緊張感

 朝一番、喉が乾いているので夜は床頭台に飲み物を置いておく。
 
 いつもはステンレス製のコップなのに、今日はガラス製の蓋付きコップを置いてしまっている、やけに緊張感がある気がする。
 例えばこれを忘れて明け方の闇の中でスマートフォンを触ったら大変なことになるから、それを何処かに留め置きながら眠る事になるんだけど、そういう小さい不安にじりじりと何かが削られている。

 産まれた時から我々の世代ってそんな感じな気がする。例えば2050年問題だとか、税による経済苦とか、不景気とか、地球の事とかそういう有象無象があって、じりじりと削られながら育ってきた。

 結果、同世代にもこんな未来のない世界に産み落としても無駄じゃない?という反出生主義も増えている気がする。私は産みたいと思うようになったけど、このご時世にその感覚は凄く分かる。

 
 高校生の時、京都の寺のハゲに『あなた方は可哀想だ』と説教された。
 曰く、坊主が子供の頃はハンバーグがとびきりご馳走だったのに、今やそんなに貴重でもない。幸福の閾値が高くて可哀想。
 そこから先はあんまり覚えてないけど、現代の生活を有り難く思え!!みたいな話しだったと思う。

 じゃあ極貧生活で米と塩食ってたら幸せの閾値は下がるのだろうか?
 そんな事を考えながら、最近は閾値を上手いこと調節している人間を見ると尊敬するようになった。
私は酒酒恋愛酒で死別やらなんやらで1度局面を味わってしまっているから、先輩の退職や結婚式、プロポーズでも泣けなかった、なかなか難しい。


 つまり坊主は、この飽食娯楽の時代にセルフSMをして生きていけと言っていたのか?

 手に入る物を禁じ、快楽を封じるのは確かに坊主の煩悩を消す修行に似ている。
 しかし無神教が多数のこの国で、しかも一生しか無いであろう人生で、神という信仰もないのに食事などの些細な快楽までも我慢の連続を自ら選ぶ奴は、それはそれで変態じゃないのか。

 もしかして、筋トレをすると鬱が治るってそういう仕組みってことなのか?


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