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史料で見る知られざる日本海海戦のお話


はじめに

 日露戦争についてはこれまで数多くの本で読まれ、今日でも司馬遼太郎の作品『坂の上の雲』で多くの人に知られています。その日露戦争での最大の山場は、やはり日本海海戦だと思います。
 難攻不落の旅順要塞を占領し、満州での陸戦で勝利したとはいえ、ロシアがヨーロッパから回航させていたバルチック艦隊に敗北を喫すれば、陸戦の勝利も灰燼に帰する可能性がありました。
 日本海海戦では、東郷平八郎連合艦隊司令長官による「敵前大回頭」いわゆる「東郷ターン」それに続く「丁字戦法」が一大決戦の勝利を決定づけたものとしてあまりにも有名です。
 結果はあざやかな完全勝利でしたので、「丁字戦法」によって予測通りに運んだ海戦と思われがちですが、実は事前の作戦の一つが使えず、しかも「丁字戦法」とは違った戦法で勝ちを収めていることを示す史料と指摘があります。
 今回は日本海海戦にまつわるあまり知られていない戦史について紹介をしていきたいと思います。

基本的状況の確認

 日本海海戦の話をする前に日本艦隊の状況とバルチック艦隊との比較を図に示しています。
 また、文章では分かりにくいところもあると思いますので、戦法や方位呼称図も図に入れました。

日本艦隊の状況と戦法の説明
三笠の戦術運動、方位呼称図、日本艦隊とバルチック艦隊の戦力及び構成

決戦前のマル秘作戦

 日本海海戦を迎えるにあたり、秋山真之参謀が立てたバルチック艦隊を全滅させるための迎撃作戦計画に七段構えの戦法があります。
 この作戦計画は次の通りです。
第一段主力決戦前夜、駆逐艦・水雷艇隊の全力で、敵主力部隊を奇襲雷撃。
第二段艦隊の全力を挙げて、敵主力部隊を砲雷撃により決戦。
第三・四段昼間決戦のあった夜、再び駆逐隊・水雷艇隊の全力で、敵艦隊を奇襲雷撃。
第五・六段夜明け後、艦隊の主力を中心とする兵力で、徹底的に追撃し、砲雷撃により撃滅。
第七段第六段までに残った敵艦を、事前に敷設したウラジオストック港の機雷原に追い込んで撃滅。
 実際には第一段は行われず、第二段と第三段でバルチック艦隊をせん滅しました。
 第一段の詳細は第2戦隊所属の装甲巡洋艦「浅間」が第1駆逐隊と第9艇隊を率い、黄海海戦の際に捕獲した元ロシア海軍の駆逐艦「暁」(後の「山彦」)が敵前に連繋水雷を撒くのを、「暁」を除く第1駆逐隊と第9艇隊の水雷攻撃で注意を引き付け支援するというものでした。「暁」はロシア側のものと迷わせるために識別線と艦号を抹滅し、時々蒸気を吹かすことや有煙火薬で発砲することとされ、偽装工作でバルチック艦隊に近づくという奇策でした。
 明治38年5月17日、明治38年4月21日に決定した戦策に追加がなされます。「奇襲隊の編成及びその運動要領」という追加で内容が
装甲巡洋艦「浅間」・第一駆逐艦隊・第九艇隊による奇襲隊をもって敵主力艦隊の進路の直前に連係機雷を投下する(聯合艦隊機密259号の3)
というものです。
 この追加戦策から第一段がどのようなものだったのかが分かると思います。そして、日本海海戦の開戦が明治38年5月27日なので、戦策に追加がされたのは開戦の10日前ということになります。
 この第一段は極秘計画なのですが、計画をされていたことは史料でも確認することが出来ます。まずは、日露戦争に出征した川田功が書いた『砲弾を潜りて』に奇襲作戦の記載が出てきます。

