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塚本晋也監督「六月の蛇」

 "出張デート"で「何処に行きたい」と訪ねられ、出張先の近隣にある津山市郊外・長法寺の名を挙げた。

 3500株を誇るアジサイで有名な寺だ。
 その名を聞いた途端に、お客様が妙な表情を浮かべたので「寺巡りが趣味なの」と、アタシははにかみながら答えてみせた。

 勿論、寺には興味がない。

 長法寺には数年前、鏡野の養蜂場を訪れた帰りに立ち寄ったことがあって、本堂に続く石段の左右に咲き乱れる小さな花の固まりを見て、アジサイにも色々な種類があるんだなぁと感心させられた記憶がある。

 しかしアタシが見たかったのは、そのアジサイでもなく、境内のそこいら中にいる蛍光色なのかと思える程綺麗なライムグリーンの毛虫達だった。

 しかもこいつらはサイズが異様に大きい。この毛虫が高い樹木から雨のように降り落ちて来るのだ。

 いわゆる『怖いもの見たさ』である。

 それにライムグリーンの親指みたいな大きな毛虫をヒールで踏み潰したいというささやかな妄想もあった。

 ぶよぶよに見える癖に、意外と硬い弾力を持っていそうな外皮から、はち切れて飛び出すドロドロの体液、、。

 それは自分自身のペニスのイリュージョンなのか、アタシの身体を貫き、なすりつけられて来た男達のそれなのか。


  梅雨の頃になると必ず思い出す映画が2本ある。

 トラン・アン・ユン監督の「夏至」と、塚本晋也監督の「六月の蛇」だ。

     ビデオ・オン・デマンドの登場で、こういった過去の秀作を手軽に鑑賞する事が出来る。…そう云う意味では良い時代になった。

 今日は「6月の蛇」のご紹介。

    同映画は全編ブルートーンのモノクロームで描かれ、02年の第59回ベネチア国際映画祭「コントロ・コレンテ」部門で審査員特別賞、03年のポルト国際映画祭最優秀主演女優賞(黒沢あすか)など多数の賞を受賞した。
    最近では公開20周年を迎え、タイトルにある6月を皮切りに、日本各地で記念上映が行われている。

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 『スカートの下にパンティを付ける事を禁じて、電動ヴァイブを挿入させたまま街を歩かせる。やがて女は自ら「恥辱」を反転させながら、今までにない快楽の波に飲み込まれていく・・だがその女は貞淑な人妻であり、、。』

 これなど、SM小説の世界では古典的とさえ言えるシチュエーションで、AVでも素人さんのご夫婦でも、これをなぞったりする事は珍しくない。

 塚本監督がこの映画の脚本を書いた時だって、発想的にはそう苦労はしていない筈だ。

 第一、携帯電話で主人公りん子に送られる言葉の中身なんて「八百屋で(オナニー用の)キュウリとなすびを一本ずつ買って来い。」だの、「電動こけし」だの、スポーツ新聞連載のエロ小説レベルでしかないのだから。

  要するに脚本の骨子となるものは、日本男性なら誰でも考えつく俗っぽい性的ファンタジーであり、映画を作る上で、巷のAV制作の困難さを上回るものがあったとも思えない。

 それでも「6月の蛇」は、映画として良質である。

 ・・これほど身を硬くしながら映画を見続けたのは久しぶりの事だ。

 何日も雨が降り続く六月の東京。

 りん子は心と健康の電話相談室に勤めている人妻だ。

 潔癖症の夫とはセックスレス状態にある。しかしお互いの愛情が薄れているわけではない。ある日、りん子は職場で一本の相談電話を受け取る。

りん子はその相手を励まし、自殺を食い止めることができた。

 だがそれをきっかけにその男からりん子へのスト-カー行為が始まる。彼女の自慰行為を盗み撮りした写真が送られてきたのだ。その日からりん子の恥辱と恐怖の日々が始まるのだった。

