7. 捨てられる犬、拾われる犬

 「最後が12月2日です。この4回目のワクチンが終わるまでは、犬を外へ出さないでください」
 テーブルの向こうで説明を続ける理事長の言葉を聞きながら、私は約束事が書かれた用紙を視線の先なぞっていった。散歩はどうするのだろう? 運動は? 排泄は? 社会化は? しかし、喉元まで出かかった数々の問いを飲み込んで、私は神妙にひとつ頷いた。こちらの戸惑いを察したのか、理事長がすぐに言葉を継いだ。
「なぜかというと、外を散歩中にほかの犬のおしっこをペロッと舐めたりするとがあるんです。その犬がたまたま菌を持っていたりすると怖いんで。とくにこのパルボウイルスというのは非常に怖いですから。気を付けて欲しいんです。それから12月末になりますが、4回目のワクチンが終わったら狂犬病の注射をしてください」
 子犬に5回もワクチンを打つこと、生後3ヶ月半までは一切外に出せないこと、加えて生後5ヶ月ごろまでに不妊手術を終わらせること。初めて知ることばかりだったが、私たちは口を挟まず、すべての条件を受け入れて、必要書類にサインした。相手は自分たちの「誰よりも深い犬への愛情」を決して疑うことのない動物愛護団体である。変な持論を持ち出したりして少しでも不審に思われれば、譲渡を拒否されてしまうだろう。そんな緊張を感じつつ譲渡金を払い終えると、ともかく契約が成立したこと、あの白茶のじゃじゃ馬を譲ってもらえることが、なんだか奇跡のように思えた。

  閉会時間が近づいていた。子犬たちがいたプレハブ小屋の中にも、もう昼間の賑わいはなかった。スタッフは残りの業務に追われ、誰もがとても忙しそうだ。私たちは「ひばり」が待つケージの前で受け渡してもらうのを待つことにした。すると近くにいた男性が、残念そうにスタッフと話し込む声が聞こえてきた。その紳士には見覚えがあった。ボーダーコリーとお試し散歩に出かけていった、あの一家の主人だ。
「思っていた以上に引っ張りが強くて、私でまあ、なんとか、いっぱいいっぱい。妻や娘ではとても無理という感じでして。私たちもなんとかねぇ、と思ったんですが。残念ですけども今回は……」
 閉会間際のこの時間まで、ずっと迷っていたのだろう。頭を下げるスタッフと一緒に、自分まで頭を下げそうになった。それにしても、である。お試し散歩に出ていったあのボーダーの姿を思い返すと、ため息しか出てこなかった。あの時、私と姉は思わず顔を見合わせて苦笑してしまったほどだったから。
「ボーダーでも、あんな行儀の悪い子もおるんやなぁ」
「エリカちゃんと比べると、余計になぁ……」
 ボーダーコリーは、数ある犬種の中でも一位二位を争う高い知能を持ち、また運動能力も抜群に高い。だからトレーニングをきちんとすれば、飼い主のコマンドに忠実に応える優良犬へと成長する。その一方で、その能力の高さゆえに飼い馴らすのは簡単ではない。主従関係をしっかり教え込まないと人間を見下すようになり、ナメた態度をとるようになる。そうして飼い主の手に負えなくなった「期待はずれのボーダー」が手放されてくるのだ。この一家は、そんないわく付きのボーダーを引き取ろうと、見に来てくれた人たちだった。

「この子の病気は治るんですか?」 
 今度は奥のケージの前から、別の女性の声がした。スタッフが覗き込んだケージの中には、あの皮膚病を患った垂れ耳の犬と、もう1匹同じ病気を抱えた兄弟犬が入っていた。治療の困難さと金銭的負担を理由に、私たちが引き取りを見送った犬たちだ。
「皮膚病にも種類がありますけど、この皮膚病は治るタイプのものです。きちんと治療すれば完治しますよ」
「それじゃあ、いただいていきます。2匹一緒に」
 姉がこちらを振り返り「もらわはるって」と目を丸くしてささやいた。
「しかも2匹とも!」
 ペットショップではまず見ることのできない犬をめぐるドラマ。旬の子犬が選び放題だった前半戦とは、また一味も二味も違う空気が、閉会間際の小屋にはあった。争奪戦から連帯意識へ。早い者勝ちではなく、残り物に副を見つけ出そうとするもう一つの価値観へ。その光景は、私をもう一度アンケート用紙の冒頭の問いに立ち返らせた。

 なぜ里親になろうと思ったのか?