 そして「浅間」艦長八代六郎の小笠原長生宛の手紙に

浅間は戦闘将さに醸ならむとする時に舵機故障を起し獨りでに列外に逸出し敵八艦の集弾を受け苦戦に陥り其後浸水を来し速力低下し大に苦心致し候へども艦員の尽力にて応急修理整ひ先は戦場を去るに至らず敵の二戦艦に大害を加へ火災を起こさしめ候位の働をなしどふか斯か日本男児の一分を辱かしめざるを得たるは心私かに喜ぶところに御座候乍去合戦前浅間は敵の二戦艦を撃沈する覚悟に有之候を果得ず(奇襲隊列を解かれし為め)この覚悟に対しては何んとなく残念に候(『八代海軍大将書翰集』八代六郎著、城山会 編、尾張徳川黎明会出版、昭和16年)

と記載があり、小笠原長生著『侠将八代六郎』にも

どうかかうか日本男児の一分を辱しめざるを得たるは心私に喜ぶところに御座候。去りながら合戦前浅間は敵二戦艦を撃沈する覚悟に有之候を果し得ず(中略)この覚悟に対しては何んとなく残念に候。(『侠将八代六郎』小笠原長生著、政教社出版、昭和6年)

と記載が出てきます。
 なぜ第一段が行われなかったのかというとそれは天候が適さなかったためと考えられます。

予想外の天候

「日本海海戦電報報告1(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09050518500
日本海海戦 電報報告1 明治38.5.27(防衛省防衛研究所)
連合艦隊からの電報受信状況
「日本海海戦電報報告1(1)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09050518500
日本海海戦 電報報告1 明治38.5.27(防衛省防衛研究所)
連合艦隊からの受信した電報をもとに報告文を作成
「軍艦三笠戦時日誌4(3)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09050340600
軍艦三笠戦時日誌4 明治38.5~38.7(防衛省防衛研究所)

 明治三十八年五月廿七日戦闘詳報には海面に濛気が停滞して見えにくい状態で波が非常に高かったことが分かります。
 そのため、「三笠」は沖ノ島付近での邀撃を目論み南下していましたが、波が高く水雷艇の航行に支障をきたしていたため8時50分には水雷艇を三浦湾に退避させ、また連繋機雷の使用にも適さないとして10時08分に奇襲隊の解隊命令を出しました。
 「三笠」は大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ擊滅セントス。本日天氣晴朗ナレドモ浪髙シ」と打電しましたが、これは天氣晴朗ナレドモ浪髙シの一文を入れることによって、第一段を行うことが出来ない状況であることと、波が高いので訓練をしている連合艦隊の方がバルチック艦隊よりも射撃精度(命中率)に分がある気象条件であることを伝えようとしました。
 13時39分、「三笠」は北東微北の針路に進むバルチック艦隊を艦首方向真正面に視認し、三笠は戦闘旗を掲揚して戦闘開始を命令しました。直後の13時40分、直進を改め、右に大きく変針し北西微北へ向かいますが、これは、基本戦策にしたがい、必要な北側横距離を確保し有利な位置取りを行うためです。
 13時55分、「三笠」は左に変針して針路を西に取り、改めてほぼ反航航路にはいります。その時、両艦隊の距離は約7海里(≒13,000m)です。東郷は「三笠」へのZ旗の掲揚を指示し、全麾下に「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」と号令を掛けました。
 14時02分、さらに「三笠」は左に変針して針路を南西微南にとり、第1戦隊は北東微北の針路を進むバルチック艦隊に対して完全な反航の航路に入りました。もしもそのまま両国の艦隊が直進すれば先頭の旗艦同士がすれ違うのは14時10分頃で間隔は6,000mとなります(海戦図からの推定)。
 このころバルチック艦隊は、第1戦艦隊と後を進む第2戦艦隊との間ではまだ単縦航路を取れない状態で、第1戦艦隊殿艦である戦艦「オリョール」と第2戦艦隊の先頭艦である戦艦「オスリャービャ」とは並走していました。ロジェストヴェンスキーは、第1戦艦隊を第2戦艦隊の針路上に割り込ませ、単縦航路とするように指示していた。

