5/19(火)

今日やったこと

・コーチングセッション×1
・GOAL-Bミーティング
・コーチングを受ける×1
・「ホモ・デウス」読了

ホモ・デウス

飢餓、疫病、戦争という問題を解決した 人類は何をするのか?どこに向かうのか?

人類の新たな目標はホモ・サピエンスをホモ・デウス(神のヒト)へアップグレードすること。
不死、幸福、そして神性の獲得が追求されていく。

二〇一〇年に飢饉と栄養不良で亡くなった人は合わせて約一〇〇万人だったのに対して、肥満で亡くなった人は三〇〇万人以上いた。
各国の人はみな、スペイン風邪をもらった。数か月のうちに、当時の地球人口の三分の一に当たる五億人が、このウイルスにやられて発病した。インドでは全人口の五パーセント(一五〇〇万人)が亡くなった。タヒチ島では一四パーセントの人が命を落とした。サモア諸島では二割の人が息絶えた。コンゴの銅鉱山では、労働者の五人に一人が病死した。日本では人口のおよそ四割(約二三〇〇万人)が感染し、四五万~四八万人が死亡したのではないかと推定されている。一年以内に、合計で五〇〇〇万から一億の人がこの世界的流行病で没した。ちなみに、一九一四年から一八年にかけての第一次世界大戦の死者、負傷者、行方不明者の合計は、四〇〇〇万人だった。
古代の農耕社会では死因のおよそ一五パーセントが人間の暴力だったのに対して、二〇世紀には、暴力は死因の五パーセントを占めるだけだった。そして二一世紀初頭の今、全世界の死亡率のうち、暴力に起因する割合はおよそ一パーセントにすぎない( 22)。二〇一二年には世界中で約五六〇〇万人が亡くなったが、そのうち、人間の暴力が原因の死者は六二万人だった(戦争の死者が一二万人、犯罪の犠牲者が五〇万人)。一方、自殺者は八〇万人、糖尿病で亡くなった人は一五〇万を数えた( 23)。今や砂糖のほうが火薬よりも危険というわけだ。
 人類は他に何を目指して努力するのか? 私たちは自らの幸せを嚙みしめ、飢饉と疫病と戦争を寄せつけず、生態学的平衡を守るだけでよしとしていられるのか? じつはそれが最も賢明な身の処し方なのかもしれないが、人類はそうしそうもない。人間というものは、すでに手にしたものだけで満足することはまずない。何かを成し遂げたときに人間の心が見せる最もありふれた反応は、充足ではなくさらなる渇望だ。人間はつねにより良いもの、大きいもの、美味しいものを
人類が新たに途方もない力を手に入れ、飢饉と疫病と戦争の脅威がついに取り除かれたとき、私たちはいったいどうしたらいいのか? 科学者や発明家、銀行家、大統領たちは一日中、何をすればいいのか? 詩でも書けというのか?
 現代の科学と文化は、生と死を完全に違う形で捉える。両者は死を超自然的な神秘とは考えず、死が生の意味の源泉であると見なすことは断じてない。現代人にとって死は、私たちが解決でき、また、解決するべき技術的な問題なのだ。
グーグルは二〇〇九年にも、やはり不死の実現を心から信じるビル・マリスを、投資ファンドのグーグル・ベンチャーズのCEOとして採用した。マリスは二〇一五年一月のインタビューで、「五〇〇歳まで生きることは可能かと今日訊かれたら、私の答えはイエスです」と述べている。マリスは自分の勇ましい言葉を裏づけるように、大金を注ぎ込んでいる。グーグル・ベンチャーズは二〇億ドルのポートフォリオの三六パーセントを生命科学のスタートアップ企業に投資しており、そのなかには、野心的な寿命延長プロジェクトを手がける企業もいくつか含まれている。マリスは死との戦いをアメリカンフットボールになぞらえて次のように説明する。「数ヤードのゲインを狙っているわけではありません。試合に勝とうとしているのです」。なぜか? 「死ぬより生きているほうがいいからです( 27)」と
