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大岡越前守忠相の家系と略歴のお話


はじめに

 大岡というと時代劇などで大岡越前とか大岡越前守で知られています。
 ですが、それを大岡忠相としますと、はて、誰かなということで首をかしげられる方もいるかと思います。
 だったら、分かり易く知られている大岡越前守を題名にすればとお思いの方もいるでしょう。ですが、実は大岡忠相を初めとしまして、その子孫六人が全部越前守を名乗っています。大岡越前守、どの大岡?誰?となってしまうのです。
 そんな大岡忠相ですが、『寛政重修諸家譜』からその家系と略歴をたどってみましょうというのが今回のお話しです。

大岡氏の家系

大岡氏は九条関白の子孫だといわれていまして、藤原氏を称しています。古いところはよく分かりませんが、大岡家初代の忠勝という人物がいますが、このあたりから歴史上に現れます。



 この父親の大岡善吉という人物は三河国の八名郡に住み、それ以来大岡を名字としたといわれています。三河に住んでいましたので、三河の戦国大名だった松平氏に仕えることになります。家康はもとは松平姓を名乗っていますので、家康のおじいさんの清康あたりから、この大岡氏は松平氏に仕えているようです。
 この忠勝を初代にしますと二代は忠政、忠政の右に書いてあるのはお兄さんの忠祐、忠次で、この二人はいずれも戦死しています。
三代目は忠俊という兄がいました。この人は関ヶ原の合戦の直前に石田三成方が家康の拠点だった京都の伏見城を攻めますが、伏見城に立て籠もって戦死する人物です。
 そのため、弟の忠行が跡を取り、その跡は弟の忠世の長男の忠種という人を養子にして、この人が四代目になっています。
 この忠種の系統が本家で、忠種のところに()しまして六百三十石余・千三百俵とあるのは忠種の俸禄です。つまり、知行地を高六百三十石余と蔵米千三百俵もらっていたという意味です。千三百俵というのは知行高に直しますと大体千三百石と同じになりますので、合計で千九百三十石余の知行地を持っていたのと同じことになります。この子孫がずっと続くわけですけれども、途中で弟に分けてやったりしていますので、最終的には千四百三十石余の旗本として続くわけです。
 一方、忠相が出る家でありますけれども、忠世という忠政の息子がいてこの分家の初代になります。
 その二代目は忠真が継ぎまして、その次の三代目が忠相になりますが、忠相は一族から養子という形で三代目を継いでいます。実家の方は忠世の弟の忠吉の系統になりますが、その系統の三代目の忠高の息子ということになります。実家の方は兄の忠品が継ぎまして子孫まで続いていくのですが、こちらの方は二千二百六十石余で続いていく家になります。
 一方、忠相の養家は元は旗本でしたが、忠相の時に大名に出世して最後は三河国の西大平というところで一万石をもらう大名になります。西大平は現在の岡崎市になりますが、そこに本拠を置く大名として幕末維新まで続くことになります。
 なお、大岡といいますと九代将軍家重の時の忠光も有名です。家重が話す言葉がよく聞き取れないのに、側用人であった大岡忠光ただ一人、その言うことを理解したということで出世する人です。
 この忠光は忠相の実家の二代目に忠章という人がいますが、その弟に忠房という人がいます。この人が分家をしまして、その曾孫が大岡忠光になります。忠房の時には三百石だったのですが、忠光の時には二万石の岩槻藩主になります。今の埼玉県の岩槻ですが、岩槻城主二万石に出世するわけです。
 なにかしら分家の方がだんだん出世する系統ですが、大岡氏のごく大雑把な系図はこういう具合になっています。これは『寛政重修諸家譜』という大名・旗本の系図を幕府で編纂したものをもとにして作成しました。

大岡忠相の略歴

次に忠相自身はどういう経歴の持ち主だったのかということを『寛政重修諸家譜』に記載されている記事を中心に話をしていきたいと思います。
忠相は初め忠義という名前でした。それから幼いときは求馬と称していて後に市十郎に変えています。さらにその後、忠右衛門と称して、能登守あるいは越前守に任官し、位は従五位下です。「実は大岡美濃守忠高が四男」と『寛政重修諸家譜』に書いてありますが、先ほど話した系図の通りです。


『寛政重修諸家譜』その1

母方の祖先は家康の妹

それから、「母は北条出羽守氏重が女」で、この家は断絶してしまうのですが、北条氏重という人は最後、三万石の家格でした。この北条氏重の母というのは、実は家康と父親違いの同母の妹ということになります。家康の妹が忠相の母のおばあさんになるということになります。そうゆう関係で徳川氏とも比較的近いということで、この大岡家は目をかけられていたのではないかと指摘した研究者もいます。