敵前大回頭

 14時05分、敵を南微東に距離8,000mで反航路で臨んだ時、東郷は急転回での左回頭(=取舵一杯の命令を下した)を命じ、14時07分に先頭の三笠は回頭を終え東北東へ定針しました。
 連合艦隊は基本戦策通りの有利な並航の形を開始します。バルチック艦隊側は直前まで単純な反航戦しか予期できていませんでした。海戦図に拠れば「三笠」は右横ほぼ正面に第1戦艦隊旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」を望んでいました。
 14時08分、「三笠」に続く「敷島」が東北東に定針し、これを見て、バルチック艦隊は砲撃を開始し「三笠」へ向けて攻撃集中を始めます。日本側は、14時10分に「三笠」が距離6,400mまで間合いを詰め、「クニャージ・スヴォーロフ」に向けて発砲を始めました。その後、第1戦隊は回頭を完了した艦から発砲を開始するのです。

「軍艦三笠戦時日誌4(3)」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09050340600
軍艦三笠戦時日誌4 明治38.5~38.7(防衛省防衛研究所)

 バルチック艦隊は「三笠」へ攻撃集中を始めたましたが、不利な体勢のために、実際には全力砲撃を行えませんでした。「クニャージ・スヴォーロフ」から見ると「三笠」は左前方約30度に位置したため後部砲塔の砲を向けることができず、第1戦艦隊隊列後方の艦も距離が遠すぎため、砲撃を行えませんでした。第2戦艦隊旗艦「オスリャービャ」は不利な位置体勢を改めようとして、速度を落とし右に蛇行し、第1戦艦隊殿艦「アリョール」の後ろへ付こうとする最中でした。
 第2戦隊も反航路を進み(ただし用心のため第1戦隊が進んだ大回頭直前の反航路よりも敵からやや大きい横距離を取った)、14時15分から大回頭を始め、以後30分間、第1戦隊のすぐ後ろに付き、基本戦策通りに共同して全力砲撃を行いました。

三十分間での「決着」

 14時11分、「クニャージ・スヴォーロフ」は右に変針し、バルチック艦隊はそれに続き、並航砲戦を始めました。しかし引き続き、日本側に先行を許し圧迫される体勢でした。「オスリャービャ」は日本側の各艦から集中砲火を浴び、早々に攻撃力を失いました。
 14時20分、第1戦隊はバルチック艦隊との間合いを距離5000m(先頭艦間)へ詰め、砲撃戦は最高潮となり両軍の被害も増え始めた。三笠の被弾も急増したが、日本側からバルチック艦隊への命中率が圧倒していた。バルチック艦隊主力の速度11ノットに対して第1・2戦隊は15ノットであり、「三笠」は「クニャージ・スヴォーロフ」より徐々に先行した。
 14時27分、第2戦隊所属の装甲巡洋艦「浅間」が被弾により舵機を損傷し戦列から離れます。しかしこれを除けば、連合艦隊は各艦の戦闘力を維持しました。これに対してバルチック艦隊主力艦は多数の被弾により急速に戦闘力を失っていきました。バルチック艦隊主力後方の艦は徐々に先行する「三笠」へ向けて砲撃が困難となり、前方の艦も被弾で砲撃速度が低下し、「三笠」の被弾は峠を越えます。
 14時35分、連合艦隊第1戦隊は東へ転針を行い、さらに、14時43分には東南東へ転針を行いました。これによりウラジオストックへ向かおうとする同艦隊の北進路も遮蔽していきました。この間にも連合艦隊の砲弾はバルチック艦隊各艦の舷側を撃ち抜き、榴弾を用いて上部構造を破壊・火災を引き起こすなど着実に各艦をとらえます。14時50分、「クニャージ・スヴォーロフ」と「オスリャービャ」は甲板上や艦内の各所で火災を起こしながら右へ大きく回頭して戦列から離脱しました。「オスリャービャ」は舷側被弾口からの浸水への対処が進まず致命的な状況に陥っていました。この30分間の砲戦で、バルチック艦隊は攻撃力を甚だしく失ったのです。
 作戦担当参謀の秋山真之はこの30分間で勝敗は決したと評していて、ここからは追撃戦に入り、初期に撃沈に至らなくても、その後の追撃戦が損害を大きく与えると述べています。

