新国立競技場640

上書きされる東京の記憶

昨日今日と、テレビでもSNSでも東日本大震災関連のことで溢れてた。被災地のその日、そして今の映像。圧倒されるけれども、私にとってはリアリティが薄い。

3.11直後の風景で、私にとって圧倒的にリアリティがあるのは、都心に溢れる人、幹線道路の大渋滞。止まっているクルマ。広い歩道は歩く人で埋め尽くされ、ターミナル駅のバス乗り場、タクシー乗り場は整然と静かに並ぶ人々で溢れていた。

私は電車が走り出するまで会社にいた方が安全だと言っていたのだけれど、みんな歩いて帰るという。埼玉方面までバスで行けるところまで行きたい。でもバス乗り場を知らないという会社の女の子二人がいたので、渋谷駅まで歩いて連れて行った。

二人をバス乗り場に並ばせて、ひとりで会社に戻る前に、食べ物と飲み物を買って渡しておこうと「しぶちか」に降りたら、帰れないのを覚悟した人々があちこちに座り込んでた。

ところがお店は普通に営業して、食べ物を買う人達が殺到してた。

地下鉄、私鉄のホームには入れないようにシャッターのようなものが降りてた。JR渋谷駅も初めてみるシャッターが降りていた。JRが人を締め出している様子も、私にとっては強烈な記憶だ。

そんな3.11の東京のリアルな記憶は残しておかなくていいんだろうか。


もちろん、被災地の方が重要だ。でも津波にのまれた地域は、ここより下に住んではいけない、などと書かれた碑があるのに、言い伝え、土地の記憶を無視して開発が進んでいった。

それぞれの人が体験したリアルな記憶、目にしたリアルな風景だって、それぞれ違う。歴史は土地に結びついている。どこの国でも領土問題がナショナリズムを煽るのは、場所が歴史そのものだからじゃないだろうか。


オリンピックに向けて、東京都心はあちこち工事だらけだ。東京は災害がなくても、どんどん破壊されて、あたらしくなっていく。

そのことが一概に悪いとは思わないけど、土地の記憶をなくしてしまっていんだろうか。教科書に載る歴史だけが、歴史じゃない。むしろ場所に結びつかない歴史なんて、どれほどの意味があるんだろう。

教科書に載らなくてもそこに暮らす人たち、働く人たちは、場所と濃く結びついた小さな記憶をいっぱい抱えている。


それは都市部だって同じ。

渋谷駅周辺は劇的に変わってる。宇田川など渋谷川に流れ込む河川は先の東京オリンピックで暗渠化され、今度は、次のオリンピックに向けての再開発で246以南が春の小川としてお目見えするという。

今工事をしている渋谷区役所、渋谷公会堂はその昔、陸軍の刑務所があったところだという。そこが区役所兼マンションになるそうだ。隣接するところには2.26事件で反乱将校たちが処刑された碑があり、NHKにはその幽霊が出るという噂がずっとある。そのNHKも建て替えるそうだ。

大震災の記憶で残しておかなきゃいけないのは、被災地の風景だけじゃない。東京だって、あの日何があったのか残しておかなくていいのかと思う。

だって東京の3.11以前の記憶は、どんどん上書きされて、消えていっているんだからね。


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