翼をください

腕が徐々に翼へ変わってゆく病気です。進行すると幻覚が見え始めます。愛する者の皮膚が薬になります。

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病室は207号室です。右目から真っ赤な花が咲くという病気にかかった患者と出会い仲良くなります。密かに外科医に恋をしています。

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という診断結果を元にした創作です。



*****

 朝目を開いたその時に、見えたのが青空だったから、ああもう駄目なのかな思ったのだ。
 眼を射す陽光を遮るように掲げたのは、幾筋か薄紅の混じる白い羽だった。埋もれるように、まだ人の指や腕やがある。ゆるゆると、日を増すごとに形を変えるそれらを、そうと呼んでいいのかは、分からない。
 羽ばたけたら。そう思って、勢いよく体を起こした。駄目だ。駄目だ。駄目だ。羽ばたきたくない。飛びたくなんて、ない。私はただの、人間だ。
 ぎゅっと目を閉じてから上を見上げる。見慣れた天井がそこにあった。浮き上がる閉塞感を閉じ込めて、私はようやくベットから立ち上がった。青空が塞がれてなお、私の腕は羽毛の中だった。

 その病院の存在を知ったときはまさかと思った。そもそも、私のこの『現象』が『病気』であるとは思えなかった。けれど壁も床も天井も白い病院は、ごく普通の手続きでもって私を診察してくれた。
「多奇毛症?」
「便宜的に当病院で名付けているものですが」
「そんなにいっぱいこの病気の人って、いるんですか」
「いいえ。うちは奇病専門で長くやってますから、過去に数人の記録があるだけです」
「……治るんですか」
 祈るように、震えを抑えた声で尋ねると、まだ年若い医者は微笑んだ。
「分かりません」
 柔らかく告げられた言葉はあまりにも無造作だった。
「治療法が、見つかってないって、ことですか」
 突き放されたようで、ショックを受けることも出来ず放心したままで問いかけた。自分の台詞が、まるで別の人間が話しているように遠くなる。さ、と医師の後ろの壁が掻き消えて、日が差す青い空が現れた。美しいなと思った。
「いいえ、分かっていますよ。ただ、その薬が存在するかは分かりません」
「どういうことですか」
「恋人はいらっしゃいますか?」
「え?」
 あまりに唐突な質問に間抜けな声が漏れる。青空が消える。白い壁を背にして、医者は変わらず笑っている。
「……いいえ」
「好きな人なんかは?」
「……いいえ」
「でしたら今のところ、薬はありませんね」
「……あの、仰る意味が」
「皮膚が薬になるんです。腕が翼になる多奇毛症は主に二つに分かれまして、外科手術で腕を一度完全に切り離して、再度くっつけて治るものがまず一つ」
 柔らかな説明にぞっとするが「こちらは幻覚症状がない方の治療法です。貴方は違いますので、この治療は行えません」と説明され、息を吐けばいいの無念がればいいのかが分からなくなる。
「貴方の場合は強く意識している人間、愛している者の皮膚が薬になります。皮膚を移植するわけではないですよ。腕、あるいは手の皮膚をわずかに採取して、そのまま食べてしまえばいいんです」
「……どうしてそれで、治るんですか」
「それが分からないのが奇病と呼ばれる所以でしょうかね」
 にこやかな医師に何を言えばいいのか分からず、口を閉じる。私には薬となる人間がいない。いたとしても皮膚をどうやってもらえばいいのか分からないが、それ以前の問題だ。治療は出来ない。つまり私の腕は、どんどん羽に覆われて、鳥のような翼になるというのか。
「……どうすれば、いいんですか」
「治すためには薬となる人を見つけるしかありません」
「……そんなこと、言われても……」
 合コンだのお見合いだのに参加すればいいのだろうか。けれど前提が薬のため、という時点で、色々難しい気もする。
「他の治療法が見つかるのを待つ、というのも無くは無いですが……。はっきり言って期待薄です」
「……翼になったら切り落とすしか、ないんでしょうか」
「いいえ、それも難しいです。以前同じ症例の方が試みましたが、驚いたことに再度、生えてくるようです」
「……は? 腕が?」
「翼が」
 言葉が出ない。いよいよもって人間で無くなるようだ。ぞっとした。
「加えて幻覚症状は徐々に重くなります。日常生活は困難になるでしょう」
「そんな……」
「この病院には特殊病棟があります。そちらに入院することも可能ですよ。病状の記録と、羽を定期的に頂ければ入院費もかなり抑えられます」
「羽を?」
「薬になるんです。他の患者さんのね」
「……」
 なるほど、やはりおかしな病院だ。今の私に似合いだと思って、いくらなんでも八つ当たりだと自重する。
「……しばらく、様子を見てからでもいいですか。薬になってくれるような人がいないかどうかも、探してみます」
「ええ。病状が進行するようでしたらまたお越しください。幻覚症状を和らげるお薬をお出ししておきますので、毎朝食前に飲むようにしてくださいね」
「はい」