 「6月の蛇」は、主人公りん子に猥褻行為を強要するストーカー男にのみに焦点をあてるのなら、エロチックサスペンスドラマという事になるのだろうが、この映画を見ることで感じる緊張感は、一般的なサスペンスドラマから得られるような意識の表面を走るだけの軽いものではない。

 もっと生理的で、根元的な部分に迫ってくるものなのだ。

 それは村上春樹氏の「ねじまき鳥クロニクル」の根底に流れているものに近いように思う。

 もっともこのバイブレーションは「6月の蛇」に限らず、「鉄男」をはじめとする塚本作品のすべてに(妖怪ハンターは除外)通底するものなのだが、「6月の蛇」ではそれが際だっているのである。

 このパワーの増大は、「6月の蛇」の心理的SM行為を際だたせたストーリー展開にも助けられていると思うが、なによりも塚本監督のスクリーン上に描く「絵」の変化が大きいように思える。

 言ってはなんだが、塚本作品から最も縁遠いものは「お洒落」である・・それが「6月の蛇」では黒沢あすかの起用と、スクリーンを覆う青黒い画面と雨の都市を描いて、思いがけずスタイリッシュに仕上がっている。

 どしゃぶりの雨が降りつづける世界。

 紫陽花の花とナメクジ、側溝に流れる濁流と浴室の天井の丸いガラス窓をたたき続ける雨。

 ショートカットの若妻の頬から噴出す玉のような汗。

 今までのドロドロとしたエネルギーに溢れた泥絵のような作風の見栄えが、ほんの少し、しかも洗練という逆のベクトルに変わっただけで、より塚本監督の情念が息づいて見えるとは不思議なものだ。

 ただしこの変化は、黒沢あすかという女優の起用があってこその話だろうと思う。

 塚本監督が「妻の役は下品なことをしてもらうので、上品な女優でないと無残なことになると思って黒沢さんにお願いした。」と言った通りに、いやそれ以上の効果を、黒沢あすかはこの映画に与えているのだ。


「ボーイッシュなヘヤースタイルに黒縁眼鏡。ホントは綺麗なくせに、ださく見せる演出がわざとらしくて嫌。」とか思うのは最初のうちだけ。

 後は、ぐいぐいと黒沢あすかが演じるりん子の「オンナの普通さ」、業のありように魅せられてしまう。

 ラスト近く、りん子が夫と夕食を採る場面の愛らしさと、降りしきる雨の中でカメラフラッシュに晒されながらの吠えるようなオナニー姿の対比は、圧倒的で感動さえ覚える。

 この黒沢あすかがあってこそ「最終的にりん子と夫は新しいお互いの関係を再構築出来たのか、それとも、、?」と言った感じのあの微妙にずれていく不思議なエンディングの感覚が得られるのだろう。 

 いずれにしてもこの映画の勝者は、スクリーンの中ではりん子であり、スクリーンの外では黒沢あすかと言えるだろう。勿論、それは、このキャストと絵作りで「6月の蛇」を撮り終えた塚本監督の才能があってこその話だが。

 ただ後半に差し込まれる殺人クラブ等の妙なエピソードや、イメージ画像は蛇足だったかなと思う。

 ・・この人の今までの映画って、この蛇足部分で全部出来てるんような気がするんだけど(笑)。

 最後まで疑問なのはコラムニストの神足裕司氏を、過剰なまでの潔癖性の夫に配したこと。どちらかというと容貌魁偉な神足裕司氏のイメージからは潔癖性の夫は連想できないし、神足裕司氏の夫とストーカー役である塚本晋也の「うん、この消臭薬飲んでるのがわたしらの共通点ですよね。」といった会話もまるで二人に似合っていない。
 ただこの二人(特に神足裕司)のおかげで、りん子こと黒沢あすかが輝いて見えた事は確かなのだが。

※現在、神足裕司氏はリハビリ中、ご健闘を!!








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