遺伝子工学や再生医療やナノテクノロジーといった分野は猛烈な速さで発展しているので、ますます楽観的な予言が出てきている。人間は二二〇〇年までに死に打ち勝つと考える専門家もいれば、二一〇〇年までにそうなるとする専門家もいる。カーツワイルとデグレイはそれに輪をかけて楽観的で、二〇五〇年の時点で健全な肉体と豊富な資金を持っている人なら誰もが、死を一〇年単位で先延ばしにし、不死を狙って成功する可能性が十分あると主張している。二人によれば、ほぼ一〇年ごとに医療機関に足を運び、修復治療を受け、疾患を治してもらうだけでなく、劣化してきた組織を再生し、手や目や脳をアップグレードしてもらうこともできるようになるという。そして、次の治療の時期が来る頃には、医師たちは新たな薬やアップグレード手法や装置を発明し終えているだろう。もしカーツワイルとデグレイが正しければ、通りであなたの隣をすでに不死の人たちが歩いているかもしれない。
人類は二〇世紀に、四〇年から七〇年へと平均寿命をほぼ倍増させたから、二一世紀には、少なくとももう一度倍増させて一五〇年にできるはず、というわけだ。不死には遠く及ばないとはいえ、これはやはり人間社会に大変革を起こすだろう。まず、家族の構造や結婚や親子関係が一変する。今日、人は「死が二人を分かつまで」結婚生活を続けることが相変わらず当然と思われているし、人生の多くが子をもうけて育てることを中心に回っている。だが、寿命が一五〇年の女性を想像してほしい。四〇歳で結婚しても、まだ一一〇年残っている。その結婚生活が一一〇年続くと見込むのは、果たして現実的だろうか? カトリックの原理主義者でさえ、二の足を踏むかもしれない。というわけで、何度も結婚と離婚を繰り返すという現在の傾向が強まりそうだ。四〇代で二人の子供を産んだその女性が一二〇歳になった頃には、子育てに費やした年月ははるか昔の思い出と化し、長い人生におけるかなり小さなエピソードにすぎなくなる。そのような状況下では、どんな親子関係が新たに発展するかは予想がつかない。
科学が死との戦いで大きな進歩を遂げた暁には、真の戦場は研究室から議会や法廷や 巷 へと移る。科学の努力が実を結んだら、激しい政治の争いが起こるだろう。歴史上のあらゆる戦争や衝突は、私たちの行く手に待ち構えている真の戦い、すなわち、永遠の若さを得るための戦いと比べれば、ほんの前触れにすぎなかったということになりかねない。
ペルーやハイチ、フィリピン、アルバニア(貧困と政情不安に苦しむ開発途上国)では、毎年自殺する人は一〇万人当たり五人程度だ。一方、スイスやフランス、日本、ニュージーランドのような豊かで平和な国では、毎年一〇万人当たり一〇人以上が自ら命を絶っている。韓国は一九八五年には比較的貧しい国で、厳格な伝統に縛られ、独裁的な政権に支配されていた。ところが現在は、有数の経済大国であり、国民の教育水準の高さは世界でも指折りで、安定した、割に自由主義的な民主政権を持っている。とはいえ、一九八五年には一〇万人に約九人の韓国人が自殺したのに対して、今日では年間の自殺者数は一〇万人当たり三六人にのぼる。
今のところ、人類は生化学的な解決策のほうにはるかに大きな関心を抱いている。ヒマラヤの洞窟の中の僧侶や浮世離れした哲学者が何と言おうと、資本主義という巨人にとって、幸福は快楽であり、そこに議論の余地はない。一年過ぎるごとに、私たちは不快感への耐性が下がり、快感への渇望が募っていく。科学研究と経済活動の両方が、その目的に向けられ、毎年、より優れた鎮痛剤や新しい味のアイスクリーム、より快適なマットレス、より中毒性の高いスマートフォン用ゲームが生み出され、私たちはバスが来るのを待つ間、一瞬たりとも退屈に苦しまないで済むようになる。  もちろん、これほど手を打っても、およそ十分とは言えない。進化は、絶え間ない快楽を経験するようにはホモ・サピエンスを適応させなかったので、それでも人類がそうした快楽を望んだら、アイスクリームやスマートフォンのゲームでは間に合わない。私たちの生化学的作用を変え、体と心を作り直す必要がある。だから私たちは、それに取り組んでいる。事の是非は議論できるだろうが、全世界の幸福を確保するという、二一世紀の二番目の大プロジェクトには、永続的な快楽を楽しめるようにホモ・サピエンスを作り直すことが必須のように
