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3.バー付属のホテル(第4章.旅先で触れた想い出の宿)

 パリ近郊にイル・ド・フランスという地域がある。このイル・ド・フランスにエタンプという街があり、1992年に行ったことがある。

 何故エタンプか、と聞かれても困る。ガイドブックに「特にこれといった名所旧跡があるわけではないのに、『ああ、フランスにいるんだなあ』という思いが心の底から湧いてくる」と書かれていたので興味を持ったのだ。しかし、いざ行ってみると、本当に「これといった名所旧跡があるわけではない」だけでなく、それ以外にも何も無かった。街は淋しく、どんよりとした冬の空が辺り一面を覆っているので余計に、そう感じたのだ。

 しかし、この街で1泊しなければならないのだ。今からパリに戻る訳にはいかない。街を歩いてもホテルらしきものは2軒しかない。そのうちの1軒に足を踏み入れてみた。宿のオヤジに声を掛け1泊したい旨を告げた。部屋に案内してもらったが、階段は朽ちかけボロボロ。しかも部屋は汚い。何となく不安を感じた私は、首を横に振り宿を後にした。

 そして、もう1軒のホテル。こちらは駅前にある。「北ホテル」という名前の小さなホテルである(ちなみに「北ホテル」という同名のフランス映画がある)。さっそく中へ入り、宿のオヤジに値段を聞いてみる。当時22歳、学生の身としては高かったが、しかし街に2軒しかない貴重な宿泊施設。ここに泊まる以外選択肢は無い。私は宿泊料を払い、2階の部屋へと上がった。

 それにしても変わったホテルだ。受付のある1階(地上階)はバーになっている。先程応対をしてくれたオヤジが恐らく宿のオーナーであろうが、彼はパンチパーマに口髭といった出立ちで、一見したところガラが悪い。何となく変な所に紛れ込んでしまったな、と思ったのだ。

 それでも荷物を解くと、私は1階のバーに行ってしまった。とにかく喉が渇いていたのだ。口髭のオーナーは私の姿を認めると、「どうぞどうぞ」と言わんばかりに笑顔でカウンター席を勧めてくれた。「何だ、このオヤジ、思ったよりも愛想がいいではないか」そう思いながら、私はカウンター席に陣取った。周りを見渡すと、何故かお客さんは男性ばかりだった。店内は煙草の煙が漂い、中南米の音楽が掛かっている。少し物悲しい雰囲気ではあるが、何となく男達の盛り場といった感じがする。

 私は少し緊張しながらカウンターでビールを飲んでいると、口髭のオーナーが色々話し掛けてくれる。そして、同じカウンターにいた他のお客さんも「どこから来たのか?」などと声を掛けてくれる。そのうち口髭のオーナーや他のお客さんとも打ち解けて、緊張も少しずつほぐれていった。

 当時、22歳の私。一人でバーに行くのも海外も初めてだ。全てのものに予防線を張り、身構えていた。しかし、むしろオーナーもお客さんも、異国から来た若者をかわいがってくれていたのだ。彼らに囲まれ、そのお陰で少しずつ心のバリアが溶けていった夜だった。

 後から分かったことであるが、このホテルはバーで飲んだ客が帰れなくなった時のための(要するに、心置きなく飲める)宿のようである。これと似た宿の形態にオーベルジュなるものがある。しかし、オーベルジュは自動車でなければ行けないような田舎に位置し、しかもオーナーシェフの手による郷土料理を味わうことが出来る宿である。しかし、このホテルはそのような雰囲気は微塵も感じられない。やはり、心置きなく飲める宿のようである。客は飲んだ後、這うように階段を上がり、自分の部屋に辿り着ければそれでいいのだ。ちなみに、この時の私は這うまで飲んだ訳ではない…念のため…。

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