ギリギリの判断だった敵前大回頭

「三笠」の砲術長を務めた安保清種の『銃後独話』には濛気が停滞して見えにくい状態だったため、予想外に敵艦隊に接近したことが分かります。
 そして、回頭して戦うのか、それとも回頭せずに反航戦で戦うのか気が気ではなく、予想外の状況から緊迫した様子がよく分かります。

安保清種 著『銃後独話』,実業之日本社,昭14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1462528 (参照 2023-08-21)
敵前大回頭の部分を抜粋

「三笠」の副長だった松村龍雄が著した『回想録』(大正12年12月)には予想外に敵艦隊と接近し、反航戦をするのか同航戦をするのかの議論が艦橋で行われたとあります。そして、どちらで戦うか決定することが出来なかったため、砲術長の安保清種は射撃命令が出せず、大いに憔悴していたことが記載されています。

戦策の変化と日本海海戦で使用された戦法

最初の「聯合艦隊戦策」は明治37年1月9日に

一、各部隊の戦闘任務
二、各部隊の戦闘陣形及び戦闘速力
三、戦闘中の通則
四、戦闘序列及び陣形
五、戦闘開始及び運動の要領
  艦隊が戦闘距離(約八千)に近づいたなら戦闘旗を掲げて戦闘を開始する。
「第一戦隊は最攻撃し易き敵の一隊を選び、其の列線に対して左記の如く丁字を画き可成的敵の先頭を圧迫する如く運動し、且臨機適宜の一斉回頭を行ひ、敵に対し丁字形を保持するに力めんとす
第一戦隊は丁字戦法、第二戦隊は乙字戦法。二隊による叉撃、挟撃を行う。
(『極秘海戦史』第一部巻二)

と定められています。そして、この戦策が黄海海戦(明治37年8月10日の旅順艦隊との海戦)後の明治38年4月12日に新たに「聯合艦隊戦策」として次のように定められます。

「昼戦に於いては第一戦隊を以て敵の主力に対し先づ持続戦を行ひ」
一、戦闘序列
二、戦闘速力
三、戦闘中の守則
四、戦法
「単隊の戦闘は丁字戦法、二隊の共同戦闘は乙字戦法に準拠するものとす
五、彼我の識別法
六、各部隊の戦闘任務
七、戦闘開始時に於ける各部隊の運動
「第一戦隊は敵の第二順にある部隊の先頭を斜めに圧迫する如く敵の向首する方向に折れ勉めて並航戦を開始し、爾後先頭を持続す」
(聯合艦隊機密259号、『極秘海戦史』第二部巻一)

最初の戦策と異なるのは丁字戦法に関して「力めんとす」から「準拠するものとす」と軟化しています。これは、黄海海戦で丁字戦法による艦隊撃滅を計画した結果、実際の戦闘で上手くいかなかったことの反省から変更しています。
4月17日に「戦闘実施に就き麾下一般に訓示」(聯合艦隊機密276号)がありその内容の一部が三笠日誌に
「敵列に丁字を画けば我に有利になると仝時敵より施さるるときは我に不利なり」(『三笠日誌』3、311頁)
と記載されています。
4月21日に戦闘序列を改正追加(聯合艦隊機密259号の2)し、前に書きましたが、5月17日、4月21日の戦策に「八」が追加されます。
八、奇襲隊の編成及びその運動要領
 装甲巡洋艦「浅間」・第一駆逐艦隊・第九艇隊による奇襲隊をもって敵 主力艦隊の進路の直前に連係機雷を投下する
(聯合艦隊機密259号の3)
 そして、最後の戦策変更が5月21日に行われ、
丁字戦法をやめ、優速を活かして斜め後方から同航戦(並航戦)に持ち込む(聯合艦隊機密259号の4)
という戦策になります。
 あれっ、丁字戦法はやめたの?と思われたと思いますが、連合艦隊の上層部は連合艦隊がバルチック艦隊よりも速力で勝ることを知っていたため、丁字戦法をやめ、優速を活かした斜め後方から同航戦で戦いを挑むことに決定したのです。
 そして、気象条件に振り回されるという予想外の状況に陥りましたが、その連合艦隊司令部で決めた戦策に沿って、連合艦隊司令長官の東郷平八郎が同航戦で戦いを挑むことを決定し、敵前大回頭を行うという決断を下したというわけです。