10歳で婿養子

さて忠相は、延宝5年(1677年)に生まれていますが、これは四代将軍家綱の時代になります。以下年齢を話すときには数え年で話をしていきますので、この延宝5年で1歳ということになります。そして、貞享3年(1686年)12月10日「忠真が養子となりて其女を室とす」とあります。10歳で一族の大岡家を、むしろ本家に近い方の大岡家を継ぐというか跡取りになります。
それで10歳で奥さんを貰った、入り婿になったということではなくて、そういう約束で入ってその後、結婚したということだと思います。

御目見え

その翌年ですが、貞享4年9月6日11歳で、「初めて常慶院殿にまみえたてまつる」五代将軍綱吉に始めてお目見えをしました。武士は主君にお目見えをするということが主従関係をはっきりさせる先ず第一歩であるということで大事な儀式になります。これは各系譜に必ずいつお目見えをしたということが書かれているわけです。

閉門となる

その後、元禄9年(1696年)2月5日「従兄大岡五左衛門忠英が事に坐して閉門し、12月9日赦免ありといえども、なお拝謁を憚り、十年四月二十日ゆるさる」ということで、元禄9年に記事がとびますが、これは処罰の記事になります。
従兄というのは、忠相の養父忠真の兄に忠種という方がいますが、この方が本家の養子にいっています。この忠種の息子に忠英という人がいます。この方は兄から五百俵を分けてもらっています。忠種が六百三十石余・千三百俵、合計すると千九百三十石余という俸禄になりますが、それが千四百三十石余に減っているのは、この忠英に五百俵分けてやったため、減っているわけです。この五百俵取の旗本として取り立てられた忠英、彼が養子を取りたいということで幕府の上役に願うわけですが、このことによってごたごたが起こりまして、上役を殺してしまうという事件が起ります。
そして、その上役の家来に忠英も殺されてしまいます。忠英に子供がいませんでしたので、直接処罰すべき人がいないことから、綱吉ははなはだけしからんということで一族を皆処罰することになります。
処罰といいましても閉門とかいう形で謹慎刑を与えることとなり、忠相も閉門をさせられています。10か月ほど閉門していましたが、それが許されてもなお拝謁を憚る、すなわち江戸城に出仕せずに謹慎しているという状態がさらに5か月ほど続くことになります。完全に許されるのが元禄10年ということになります。

家督相続

「元禄十三年七月十一日遺跡を継」、これは父親(養父)が亡くなったため、その家督を相続したということです。忠相が継いだ遺跡というものは、知行地は千九百二十石です。中堅の旗本といったらいいかと思います。「寄合に列」する、これは跡をとってすぐに寄合に列しています。寄合というのは無役の旗本が編成されるものでありますが、何も仕事のない人がこの寄合に列します。あるいは小普請の場合もありますが、忠相の場合には寄合に入っています。

御番入り

その後、書院の番士になっています。26歳の時、元禄15年5月10日「御書院番となり」、とありますので、書院の番士にとりたてられ、ようやく御番入りしたということになります。
翌年「地震の為に破壊せる所々普請の事を奉行す」、ということで、これは地震で壊れたあちこちの普請、立て直しについての事を奉行しているわけです。
宝永元年(1704年)10月9日「御徒の頭にすゝみ」、御徒を統率する頭(長官)でありますけれども御徒頭に昇進しています。これが28歳のことになります。
そして、12月11日布衣(ほい)、これは位にしますと大体六位相当になります。六位相当で布衣を着ることを許される、これは無位無官から一つ等級があがったことになるわけです。
それから、31歳の時、宝永4年8月12日「御使番にうつり」、御使番というポストに移っています。この御使番は、戦時においては大将の命令を前線に伝える伝令の役目を担う役職です。これが、いかにうまく伝えられるかによって、その戦闘の勝敗が決まるということですから、使番というのは非常に重要なポストになります。平時においてはそれほど重要なポストとはいえず、将軍の命を受けてあちこちにお使いに行ったり、諸所を巡検したりといったような役をするわけですが、番方の中では比較的重要なポストではあります。

目付就任

この使番に移った翌5年7月25日には目付に移っています。この役は監察役になります。特に旗本の監察をするわけで、悪いことをしていないかどうかを監察するポストになります。非常に権限が大きく、有能な旗本が任ぜられるというポストになります。
ここに転出したということはかなり有能であったといっていいと思います。
聖徳元年(1711年)のところはご褒美をもらったという記事になります。


『寛政重修諸家譜』その2

山田奉行就任

そして、正徳2年正月11日、36歳になりますが「山田奉行となり」とありまして、ここで山田奉行になったわけです。「やうだ」とふってありますが、これは「ようだ」と読んでいて、今の伊勢の山田のことになります。江戸時代までは「ようだ」と読んでいます。
当時は「ようだ」と読んでいますが一応慣例に従って「やまだぶぎょう」と読んでおきます。
その直後ですが、3月15日従五位下能登守に叙任したという記事があります。山田奉行はこの従五位下〇〇守相当のポストですので、特に出世というわけではなくて自動的に山田奉行になったから、勿論昇進ではあるのですが、六位相当から従五位下に昇格して能登守を称することになったということになります。なお、能登守に叙任していますが、別に能登国、今の石川県ですがこことは一切関係がありません。それから、後に越前守に変えますが、これも越前国、今の福井県になりますが、こことは全く関係がなく、ただ名前として使っているのみということになります。

