「障害受容」という言葉の身勝手さ

今日は仕事にて専門家の方々とディスカッションをする会。多方面からアドバイスをくださる方々がいることがものすごく心強い。「中」にいるとその中でしか考えられなくなるから、定期的に「外」から違和感を言ってもらえることは超大事。対等に、よりよくするための議論を、まっすぐできる、そういう関係性はわたしをいつも救う。

終了後にお茶をしている時に、「障害受容」という言葉の身勝手さについて話した。
思い出したけれど、わたしは学部時代から「障害受容」に関する研究が嫌いで、学会のポスター発表で見つけると、つっかかっていた気がする...(ツンツンしてたあの頃の話)

いまでも「あの保護者は、あの人は、障害受容ができていない」という言葉を聞くとプッツンしそうになる。

その言葉は、まるで「障害」を「受け入れる」ことのみが善であること、そして「受け入れ」ていないことはその人が悪いかのような、そして「受け入れ」ないと、支援ができないような、そんな印象を与える。上から目線極まりない。そもそも何をもって「受け入れている」と定義するのだろう?どう評価するの?

困難さは関係性の中にある。しんどい状況があるのであれば、その背景にわざわざ「受容している」「していない」と評価することに意味があるのか。
仮に定義を示し評価するとしても、その「受容していない」要因は確実に環境にある。保護者やその人を責めるのではなく環境へ働きかけたい。

そして、「障害」に関わらず、そもそも人は「受け入れる」ことは難しいことを前提としておきたい。
あなたも受け入れられないなにかがあるはず。わたしも受け入れられないなにかがある。
目を背けたいなにかがある。逃げたいなにかがある。
それを他者から「受け入れられてないね!」と言われ「受け入れましょう!」と言われて果たしてなにかが良い方向に変わるのだろうか。

※写真はオランダ。

#障害 #支援 #コラム #支援観 #インクルージョン

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野口晃菜

あたし論

インクルーシブな社会のための研究・実践をするなかで、考えたことを整理するために書きます。 ※個人の意見であり所属する組織と関係ありません。
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コメント3件

多数は少数を受け入れるべきだという、理由ない観念がはびこっているのでしょうね。で、その観念に従わない人は多数決の原理で抹殺する、と…。
受容なんてあり得ない、障害者当事者としてそれは痛いくらい感じています。福祉職の人々の間で交わされる言葉としてそういうのがあるのだなと理解は出来ますが…受容ってなんだ?が当事者としては本音、どこまで『して上げている』の上から目線の言葉なんだろうって…障害は受容よりもせめてもう少しは理解して欲しいだけ、それと支配はやめて欲しいだけ 今の日本で少数派を受け入れなければ抹殺なんて事態もあるのかなぁ…逆に少数派は声すら届きません不適切なことを明々白々にされて訴えたくとも泣き寝入りが立場上 既設されてしまっています。
何回泣き寝入りを強いられたか解らないほど…少数派だから特別扱いしてくれよとも言っていない、でも障害ゆえの苦しみや生きづらさは軽んじられたくもない でも云えば云うほど我が儘だ甘えてるだになる、だから誰もシンドサを云えなくなってゆく、完全に同等なんて無理だと感じます、だけど受容なんてあり得ない、それが出来ているかそうでないかより私は受容なんて出来ない出来てはいないと頭の隅っこで解った上で同等じゃなくても接してくれる方々は有り難い…残念ながらそんな方々は今のところ逢ったことがありませんが…。
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