したがって、詳細ははっきりしないが、それでも歴史の全般的な方向性については自信が持てる。二一世紀には、人類の第三の大プロジェクトは、創造と破壊を行なう神のような力を獲得し、ホモ・サピエンスをホモ・デウスへとアップグレードするものになるだろう。言うまでもなく、この第三のプロジェクトは第一と第二のプロジェクトを含んでおり、その二つから勢いを得る。私たちが自分の体と心を作り直す能力をほしがっているのは、何よりも、老化と死と悲惨な状態を免れるためだが、いったんそれを手に入れてしまえば、私たちがそれほどの能力を利用して他に何をやりかねないか、知れたものではない。だから、人類の新たな課題リストは、じつは(多くの部門を持つ)たった一つのプロジェクト、すなわち、神性を獲得することと考えていいだろう。
ゼウスやインドラとちょうど同じで、私たちの子孫には、依然として短所や風変わりな点や限界があるだろう。だが彼らは、私たちよりもずっと壮大なスケールで愛したり、憎んだり、創造したり、破壊したりできることだろう。
とはいえ、パニックを起こす必要はない。少なくとも、今すぐには。サピエンスのアップグレードは、ハリウッド映画に描かれるような突然の大惨事ではなく、徐々に進む歴史的過程となるだろう。ホモ・サピエンスがロボットの反乱で皆殺しになったりはしない。むしろ、ホモ・サピエンスは一歩一歩自分をアップグレードし、その過程でロボットやコンピューターと一体化していき、ついにある日、私たちの子孫が過去を振り返ると、自分たちがもはや、聖書を書いたり、万里の長城を築いたり、チャールズ・チャップリンのおどけに笑ったりした種類の動物ではなくなっていることに気づくということになるだろう。これは一日にして起こりはしない。一年でも起こらない。じつは、無数の平凡な行動を通して、それはすでにたった今も起こりつつある。毎日、厖大な数の人が、スマートフォンに自分の人生を前より少しだけ多く制御することを許したり、新しくてより有効な抗うつ薬を試したりしている。人間は健康と幸福と力を追求しながら、自らの機能をまず一つ、次にもう一つ、さらにもう一つという具合に徐々に変えていき、ついにはもう人間ではなくなってしまうだろう。
歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき始めることができる。私たちをここまで導いてきた偶然の出来事の連鎖を目にすれば、自分が抱いている考えや夢がどのように形を取ったかに気づき、違う考えや夢を抱けるようになる。歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。
配偶者やキャリアや居住地などにかかわる、人生でもとりわけ重要な選択も含め、私たちが下す決定の九九パーセントは、感覚や情動や欲望と呼ばれるじつに精密なアルゴリズムによってなされる
私たちの知るかぎりでは、無数の見知らぬ相手と非常に柔軟な形で協力できるのはサピエンスだけだ。私たちが地球という惑星を支配しているという事実は、不滅の魂や何か独特の意識ではなく、この具体的な能力で説明できる。
ある土地に住んでいるサピエンス全員が同じ物語を信じているかぎり、彼らは同じ規則に従うので、見知らぬ人の行動を予測して、大規模な協力のネットワークを組織するのが簡単になる。サピエンスはターバンや顎鬚やビジネススーツといった、視覚的目印をしばしば使って、「あなたは私を信頼できる。私はあなたと同じ物語を信じているから」と合図する。チンパンジーは人間に近い動物ではあるけれど、そのような物語を創作して広めることができない。だから彼らは大勢で協力できないのだ。
