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3.国境沿いの街にて(第6章.旅先で考えた社会の問題)

 国境を越えるという行為はワクワクする半面、何となく窮屈な思いに苛まれる。ワクワクする気持ちはもちろん、見たことのない世界に対する期待感からである。一方、窮屈な思いをするのは、国境というものが極めて政治的な意味合いを帯びているものだからである。

 スウェーデンの作家ペール・アンデションは「旅の効用」(草思社、2020年)の中で「ヨーロッパの国境は、膨張主義の戦争の結果引かれた線であり、(中略)だから国境線と一致しない国々・言語がこんなにたくさんあるのだ」と述べている。まさに国境とは政治的なもの。だから国境を跨いでも同じ文化を共有する地域は沢山あるのだ。

 そんな国境を私も幾つか越えてきた。もちろん、日本から出国する時も、また途中トランジットで立ち寄る空港も国境越えではある。だから出入国審査をする訳だが、それより何より地続きの国境越えは得難い体験である。

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 シンガポールからマレー鉄道に乗ってマレーシアに入国したことがある。列車は出発すると途中の駅(?)のような所で停まり、乗客は全員降ろされチェックを受ける。列車が再び走り出し、マレーシアの国境の街ジョホールバルに到着した時、「Welcome to Malaysia」と車内アナウンスが流れた。その時、ついに国境を越えたのだと実感するのである。出入国審査はやはり緊張を伴う。それでもシンガポールとマレーシアは強い結びつきがあり、特に中国系、マレー系、インド系が共生している文化はお互いの共通点と言ってもいい。

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 また、バルカン半島のクロアチアからモンテネグロへバスで国境を越えたこともある。検問所で乗客は全員バスから降ろされ、国境警備隊が見守る中、出入国審査が行われる。係員は私をジロっと睨み、私は「黙ってここを通してくれよ」と祈る。無事に検問が終わり再びバスに乗り込むと、ホッと胸を撫で下ろすのだ。そして目的地モンテネグロのコトルに到着する。そこはアドリア海に面した美しい街並みで、今までいたクロアチアのドゥブロヴニクと同じ文化圏であることを実感するのである。

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 さて、国境沿いの街と言えばイタリア国境に近い南フランスの街マントンに滞在したことがある。ニース同様、地中海沿岸に広がる美しい街である。街の至る所にはイタリア国境沿いということもありイタリア語の看板も散見される。

 そんなマントンで私はとあるイタリアン・レストランに入った。中にはピザを焼く炉があり、ある男性がちょうどピザを焼いているところだった。私が声を掛けると彼はいきなりイタリア語を喋ってきた。きょとんとしている私を見かねた彼は英語の出来る給仕係の女性を呼んできてくれた。

 給仕係の彼女はまだ20歳くらいだろうか。とびきりの笑顔で席に案内してくれた。テーブルに上った舌平目のソテー・レモンソース和えはもちろん美味しかったのであるが、それより彼女の接客がとてもフレンドリーで、終始気持ち良く食事が出来た。

 そんな彼女だから、こちらも話し掛けやすかったのかもしれない。私は彼女にイタリア語を少し教えてもらったのだ。実は翌日、ここマントンから列車で国境を越えてイタリアのサンレモに行こうと思っていたのだ。私はイタリア語は全くの門外漢なので、彼女に少しだけ教えを乞うたのだ。すると彼女は英語、フランス語、イタリア語を屈指して私にイタリア語の簡単なフレーズを教えてくれた。さすがはイタリア国境沿いの街。このような環境で暮らしていれば、3ヶ国語を話せるのは極自然なことなのかもしれない。

 サンレモへの日帰り旅行も含めて1週間ほど滞在したマントン。私はマントン滞在最終日に、もう一度あのイタリアン・レストランに足を運んだ。すると、あの給仕係の彼女もピザ職人の男性も私のことを覚えていてくれた。私は給仕係の彼女に「マントンって、とってもいい所。フランスの文化とイタリアの文化が混ざっていて…」と言うと、彼女は「そうでしょ?」と得意げな笑みを浮かべた。私は彼女の笑顔を見た瞬間、やはり政治的に引かれた線より、人々の日々の営みの方がはるかに意味がある、と改めて感じたのだった。

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