普請奉行に転出

その後、享保元年(1716年)40歳の時、この時はまだ改元しておりませんので正式には正徳6年になりますけれども、京保元年2月12日普請奉行に移って、また江戸のポストに就いたことになります。普請奉行というのは普請、土木工事の監督、江戸の町ですと上水道、水道の管理などもやっているポストになります。このポストも比較的重要なポストだと言われています。そこに転任しています。

町奉行に昇任

そして、有名な町奉行はその翌年享保2年41歳の時になりますが、2月3日町奉行に進みます。ただ町奉行といいましたら、江戸の町奉行ということになりまして、幕府の重要ポストの江戸町奉行に昇進したわけです。この日、越前守に改めています。あとは大体この町奉行をやっているときの関連の記事になりまして、褒美をもらったとか、こういう仕事をやったというようなことが書かれています。そこを少し省略しまして、享保10年(1725年)9月11日に二千石の加増を受けています。合計三千九百二十石の旗本になりました。


『寛政重修諸家譜』その3

寺社奉行に昇進

それから、さらに11年ほどたった元文元年(1736年)60歳になってからですが、8月12日に寺社奉行になっています。幕府の三奉行の一つですね。三奉行というのは寺社奉行、町奉行、勘定奉行ですが、幕府の司法、行政、立法をあずかる非常に重要なポストです。本来、寺社奉行というのは大名がやるポストです。この時忠相は大名になっているわけですが、ただ正式に一万石以上の石高になったわけではありません。「この日上野国邑楽、下野国都賀・安蘇・簗田四郡のうちにして二千石を加えたまい、官俸をそえられて万石以上の格となり」と書かれていますが、ここで二千石を加えられ、五千九百二十石になっています。ただ万石以上の格になったというとあと四千八十石になりますが、この分は官俸をそえられたということです。これがいわゆる八代将軍吉宗が考え出しました足高の制で、寺社奉行をやっている間だけ、その不足分を足してやる、とそういうことになります。寺社奉行は大体一万石以上の大名がやるポストなので、このポストに就きますと一万石相当の禄がないといけません。ですから、知行地が五千九百二十石ですと、その差額の四千八十石はこの役に就いている限り別途支給するということになります。これが足高の制といわれるものでありますけれども、この制度の適用を受けて一万石の格になった、つまり大名の格を得たということになるわけです。その後、寛延元年(1748年)閏10月朔日「奏者番となり、寺社奉行故のごとし」とありますように、奏者番になっています。この職も一万石以上の大名がやるポストになるわけでありますけれども、このポストと寺社奉行を兼任するということです。本来、寺社奉行というのは、この奏者番から有能なものに寺社奉行を兼任させるというのが通例です。寺社奉行というのは大体四人いますが、いずれも奏者番兼寺社奉行という形で任命されています。ところが、大岡の場合は逆でして寺社奉行に先になって後で奏者番になって合わせて寺社奉行をやれと、そういうふうに発令されていますので、その時いじわるをされたということが史料に書かれていますが、そんなことも起こってきたわけです。


忠相がいじわるをされていたことが分かる史料

大名になる

この時にもらっていました足高の四千八十石、これを知行地に加えてもらっています。そして、初めて正式な大名になるわけです。一万石以上の領地を持つ大名になった、ちょうど合計して一万石になったわけです。一万石を領して三河国の西大平に居所を営んだ、ここに陣屋をおいて領地支配にあたったということになります。
亡くなるのは宝暦元年(1752年)75歳になりますが、宝暦元年12月19日に「卒す」と書いてあります。その前に11月2日「病によりて両職(奏者番兼寺社奉行)を辞するところ」と辞職を願ったのですが、寺社奉行は免職になる、但し奏者番はもとのごとく務めなさいということで両職の辞職は許されませんでした。そして、病気が重くなりまして12月19日に亡くなってしまうのです。

おわりに

『寛政重修諸家譜』によっておおよその忠相の略歴が分かるわけですが、この間どういう政治というか施政をおこなってきたかということについては、履歴から知ることはできません。
 そこで大岡についてはいろいろな逸話が残っていますので、そういったものも取り混ぜながら次回は山田奉行時代のことを話していこうかと思っています。
 イラストなどもなく、文字だらけになってしまいました。
 そんな、今回ですが、最後まで読んでいただきありがとうございました。 
 次回、山田奉行大岡能登守忠相(仮)お楽しみに!

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