歴史はこのように展開していく。人々は意味のウェブを織り成し、心の底からそれを信じるが、遅かれ早かれそのウェブはほどけ、後から振り返れば、いったいどうしてそんなことを真に受ける人がいたのか理解できなくなる。後知恵をもってすれば、天国に至ることを期待して十字軍の遠征に出るなど、愚の骨頂としか思えない。今考えれば、冷戦は狂気の極みだ。三〇年前、共産主義の天国を信じていたがゆえに、核戦争による人類の破滅の危険を喜んで冒す人々がいたとは、どういうことか? そして今から一〇〇年後、民主主義と人権の価値を信じる私たちの気持ちもやはり、私たちの子孫には理解不能に思えるかもしれない。
夢と虚構が支配する世界  サピエンスが世界を支配しているのは、彼らだけが共同主観的な意味のウェブ──ただ彼らに共通の想像の中にだけ存在する法律やさまざまな力、もの、場所のウェブ──を織り成すことができるからだ。人間だけがこのウェブのおかげで、十字軍や社会主義革命や人権運動を組織することができる。
他の動物もあれこれ想像できるかもしれない。ネズミを待ち伏せしている猫は、ネズミを目にしていなくても、その姿形、さらには味までも想像しているのだろう。それでも、私たちの知るかぎり、猫にはネズミのような、この世界に実際に存在しているものしか想像できない。彼らにはアメリカドルやグーグルや欧州連合のような、見たことも匂いを嗅いだことも味わったこともないものは想像できない。サピエンスだけが、そのような架空の存在を想像できる。
他の動物たちが人間に対抗できないのは、彼らには魂も心もないからではなく、必要な想像力が欠けているからだ。ライオンは走ったり、飛び跳ねたり、鉤爪で引っ搔いたり、嚙みついたりできる。だが、銀行口座を開いたり、訴訟を起こしたりはできない。そして、二一世紀の世の中では、訴訟の起こし方を知っている銀行家のほうが、サバンナで最も獰猛なライオンよりもはるかに強力なのだ。
一方、人文科学は共同主観的なものの決定的な重要性を強調する。そうしたものはホルモンやニューロンに還元することはできない。歴史的に考えるというのは、私たちの想像上の物語の中身には真の力があると認めることだ。もちろん、歴史学者は気候変動や遺伝子の変異といった客観的要因を無視するわけではないが、人々が考え出して信じる物語をはるかに重視するのだ。北朝鮮と韓国があれほど異なるのは、ピョンヤンの人がソウルの人とは違う遺伝子を持っているからでもなければ、北のほうが寒くて山が多いからでもない。北朝鮮が、非常に異なる虚構に支配されているからだ。
二一世紀の間に、歴史学と生物学の境界は曖昧になるだろうが、それは歴史上の出来事に生物学的な説明が見つかるからではなく、むしろ、イデオロギー上の虚構がDNA鎖を書き換え、政治的関心や経済的関心が気候を再設計し、山や川から成る地理的空間がサイバースペースに取って代わられるからだろう。人間の虚構が遺伝子コードや電子コードに翻訳されるにつれて、共同主観的現実は客観的現実を吞み込み、生物学は歴史学と一体化する。そのため、二一世紀には虚構は気まぐれな小惑星や自然選択をも凌ぎ、地球上で最も強大な力となりかねない。したがって、もし自分たちの将来を知りたければ、ゲノムを解読したり、計算を行なったりするだけでは、とても十分とは言えない。私たちには、この世界に意味を与えている虚構を読み解くことも、絶対に必要なのだ。