バルチック艦隊と日本艦隊の損害状況

 バルチック艦隊はこの海戦によって戦力のほぼ全てを失いました。ウラジオストクに到着したのは「陽炎」の追跡を振り切って30日に到着した「グローズヌイ」と、28日以降日本側に発見されなかった二等巡洋艦「アルマース」(29日到着)、駆逐艦「ブラーヴィ」(30日到着)の3隻のみでした。
 病院船である「アリョール」と「コストローマ」は臨検の結果、「アリョール」に「オールドハミヤ」の乗員4名が拘留されていたことによって条約違反とされ、「アリョール」は拿捕されて「楠保丸」として日本海軍に編入されました。「コストローマ」は問題が無かったため解放されて本国へ帰還しています。
 バルチック艦隊の艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻、他15隻、捕獲を避けるため自沈したものを含む)、被拿捕6隻、中立国に抑留されたもの6隻で、兵員の損害は戦死4,830名、捕虜6,106名であり、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれていました。
 連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみ、戦死117名、戦傷583名と軽微であり、大艦隊同士の艦隊決戦としては現在においてまで史上稀に見る一方的勝利となりました。
 連合艦隊は、主砲の遠距離砲戦において、徹甲弾と併用して、榴弾を射撃し敵艦上部構造の破壊と無力化を狙う戦術も用いました。
 その信管には伊集院五郎少将の開発した鋭敏瞬発の伊集院信管を採用し、不発弾を減らすとともに、炸薬には火災効果が高い下瀬火薬を用いました。

「明治37 8年海戦史付録写真帳」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110203200
「極秘 明治37.8年海戦史 付録」(防衛省防衛研究所)
アリョールの左舷の損害状況を抜粋
「明治37 8年海戦史付録写真帳」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C05110203200
「極秘 明治37.8年海戦史 付録」(防衛省防衛研究所)
アリョールの上甲板の損害状況を抜粋

「アリョール」の損傷状況の写真を見ても分かると思いますが、バルチック艦隊は上部へ火災および大破壊を受け、戦闘不能に陥る艦も多数ありました。
 また、榴弾を用いた新戦術を予期せず体験することにより恐怖による戦意低下もあり、この新戦術の採用は大きな成功を得ました。

おわりに

 知られざる奇襲部隊の存在や気象条件による予想外の展開、丁字戦法をとりやめ、同航戦で戦う計画でそれを東郷平八郎が実行したという話、いかがでしたでしょうか。
 明治38年6月29日、海軍参謀の小笠原長生が東京で講演し、「当日東郷大将が執られたる戦法が丁字戦法」と語ったことが翌日の『東京朝日新聞』に報じられます。このことがきっかけで日本海海戦の勝因が敵艦隊の進路前方を抑える丁字戦法だったと広く信じられるきっかけとなり、丁字戦法を用いて鮮やかに勝利したという話になっていきます。
 小笠原長生は日露戦争時に軍令部参謀に就任していますが、連合艦隊の戦策のこまかな変更までは知らなかったものと考えられます。最後の戦策変更が5月21日であり、開戦のわずか6日前だったので、旧戦策の通りに実行して勝利したものと思ったのでしょう。
 そして、東郷平八郎が日本海海戦で敵前大回頭をするという見事な決断を下したので、小笠原長生は東郷を英雄視し、丁字戦法を用いて鮮やかに勝利したという話につながっていったものと思慮されます。
 日露戦争後、東郷が軍神化されることにより、大正から昭和初期にかけての海軍軍縮において、艦隊派の提督が東郷を利用して軍政に干渉する問題が生じたり、海軍内で精神論的な部分が強調されたりするようになります。
 読んでいただいた方には分かると思いますが、日本海海戦では東郷だけが優れていたわけではありません。
 日本海海戦に挑んだ連合艦隊の軍人が各部署で持てる力を発揮し、それを支えた技術力があってこその掴み得た勝利、いわば総力戦での勝利だったのです。
 長々と書き記しましたが、最後まで読んで読んで下さった方に謝意を示しつつ話を終わりたいと思います。


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