間に見終えてしまった。飼育頭数では子犬を圧倒しているとはいえ、実際に見ることが許されていた成犬は、ごく一部の良犬に限られていた。そしてそのほとんどは、門のところで待っていたときに見た犬だった。門からは見ることができなかった部分、すなわちエリート犬たちがいる中庭のさらに奥の敷地にもたくさんの犬舎が並んでいたが、そこへの入り口は閉じられていて、柵には張り紙がしてあった。
『ここへは入らないでください。咬む犬がいます』
柵のこちら側に立ったまま、あちら側の世界を眺めた。ずらりと並ぶ犬舎。そこで淡々と暮らす雑種犬たち。年老いた柴犬のように見えるその子も、口の周りが黒いあの子も、どこかで見たことがあるような、遊んだことがあるような、そんな犬ばかりだった。わずか二十秒かそこらのことだったけれど、その時によぎった思いを言葉にするのは難しい。頭も、心も、すっぽ抜けてしまったような感じだった。あちら側にいる犬たちといったら、文字通り「気が遠くなるような」数だったから。

  たとえ咬むような犬でも、ここに置いてもらえるうちは、なんとか生きていくことはできるわけで、とりあえずはこれでよかったのではないか……。あちら側の世界を前にして、妙な安心感を覚えたりしたのは、その光景がほのめかす現実を真正面から受け止めるのがしんどかったからかもしれない。あるいは、成犬を一頭引き取ったくらいでは焼け石に水だ、と言われてしまったような、ちょっとした虚しさがそんな気にさせたのか……。
 犬に咬まれても、その犬を好きでいられる自信はあった。実際に、犬に咬まれたことがある「犬好き」は、世間が思う以上にたくさんいる。ただし、咬み癖がある犬を引き取るには、それなりの覚悟がなければできない。自分が咬まれるのは構わない。厄介なのは、自分の家族となった飼い犬が、他人やよその大切な犬を傷つけてしまうかもしれないことだった。

 「どうする?」
成犬を見終えて戻ってきた姉に、私は話しかけた。姉はカラッと乾いた声で、私はどっちでもいいよ、と言った。とりあえず色々な犬たちに会えて、今日は楽しかったのだろう。その先のことなど全然考えていそうもない彼女の能天気さは、私を落ち着かせもする反面、イラっとさせることも多い。姉の言う「どっちでもいい」は、成犬でも子犬でも、犬をもらってももらわなくてもいいという意味で、要するに全ての判断を私に委ねるということだった。
「まあ、またいつでも来られるし、今日は見せてもらうだけでもいいけどね……」
 姉は、うん、また来ればいいんやし、と私の言葉をリピートしただけで、適当に目に止まった犬とすぐまた遊び始めた。
「ほれほれ、こっちおいでー」
 隣のケージで2匹の雑種が戯れていた。生後5ヶ月頃の顔立ちだったが、成犬に混ざるとまだまだ若く、その毛ヅヤや体格に加え好奇心いっぱいの姿からも、醸し出す雰囲気は子犬だった。それなのに2ヶ月の子犬と比べてしまうと、もう立派な大人に見えてしまうのだから、自分の目のでたらめさには我ながらうんざりしてしまう。加えて、幼さによって演出された「手放しのかわいさ」にいとも簡単に惑わされてしまった事実には、輪をかけてうんざりさせられた。
 俗に言う「犬好き」とは、成犬が好きな人を指す。ただ子犬が好きなだけ、という人を犬好きとは言わない。そして私はこれまでずっと「犬好き」を自負してきた。だからここへきて、子犬に目がいってしまうこと、つい2ヶ月の子犬に目移りする自分自身には、ちょっと裏切られた気分だった。
その点で姉にはブレがなかった。単に何も考えていないだけとも言えるが、こうしたいという希望が少ない分、どんな結果にも抵抗がなく、成り行きに任せられる楽天さがある。「もし貰うとしたら」と私は言った。
「あの端っこにいた白茶かな……。もう、貰われてしまったかもしれんけど」
「ああ、あの子ね。元気いっぱいやったし、もう一回見てみる?」
「お姉はどう思うの?」
「えっ、私は別にどっちでもいいよ」
「うん……」
「あらあら、シロちゃん。また会いに来てくれたん。ほら、わたしシロちゃんでーす、よろしくね、って言ってるよ」
「……」
「クンクン、クンクン。シロちゃん匂い嗅ぎ嗅ぎしてますよー」
「どうしたらええんやろ……」
「えっ、私はどっちでもいいわ」
「どっちって、何?」
「あんたの好きにしたらいいよ。おーほらほら、クロちゃんとも仲ようせなあかんよー」
 私は空を見上げた。あれほど青かった空は、すでに色を落とし始めていた。いつの間にか、ずいぶんと日が短くなった。日が落ちる前に、そろそろ決断を下さなければいけない。
「そんなら、もう一回だけ最後に子犬を見せてもらって、今日はそれでおしまいにしよか」
「うん、そうしよう」

