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一生分の母の願いを叶えるには、わたしは世界の中心で愛をさけぶ、しかなかった。

7月上旬に母の手術が決まった翌日。

「入院前にみんなで旅行に行かない?」と姉が佐藤家LINEで言った。(私の旧姓は佐藤です)

近場でのんびりがいいよね、と思って淡路島辺りを想定していて色々調べていたんだけど、母がポツリとわたしに聞いてきた。

「明奈が前に言ってた沖縄の島ってどこだっけ?」

「宮古島?え?宮古島行きたいの?」

母は、うーん…と言うだけだった。

母はこうしたい!とかわがままを言ったりしない。自分が行くと言って迷惑かけたくないから、強く行きたいとは言わないんだろうなと思った。

そして偶然にも姉から、「ねー、沖縄とかどうかな?」と提案が来た。

私「お姉ちゃんが沖縄どう?って言ってるよ。どうする?遠いしちょっと心配だけど…」

母「近場だったらまた行けるかもしれないけど、遠出の旅行はもしかしたらもう行けないかもしれないから…沖縄いきたい。」

実は天気予報は雨だった。それでも普段わがままとか、こうしたいを一切言わない母が意思を伝えてくれたから、よし、行こう!と決意した。

親孝行はいつかじゃなくて、できる時に。

そうと決まったらすぐ姉家族と予定を合わせて、半日かけてフライト、ホテル、車を手配。孫たちも合わせるとまぁまぁな人数で、でもできればみんなで一棟ヴィラに泊まりたいというリクエスト。小学生と中学生の子供と病気の母と姉と私。それぞれ住む場所も違って、どうやって合流するか向こうで何をするかを決め、いろんな制約条件が出てくる度に一つ一つクリアしながら頭フル回転で段取りして。こういう時、自分がイベントの仕事してて良かったと心底思う。じゃなかったら間違いなく途中で折れてた。笑  

なんだか状況は全然違うけど、「世界の中心で、愛をさけぶ」気分だった。

いつの日も、いつか、は、今だ。

わたしが人生の節目のたびに行く宮古島。
私にとっては第二の故郷みたいに大切な場所。

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学生時代、就職前、結婚前、初めてのグレートジャーニーと。2007年から今回で5回目だけどいつも一人旅で、1泊1800円のゲストハウス滞在だったから、このタイミングで母と娘、そして孫たちまで一緒に、家族三世代で行くことになるとは思ってなかった。

島がきっとエネルギーをくれる。これも何かの縁だと思った。

そうやって旅行に行こう!と話した翌日に全てを手配して、私たちは入院前の家族旅行に2日後出発した。ものすごい強行スケジュールだったけど、奇跡のようなタイミングでむしろここで行くしか選択肢はなかった。

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母の長年の夢を叶えたい。

母は子供の頃から一切泳げないどころか、水に顔すらつけられなかった。

専業主婦だった母。亭主関白な我が家は、父が稼ぎ、母は家を守るという構図だった。だから母が自分の好きなことを自由にしたことなんてなかったんじゃないかと思う。父が定年したあと、遠慮気味に父にお願いして、母は1つだけ習い事をはじめた。

「プールに通いたい。泳げるようになりたい。」

そうして60歳を過ぎてから泳ぎの練習を始めた。10年間コツコツ水泳教室に通って、水に顔をつけるところから、やっと25mクロールできるまでになったと嬉しそうだった。

でも父の度重なる入院、看病で父が心配だからと、母は旅行に行くことも滅多にしなくて、プールで泳いだことはあっても海で泳いだことはないと言っていた。

私は綺麗な海で母の人生初の海泳ぎの夢を叶えてあげたいなと密かに思っていたから、宮古島に無事着いて私が運転して島を巡り、思い出の場所に家族を連れてくることができた時は感動した。

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姉も子供達がまだ小さかった10年ほど前に来た以来の宮古島の風景に、懐かしそうだった。

