6. なぜ里親になろうと思ったのか?

 仮契約を終えて中庭へ出ると、私たちは必要な書類を持って本契約に進んだ。会場となる主屋の前には、手続きを待つ人たちが既に4組ばかり並んでいた。最後尾に加わり、空いたいすに座って中庭の犬たちを漠然と眺めていると、ふと、奥の方から視線を感じた。中庭に島のように据えられた二列のケージの奥の列、こちらから見て、島の向こう側に並ぶケージの中から、耳の垂れた茶色い犬が私の方をじっと見ていた。
「あそこに猟犬みたいなのおるけど、違うかな?」
「どれ?」と言って、姉が私の指先の方へ目を凝らした。
「そこ、手前にビーグルがおるやんか、その奥。向こう側のケージで見えにくいけど、分からん? ほら、こっち見てるやん」
「あっ! ほんとや」
 姉は「ちょっと見てくるわ」と言い終えるまでもなく、島の反対側へと急いだ。耳の垂れた洋犬は、彼女の好みのタイプだ。姉はケージのそばまで行くと、そこへしゃがみこみ、熱心に犬に構い始めた。

 譲渡が成立したらしく、ひと組の家族が帰っていった。前の人たちに続いてひとつ分席を詰めると、私が空けた席に、後ろからきた女性が腰を下ろした。あと3組で私たちの番がくるというのに、姉は犬を見に行ったきり、なかなか帰ってこなかった。私だって犬を見たいのに、何をもたもたしているのだろう。長いような短いような、落ち着かない時間が過ぎていく。
「めっちゃくちゃ性格のいい、おとなし〜い子」
 ようやく戻ってきた姉の声は、案の定浮ついていた。
「もうドンピシャで目が合ってしまったわ。呼んだらスーッとこっちに来てくれて、でも前脚をケガして」
「ええからここに座ってて。見てくるから」
 持っていた書類を姉に押し付け、私は小走りで裏手に回った。さっき成犬を見て回ったときに、なぜ気づかなかったのかと首を傾げたくなるほど、その犬は確かなオーラをまとい、スッとこちらに近づいてきた。吸い込まれてしまいそうなほどきれいな瞳をした犬だった。ゆったりと品のある動作あり、鼻先を静かに近づけてくる愛嬌あり、耳の垂れた犬がもつ純真さに心をさらわれた。私は携帯を取り出して、犬の写メを何枚か撮った。細身とは言え脚はすらりと長く、ポインターだったか、ハウンドだったか、ともかくそういう系統の猟犬の体つきをしている。茶系の虎毛は初めて見たが、よく似た被毛の猟犬を数年前に見たことがあった。交通事故にでもあったのだろうか、犬は跛行していた。よく見ると、左前肢の指がなく、先の方が潰れて丸まっている。私はもう一枚写真を撮ってから、急ぎ足で列に戻った。姉は、もう一回見てくる、と言い残して、また犬の元へと戻っていった。ケージの向こう側に、犬と見つめ合う姉の姿が見えた。その光景を眺めるうちに、アンケートで聞かれた最初の問いを思い出した。

 なぜ里親になろうと思ったのか? 

 なぜと聞かれても難しい。犬を飼うことに理由がいるなら、とりあえず「番犬が要るから」と答えるのが正しいように思えた。犬とは家人を守り、門番をする動物である。少なくともウチにくる犬には、そういう距離感を求めてきたし、そのスタンスを今さら変えるつもりはない。ただ意外にも、里親になろうと思った理由は一つではなく、あとから丸で囲んだ理由が他にもあった。選択肢にそれを見つけるまでは考えていなかった理由とは言え、結局はその答えが一番核心を突いている気もした。

【愛犬を亡くして寂しいから】

 姉はケージに張り付いたまま、立ち上がろうとしなかった。犬はケージに寄り添ったまま、どこへも行こうとしなかった。またひとつ譲渡が決まり、私は席をひとつ分詰めた。あとひとつ席が空けば、次はいよいよ私たちの番だ。
 気持ちがぐらつき、どうしたらいいか分からなくなった。マンションで飼える犬のサイズは10キロ程度まで、または脇下から地面までの腕の長さが50センチ以内と決められている。もちろん、子犬の時に飼った犬が予想を超えて成長し、10キロを多少超えた場合は仕方がないとされてはいるが、いくらなんでもあの猟犬では無理だろう。細身とは言え、体重も20キロはありそうだったし、腕の長さも50センチを超えている。あんなにも性格がおとなしく、優しい心を持った犬でも、犬が嫌いな人にとっては猛獣でしかないのだろうか……。私は犬が好きすぎて、嫌いな人が感じる恐怖をきちんと汲み取ることができない。犬のどの辺がダメなのか、なぜ10キロまでなら大丈夫なのか……。