  白茶がいるケージの前には、やっぱり誰もいなかった。正直に言うと、誰もいなくてホッとした。売れ残っている残念感より、まだ残っていたことへの安堵の気持ちが、3度目にして初めて勝ったのだった。人気の子犬がいなくなり、やや殺風景になった部屋の中で、その白茶は一層目を引いた。そして私は、この段階になってもう一度、自分のデタラメな視覚に翻弄されることとなった。
 この子は今まさに「旬」を迎えているじゃないか! と、思ってしまったのだ。おかげで動揺も激しくなった。自分でもどうしたいのか分からなくて、ただただ犬をじっと見つめた。
 足の先だけちょこっと白く、耳の先がちょっとだけ折れて、への字の眉根が膨らんだ犬。白足袋、耳折れ、四つ目の雑種……。
「この耳はそのうち立つかもね」
「うん、立ったらでっかい耳になるやろなぁ」
 耳の大きい犬も、小さい犬も好きだった。耳の立った犬も、垂れた犬も、折れた犬も好きだった。白足袋を履いた犬、四つ目の犬が好きだったし、黒茶も、白茶も、濃茶も、ブチ柄も、とりあえず全部好きだった。そして何より、どこの馬の骨とも分からないような雑種犬が、私はとても好きだった。
「出たくて出たくて、しょうがないって感じやな」   
 姉が笑って言った。白茶の子犬は、金網によじ登り、ケージを突き破らんとばかりに中で暴れ回っている。落ち着け! と犬にではなく、心の中で自分に言った。何も今日、迷いのあるこんな時に無理に決断しなくても、また二週後にじっくり検討すればいいのだから。姉がまた可笑しそうに言う。
「ここから出して〜、って言うてるわ」
 二週間後には、もうこの子はいなくなっているだろうか。いや、むしろこの子は、二週間後もここに残っているのではないか。今日というチャンスを逃したら、完全に行き遅れてしまうのではないか。そして、何よりも一番怖れたのは、二週間分大きくなった同じ犬に対して、自分がその時何を思うか予測できないことだった。新たに施設に持ち込まれる「可愛さ真っ盛りのほやほやの子犬たち」に囲まれて、それでもその時、もう一度、この白茶に旬を見いだせるかは分からない。
 金網に胸を押し付けるようにして、犬が網の隙間から両前肢をこちらに突き出してきた。
「連れてってーー、って言うてるわ」
 姉の声の残響がまだ引き切らないうちに、背後でトドメのささやきが聞こえた。
「よかったら、抱っこしてみますか?」

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中村安希

ひばりの家

子犬を1匹引き取りました。ひばり、という名の雑種犬です。犬のいる暮らしについて、少しずつ書き進めていきます。どうぞよろしくお願いします。インスタ:https://www.instagram.com/hibari_nakamura/
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