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「助けること」が「よりどころ」になっていないか?

昔読んだ中島らもの本(どの本か忘れた)に、「誰もが何かしら穴を抱えていて、その穴を埋めることに必死になっている」と書いてあって、妙に納得した。安部公房の本にも、「1%ずつ何かしら『異常』な人がいて、全て合わせたら全員が『異常』」と書いてあって、これも納得した。
つまり、全員「なにか」に依存しているし、依存する「なにか」を常に求めている。「よりどころ」探し。

そのよりどころが社会的に適切か不適切かが違うだけ。仕事、スポーツ、お金、お酒、タバコ、薬物、恋愛、注目を得ること、収集、芸能人、アニメ、ゲーム、宗教、など。

私は確実に仕事だな...

特定のよりどころを「悪いこと」として辞めさせても次の「穴を埋める方法」を見つけるだけになる。ただ辞めさせるのではなく、より社会的に適切なよりどころを見つけたりそれに夢中になれる経験が必要だったりする。

仕事がよりどころというのは社会的に適切か?というと、それだけだとあまり適切じゃないのかな。ワーカホリックとか。

特に私の仕事である直接的や間接的な対人援助においては自分の仕事をよりどころにする危険性を自覚しないとまずい。

対人援助職は「相手を救う」とか「助ける」とか「感謝される」ことがモチベーションだったりする。それはそうだと思う。特に一般的に「弱者」や「マイノリティ」といわれる方々が被支援者の場合、「救いたい」「助けたい」と思い、実際にそれでその方に感謝されると「自分がいたから」「自分の支援が良かった」と喜ぶ。これがいきすぎるとまずい。例えば自分の思い通りに支援が進まなかった時、支援は支配に切り替わる可能性が十分にある。

そういう意味で、特定の支援者が関わることで被支援者が「変わった」ことを必要以上に美談にしたり、「神格化」「カリスマ化」することは非常に危険だと思う。

体罰や虐待と「良い支援」や「良い指導」といわれる関わりは紙一重。体罰を受けた子どもが「でもあの先生は良い先生だった」と言う。支配されてしまっている。「カリスマ」からそのような「指導」「支援」を受けることがあたかも特別なことかのように感じてしまうのか。

「昔は悪かったのにあの先生に出会って変わった」「○○先生の学級経営は魔法のよう!」と美しい感動ストーリーを描く文章や書籍を読むと私は怖くなる。「いやいや、それは支援じゃなくて支配でしょ、、、」と思う話も多いし、実際に講演を聞いてそう思ったことも多い。たしかにカリスマ性はあるだろうし、子どもがその先生の関わりで「よくなった」ように見えるのもしれないけど、それ、自己決定を促しているようで、誘導尋問みたい...とか...でもそれをみんな「すごい!」って言っていて、怖い。だれもその人に言えないのかな?と思う。
そして自分はそうなっていないか?ととても不安になる。

被支援者が自分との関わりによって「よりよくなる」ことを、自分の穴を埋める作業にしているのか?せめて自覚したい。

相変わらず乱文。

写真はばあちゃん(もうすぐ97)の塗り絵シリーズ。

#対人援助 #対人支援 #教育 #福祉

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