家族の後ろ姿を見て、私は静かにその幸せを噛み締めた。強行突破してきてよかったなと思った。

そして宮古島本土から橋を渡った池間島、波が穏やかなシュノーケルスポットへ。

子供たちが海に入っていくのを見て、母が「私も入ろうかな」と言った。

驚いたことに「シュノーケルもやってみたい」っていうもんだから、私は足のつく安全な場所でシュノーケルの使い方を教えて、ほんの数m泳ぐ母を見守った。

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「綺麗な魚が見えたよ!」と嬉しそうに言う母を見て、あぁ、連れてきてよかったと心底思った。母の長年の夢を叶えてあげられたことにも胸をなでおろした。

そうして海で泳いで母も疲れただろうと思って、一足先に車に戻っていようかと提案をした。

その直後に、事故は起きた。

ビーチから車に戻る砂浜で、私が一瞬荷物を置くのに目を離したタイミングで、母が砂に足を取られてバランスを崩して転倒。そこにあった岩に頭をぶつけたのだ。

間髪入れずに頭を抑えたけど、明らかに頭を切っていて、手の平にはじわりと血が滲んでいた。血の気が一瞬引いた。これはマズイ。

姉を海から呼び戻して頭を抑える役をバトンタッチして、私は急いで救急車を呼んだ。ここは離島で、周りには誰もいない。

道路に出ないと電波が通じづらくてその場を離れるしかなくて、子供たちに荷物をまとめる指示をしながら、何度も母の状況を救急隊員に報告しながらやりとりした。

離島で怪我をしちゃうなんて・・・意識がなくなったらどうしよう・・・血がこれ以上ひどく出たら・・・救急車が来るまで生きた心地がしなかった。

幸い、病院に搬送されたものの母の意識はしっかりしていて、頭以外にもレントゲンを取ったり検査もしてそのほかに損傷はなく、一針縫ってホテルに戻る程度の軽傷だった。

でも頭部強打はその後が心配だと、私たちは兄を事故で亡くして知っている。

1時間おきに様子を見て、母が息をしてるか確認して、鎮痛剤を飲ませ、患部を消毒して・・・

頭にネットをしてベッドで眠る母が痛々しくて、母の姿を見ながら私はその時、初めて涙を流した。

あの時気を付けてあげれば・・・
無理をさせてしまったんじゃないか・・・
もしももっとひどい怪我をしていたら今頃どうなってたんだ・・・

転倒していく母の様子が何度も思い出される。本当は震えが止まらなかった。冷静に対応し指示を出し、子供たちが不安にならないように気丈に振る舞っていたけど。

ほっとした気持ちと、自分を責める気持ちが交互に押し寄せる。

「私がもっと注意していれば・・・お母さん、ごめんね。」

と一晩中そればかりだった。

でも・・・

「もっとこうしたらよかった」は山ほどある。でも「こうすべきだった」とは言いたくない。

だって、誰にも正解なんてわからないし、むしろ正解なんてない。

「無理して連れて行くべきじゃなかった」

「家に大人しくいるべきだった」

「近場にしておくべきだった」

なんて、山ほど言える。

でもそうだとしたら、

母にとって頑張って闘病する理由や、退院後にまた行きたいと願うほどの一生の思い出はできなかった。

孫と海で泳ぐという長年の夢も叶わなかったかもしれない。

こうやって闘病する本人も家族も、「こうすべき」や「こうしなきゃ」と戦い、葛藤しながら、どうするか意思決定し続けているのだろう。リスクとリターン、どちらを取るかを天秤にかけてでも。

だからわたしは万人にとっていいことを選ぶんじゃなくて、世界に一人だけの私の母親にとってのベストを一緒に選んであげたい。

なによりも「今、生きている」そのことを大切にしたい。

反省はしても後悔はしない。誰かを、自分を責めたりもしない。

いつの日も、いつか、は、今だと思うから。

人生を謳歌しよう。やりたいことは全部やろう。

私は、今生きる世界の中心で、母にそう叫び続けたい。

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これは、私と家族のリアルストーリー▼

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