 番犬が欲しい。愛犬を亡くして寂しい。しかしこの段になって思い出したのは、それらとはまた別の答えだった。

 【動物愛護支援のため】

  選択肢にそれを見つけた時は、さすがに違和感があった。私が犬を飼うのは、ただ犬と一緒にいたいからであって、犬を救うためではない。ここへ来る犬好きの中にも、「愛護」や「支援」という言葉に意図を超えた「意味づけ」を感じ取り、戸惑う人はいるだろう。しかし同時に、ここに来る人たちにとって、一緒にいたいと思う犬が「行き場のない犬」であることも事実らしく、少なくとも私たち姉妹にとって、その条件は疑う余地のないものだった。行き先のある犬は、よかったなぁ、と気持ちよく送り出してやればいい。しかし行き先がないのなら、ぜひウチに来てくれないかと思ってしまう。

 場の雰囲気に押されたせいもあるのだろう、ひばりの受け渡しにきたスタッフに、気がつくと「あの猟犬」の話を振っていた。男性のスタッフは少し考えてから、はいはい、と言った。
「トトラ。トトラのことですよね」
「あっ、トトラちゃんっていうんですね。あの、手の先が少し潰れてしまっている」
「そうなんです。あの子は山の中でトラバサミにかかってたところを保護されたんです。たぶん猟に来ていて、獲物を追ってるうちに誤って挟んでしまったんでしょうね」
 ということはつまり、仕事中に起きた事故のせいで、飼い主とはぐれてしまったということか……。
「それなら今頃、飼い主さんが探されてるでしょうね」
 と私が言うと、スタッフはやや厳しい口調で間髪を入れずに「いや、全然」と言った。
「猟犬なんてそんなもんですよ。呼んで戻ってこない犬なんか探しもしないです。まして怪我なんかしてたら使い物にならないし、捨てていくだけです」
 話を聞いてピンときた。プロットハウンド。それがトトラの犬種だ。友だちの家にも同じような犬がいた。優しい目、穏やかな性格、人をじーっと見上げる仕草。まさに同じ犬種だ。その犬は、黒に微かなトラ模様のある「アスー」という名の猟犬で、同じく山に捨てられていたのを友人夫妻が引き取った。狩猟の第一線で活躍するにはアスーは年を取りすぎていたし、未完治のフィラリアも患っていたから、きっとトトラと同じように用済みと判断されたのだろう。

 スタッフによると、トトラはもうこの施設に来て一年ほどになるという。
「マンションじゃなかったらウチで引き取るんですけど。あんなにもいい犬なのに、もらい手つかないですか……」
「障害のある犬ですし、なかなかね。気にされる方もいますからね」
「むしろ全力で走ったりしないから、散歩しやすいと思いますけどね。性格もあれだけ安定してると、飼うのも楽だと思いますし」
 スタッフは、本当にね、と、もどかしそうに言った。
「成犬の方が本当は飼いやすいんですけどね」
 彼の言う通りだった。子犬の頃から育てた方が躾がしやすいという考えもあるが、犬は成長期を過ぎるまでは落ち着きがなく、何かと手を焼かされることも多い。それが2歳ごろを過ぎると、気持ちにも余裕が出てきて、行動パターンも安定してくる。飼い主の気持ちや身の周りの状況がよく見えるようになってくるのだ。それに子犬でなくとも、犬は何歳になっても新しい飼い主になつく。子犬のようにただコロコロと無邪気なだけでなく、成犬は新しい主人にきちんと注意を向けてくるし、家族としての関係を結ぼうと歩み寄ってくる。成犬は人を見ている。いろんなことが見えている。だから、飼いやすい。
 スタッフは、ひばりを入れるダンボール箱を取りに小屋の外へ出ていった。推定年齢4歳。トトラなら何もしなくてもウチでの暮らしに馴染むだろう。しかし……。私はケージの中で暴れる新しい家族をじっと見つめた。さしあたっての問題は、この2ヶ月に満たないじゃじゃ馬だ。

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中村安希

ひばりの家

子犬を1匹引き取りました。ひばり、という名の雑種犬です。犬のいる暮らしについて、少しずつ書き進めていきます。どうぞよろしくお願いします。インスタ:https://www.instagram.com/hibari_nakamura/
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