 そう言って病院を出た時は、まだ二の腕に微かな羽が生えているだけだった。幻覚も、ほんの時たまに見えるぐらいだった。けれど一月を経て、もうだめかもしれないと思った。私の腕は指先までもが羽に覆われるようになった。袖の長い服や手袋で覆うのも、もう限界だった。それに、日増しに青空が増えるのだ。
 朝、鏡に写る私の背景。開いたクローゼットの中。迫るように視界に映る青空が、全く恐ろしく思えない。

 ただ、焦がれた。


 病棟を訪れた私を出迎えてくれたのは、あの無暗ににこやかな外科医だった。表情は相も変わらない。
「食事の時間は基本的にこのように。出歩ける方は食堂で取られています。場所の案内は僕ではなくて、患者の女性がやってくれると」
「患者さんが?」
「ここの人たちは病院というより寮のような感じで、仲良くなさってますので。きっかけに話したいんでしょう。気さくな方ですよ」
「そう、ですか」
 呑気なものだ。ざわりとした不快感を覚えると、右手の壁が消えて、温かい風を錯覚するほどの青空が広がる。目をそらした。
「あ、居ました」
「あ! 先生! その人が、新しい人ですか?」
 声に顔を上げる。目を見開いた。肩の上で内側に跳ねた髪が軽やかな、背の低い女性。同い年ぐらいだろうか。けれど、そんなことよりも。
「初めまして! 私は、一年ほど入院してるんです。なんでも聞いて下さいね」
 彼女の右目には、真っ赤な花が咲いていた。


「多奇毛症?」
「って、言われたけど。便宜的にここで名付けてるだけだって」
「ふぅん。まあ、奇病だもんね」
「ああ、それも言われた」
「先生に?」
「そう」
 ため息混じりに頷くと、隣に座った彼女が笑う。余計に右の花が明るく見える。
「私はなんだったかなぁ。花型異常瘡だか奇形瘡だか……忘れちゃった」
 軽やかに笑う。あの医師もそうだが、この病棟の人間は皆これほど明るいのだろうか。もっともにこやかであるにも関わらず、何を考えているのか分からない医師とは違い、彼女はとっつきやすかった。敬語が取れたのも、ほんの数分でのことだ。
「どういう病気なの?」
「んーよく分かんないの」
「え? 症状は?」
「分かってるのはこれだけ」
 右目を、いや、右目であるべき場所に咲く花を指差して、少し眉を下げる。困ったような顔だ。
「ちょっとずつ育って、ゆっくり散って、でもすぐに蕾が膨らんできて、また咲くの」
「……入院して、一年って言ってなかった?」
「うん。治療法も分からない。この花を無理に切除して良いのかも、したらどうなるのか、いつか枯れるのか、枯れたらどうなるのか。全然分かんない。困っちゃう」
 ぞっとする。何が起こっているのか分からない恐怖は、よく知っている。この病院を訪れて、病気であると診断され、今のところ行使は出来ないにせよ、治療法は分かった。それでも治らない恐怖だけでも、十分に気が狂いそうなのに、彼女はもう一年、何も分からない病を宿してるのか。
「……こわく、ないの」
 ああ、しまった。言ってしまってすぐに後悔する。怖くない、訳がない。花が枯れたら死ぬのかと、そんな不安に脅かされ続けているはずだ。馬鹿なことを聞いてしまった。彼女は驚いたような顔をして、けれどまた笑った。少し大人びた、綺麗な笑顔。
「怖い、けど。でも」
 左目が伏せられる。右目の赤い花が微かに震えた。
「涙は、でないから」
 青空が広がる。赤い花だけが、空に浮かんだ。
 息を呑む。瞬くと、すぐに青空は消えて、彼女も明るい表情に戻っていた。
「それに、私、お花好きだし! 綺麗だからね」
「そ……っか」
「それにねー、ふふ。ここでの生活、楽しいし。この花弁も薬になるんだって。時々しか落ちないのが残念なくらいだけど、でも遊んで暮らせちゃうし。大人になって毎日が夏休みだよ? 贅沢だよね」
「そうかも、ね」
「それに」
 頬に朱が昇る。花が輝いて、とても可愛い、女の子らしい表情になる。はにかみながら、彼女はひっそりと教えてくれた。
「好きな人がいるの」
「ええ? ここに?」
「うん」
 内緒だよ、と人差し指を立てる仕草が少女の様で、思わず私も笑ってしまった。



