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不要と感じる我慢はしないことにした

私はいわゆる「過剰適応」をしがちな傾向がある。周りの人がどう思っているか、感じているかを読み取ることが得意で、その場で目の前の人に求められている行動をとりがち。そしてあとから「本当はそう思っていなかったのに」と後悔する。結果、断り下手ですぐになんでも相手のニーズに自分で答えようとするし、そこに問題があったら解決しなければと過剰に思う。

そしてもう一つやっかいなのが、過剰に適応しようとする一方、こだわりがものすごく強い。全てにおいてこだわりが強いのではなく、とりわけ自分が強く信念を持っていること、「障害」「支援」「教育」に関することに対して、ものすごいレベルでこだわる。使う言葉一つひとつが気になってしまう。これを見て見ぬ振りをするのは、私には本当にできない。違和感を感じたらその違和感は解消したい。自分が「間違っている」と思うことに自分が協力していたり、その一部である、ということがものすごいレベルで許せない。年々それは強くなっている気がする。不要だと感じる我慢を強いられることへのストレスが半端ない。

この「過剰適応」と「こだわりを貫く」の両方があることにはだいぶ苦しめられてきた。どちらかに必ず偏ってしまう。過剰適応に偏ると、こだわりたい私が無視されて、不要な我慢をしすぎて完全に無気力になる(一昨年はそれで初めて会社に行けない時があった)。「こだわりを貫く」に偏るとどうしても周りの人と支配関係になりがち。去年は、一昨年「過剰適応」に偏りすぎたこともあって、私も周りも心地よいやり方で「こだわりを貫く」、というか本来自分が望んでいることに忠実であることを心がけた一年だった。

好きなものを好きと言い、嫌いなものを嫌いという。おかしいと思うことはおかしいと思う、と伝える。やりたいと思ったことを伝える。

でも、関係が近くなりすぎると周りも私も傷つけてしまいがちなので、なるべく物理的に距離を置いた。私は見えてしまうと気になってしまうから(自分の苦手なことでも気になると無視できないし責任を感じてしまう)、距離を置くことで見なくても良いようにした。出る会議の数を圧倒的に減らし、メールで済むものはメールにして、リモートでオンライン会議をよくした。過剰適応に陥らないように、自分が不要だと思う我慢をしないようにした。「距離を置く」は去年のキーワードの一つ。

そして、自分が本当に見るべきものを見るように、外へたくさんでかけて、これまで見ることのなかった世界をたくさん見た。

その中でも自分にとって去年大きかった出来事は少年院に継続的に関わったこと。月に3-4回学習支援をしたり、いろんな少年院で研修をしたり法務教官のみなさんと話した。その背景には貧困、親子関係、障害、など多様なことが絡まり合っていて、あらためて公教育と福祉の役割の大きさを感じた。だいぶ問題が整理されてきて、やるべきこともわかってきたので、今年も継続して関わりやるべきことを進めていきたい。

もう一つは公教育とのプロジェクト。正直これまでなんども公教育との共同研究を試みたが、私の未熟さもありなかなかうまくいかなかった。公教育をよりよくすることはもはや無理なのでは?と諦めかけたところに素晴らしいご縁をいただき、共にプロジェクトを進めることができている。今年もとっても楽しみ。

この二つのプロジェクトを通して、公教育と福祉をより良くするための具体的なアイディアがどんどん出てきているし、知りたいことがたくさん出てきている。私はやっぱり行動して、実践することでアイディアが湧き、どんどん元気になる。そして、理想を語ることではなく、実態をつくることに自分は一番重きを置いていることを再認識した。

そして、去年一番の気づきは、自分はこれまでだいぶ「強者の論理」で生きていたということ。選択肢がない人には作ればいい、と思っていたけれど、作るだけじゃ難しいということや、そもそも選択の余地がないということがどういうことか、ようやく腹落ちしつつある。本当に痛みを感じている時は、取り乱すしかないということもよくわかってきた。忘れてはいけない気づきにたくさん出会えた。

ようやく乗りこなせてきた感がしている。33歳半にしてようやく。

今年はもっと不要な我慢をしないで、自分の大切にしたいことを大切にしていこうと思う。

写真はばあちゃん(96)の塗り絵シリーズ。

#note書き初め #日記 #コラム #自分研究

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