神々はけっして死ななかったし、相続財産をめぐって争う子供もいなかったので、しだいに多くの資産と力を蓄えていった。いつしか、ますます多くのシュメール人が神に雇われたり、神から融資を受けたり、神の土地を耕したり、神に税を支払う義務を負わされたりすることになった。今日のサンフランシスコで、たとえばジョンはグーグルに雇われ、メアリーはマイクロソフトで働いているのとちょうど同じで、古代のウルクでは、ある人は偉大な神エンキに雇われ、その隣人は女神イナンナに仕えていた。エンキとイナンナの神殿はウルクの空を背景に堂々とそびえ、その神聖なロゴがさまざまな建物や製品や衣服を飾っていた。私たちにとってグーグルとマイクロソフトが現実味のある存在であるのに劣らず、シュメール人にはエンキとイナンナは現実感があった。シュメールの神々は、石器時代の魔物や霊といった先輩たちに比べると、非常に強力な存在だった。
このように書字のおかげで、人間は社会をまるごとアルゴリズムの形で組織できるようになった。情動とは何かや脳はどう機能するかを理解しようとしたときに、私たちは「アルゴリズム」という言葉に出合い、計算をしたり、問題を解決したり、決定を下したりするのに使える一連の順序立ったステップと定義した。読み書きのできない社会では、人々はあらゆる計算や決定を頭の中で行なう。一方、読み書きのできる社会では、人々はネットワークを形成しており、各人は巨大なアルゴリズムの中の小さなステップでしかなく、アルゴリズム全体が重要な決定を下す。これこそが官僚制の本質だ。
このアルゴリズム構造があるおかげで、当番の受付係や看護師や医師が誰であるかは問題ではなくなる。彼らの性格タイプや政治的見解やそのときどきの気分は関係ない。誰もが規定と手順に従っているかぎり、あなたが治してもらえる可能性はとても高い。アルゴリズムの理想によれば、あなたの運命は、たまたまあれやこれやの職を占めている生身の人間の手ではなく、「システム」の手に委ねられている。
虚構は悪くはない。不可欠だ。お金や国家や協力などについて、広く受け容れられている物語がなければ、複雑な人間社会は一つとして機能しえない。人が定めた同一のルールを誰もが信じていないかぎりサッカーはできないし、それと似通った想像上の物語なしでは市場や法廷の恩恵を受けることはできない。だが、物語は道具にすぎない。だから、物語を目標や基準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。企業やお金や国家は私たちの想像の中にしか存在しない。私たちは、自分に役立てるためにそれらを創り出した。それなのになぜ、気がつくと それら のために自分の人生を犠牲にしているのだ。
自由主義者も、共産主義者も、現代の他の主義の信奉者も、自らのシステムを「宗教」と呼ぶのを嫌う。なぜなら、宗教を迷信や超自然的な力と結びつけて考えているからだ。共産主義者や自由主義者は、あなたは宗教的だと言われたら、根拠のない絵空事をやみくもに信じていると非難されているように思うだろう。だが宗教的というのは、人間が考案したのではないもののそれでも従わなければならない何らかの道徳律の体系を、彼らが信じているということにすぎない。私たちの知るかぎり、あらゆる人間社会がそうした体系を信じている。
宗教とは社会秩序を維持して大規模な協力体制を組織するための手段であるという主張は、

メモ

・10ヶ年計画を作ってみる
・ビジョン実現までの航路、地図を描いてみる(6/3まで毎日やる)
・今は第1章、船出。
・プロフェッショナルとして身体を鍛える。筋トレが人生の歯車を回す行為。筋トレをしなければ何も動かない。
・自分ではなくメンバーがどうか
・ボディメイクとコーチングのサービスをリリースする。(6月中)
・ボディメイクとコーチングで成果が出る仕組みを明確にする(6/3まで)
・仕事を終えた後、オフィスから家までダッシュで帰宅→筋トレ の流れがGOOD。

問い 私は、自分の何を『信じて』いるのか

自分の、全ての人の可能性を信じている。知っている。


















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