 10キロという制限は、例えば成犬時の体重が8〜10キロとされる柴犬あたりが一つの目安と考えられる。ただ、犬である以上個体差は大きく、被毛がふさふさした犬は体重以上に大きく見えるし、犬の体重は年齢によっても変化する。柴犬でも大きい犬では20キロを超える個体もあるし、若い時には荒々しかった8キロ前後の細身の犬が、中年太りで10キロを超え、その分気持ちに余裕が出てきてすっかり丸くなることもある。さすがにドーベルマンや土佐犬がマンション内をウロウロしていたら不安になってもおかしくないが、そういう特殊な犬種でなければ、犬の危険度を測る上で体重はあまり参考にならない。心に深い傷を抱えた7キロぐらいの豆柴と、しっかりと躾のゆき届いた35キロのレトリバーなら、脅威になるのは前者の方だ。だからあの猟犬は本来ならなんの心配もいらない。加えて脚が不自由なせいで、勢いをつけて走ったり飛びかかったりすることはおろか、機敏に動くということ自体が身体的にできないだろう。
 姉はケージの前で固まったまま、そこから動こうとしなかった。書類を持つ手が汗ばんだ。あの犬を残して帰るなんて、そんなことができるだろうか? あらゆる妄想と解決策が目まぐるしく脳内を駆け巡る。あの猟犬の穏やかさなら多頭飼いでも問題ないし、むしろ、仮契約を終えたばかりのあのやんちゃな子犬の良きお手本となるだろう。スタッフの説明によれば、あの白茶の子犬は「柴犬よりはやや小さい犬になる」らしいから、サイズ的な問題はない。とは言え、あの性格だ。だから、温厚な大型犬が子犬の頃から側にいて遊び相手になってやり、犬としての振る舞いを教えてやってくれたなら、どれほどありがたいだろう、と思うのだ。

 姉が静かに立ち上がり、こちらに歩いてくるのが見えた。いや無理だ、あれだけ大きなサイズの犬をマンションに持ち込むことはできない。けれど、あの猟犬をここへ置いて帰るというわけにも行かない。それならばどこか別の場所で飼うことはできないか? あの犬は優しい。そして走れない。だから、子どもや年寄りでも安心して散歩に連れて行ける……。
「丸の内のマンションは大型犬はあかんの?」
 戻ってきた姉にそう聞くと、姉はすぐに意を汲んで「聞いてみるわ」と携帯のアプリを開いた。三重県にある実家のマンションは、私たちが住むマンションよりももっと広いと聞いていた。
「写真も送っといて」
「もう送った」
 両親が犬を欲しがっているかは分からなかった。どんな風に暮らしているかも実はほとんど知らなかった。両親と疎遠になって、この冬で9年になろうとしていた。実家と行き来のある姉によれば、かつて私たちが暮らした一軒家はすでに他人の手に渡り、両親は市内のマンションで快適に暮らしているらしかった。9年という歳月が、両親の生活に、健康に、そして考え方にどれほどの影響を及ぼしたかは私の知るところではない。ただ、9年分年老いた。それだけは確かだ。
 母はあの猟犬をきっと「要らない」と言うだろう。父は母の決定をほとんど無言で受け入れるだろう。それでも、あの犬の写真を目にすれば、両親はどちらも心を揺さぶられるに違いない。
 また一つ家族が去っていき、私たちは最前列に移動した。姉は何も言わなかったし、私はあえて尋ねなかった。姉の本心を聞き出せば、収拾がつかなくなりそうだった。今の迷える自分なら、せっかく結んだ仮契約を白紙に戻してしまいかねない。終わりのない問答が、頭の中をかけめぐった。これでいいのか? 白茶でいいのか? 本当に、心から、後悔しないと言い切れるのか? 

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中村安希

ひばりの家

子犬を1匹引き取りました。ひばり、という名の雑種犬です。犬のいる暮らしについて、少しずつ書き進めていきます。どうぞよろしくお願いします。インスタ:https://www.instagram.com/hibari_nakamura/
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