 内緒だよ、といったのに、彼女はとんでもなく分かりやすかった。彼女の想い人は同じく患者である青年だった。年は少し上だろう。あの医師と同い年らしく、仲が良いらしい。よく話しているのを見かけた。
 彼も勿論奇病持ちだが、常に異常があるわけではないらしい。なんでも突然に、皮膚の一部が水晶のように硬質化するらしい。すぐさま手で抑えて、24時間以上そのままにして、その後速やかに切除する。切除してしまえば肌は元通りらしい。いつ発生するか分からず、また手で抑えなかったり、24時間以内に一瞬でも離してしまうと水晶化が進み全身が砕けるのだという。
 あまりの症状に聞いた時は眉を潜めたが、青年は淡く苦笑した。
「頻度はまちまちですが、基本的にそう頻繁ではないんです。水晶化したらすぐに分かりますし、自分の手で抑えてしまえばいいので、外に出かけたり、ごく短期間の仕事をしたこともありますよ。もっとも症状が起これば手を動かせないですし、場所によっては服に手を突っ込まなければならないので、そうそう出来ませんが。基本的には日常生活に問題がないので、気楽なものですよ」
 微笑む青年は繊細な雰囲気があって、それこそ触れると割れてしまいそうだった。けれど優しげな面差しは彼の人柄を表すようで、彼女が好きになったのも分かるものだ。
 彼女はといえば、青年のほほ笑みに見とれて、すぐにそんな自分に気付いて慌ててあちこちに片方しか無い目を動かす。花でさえいつもより輝いて見えるのだから、可愛く思えてならない。青年と共に立っている医師もクスリと笑った。
 笑い声に誘われたように、それに、と彼は悪戯気に右側に立つ医師を見やった。
「優秀な主治医がいますから」
「おいおい」
「彼は僕といるとき、ポケットに手も入れないし、飲み物だって、僕から遠い手でしか持たないんですよ」
 まさに右手で紙コップを持っていた医師は素知らぬ顔でコーヒーを飲む。持ち替えないままの左手は彼の側で垂れている。バツの悪そうな医師の顔は、新鮮だった。耳の下が微かに赤い。照れている。あの医師が。
「水晶化した皮膚を綺麗に切り取ってくれるのも、彼の役割ですし」
「俺じゃなくてメスだよ、切り取ってるのは」
「照れてる?」
「うるさい」
 俺。俺っていうんだ。自分のこと。思わず笑うと、取り繕えていない変な顔をして彼が見てくるのが、おかしかった。


 入院してからの日々は、驚くほど早かった。遊んで暮らす、なんて彼女は言っていたけれど、病院の仕事を手伝ったり、内職をすることも多かった。もっともどれもすでに気心の知れた人たちとするもので、仕事、というには和やかに過ぎるのだが。
 基本的にあの医師は裏の読めないにこやかな表情を崩さない。すでに医師と患者の役割を超えているらしいあの青年とのやり取りの中でときどき違う表情を見せるくらいだ。いつか、私にも見せてくれたらいいなと、時々考える。
 青年や花の彼女とも、どんどん仲良くなった。相変わらず彼女は青年に片思いしていたが、どうやらいまいち鈍いらしい青年とのどこかズレたやり取りは笑いを誘った。
 それでも、視界を覆う青空は、減ることは無かった。入院していなかった時よりはゆっくりと、けれど確実に、空は増える。ふとした時に床が消えて雲さえ低い、なんてことも、珍しくはなかった。空への希求も、いや増していく。そのたびに、深呼吸をする。大丈夫、飛びたくない。私はここから空へ飛び立ちたいなんて、思ってない。
 腕はもうほとんど完全に、翼になっていた。指先の感覚は有り、存外器用に動くものの、不便は増していく。それでも友人たちは細やかに、それとなく気遣ってくれた。その気持に、なんどか泣いた。
 彼女の赤い花が二度咲き変わった頃に、ことが起こった。
 私の腕を診察する医師の袖から一瞬、見慣れない羽が見えたのだ。
「先生? なにか、ついて……」
「え?」
 医師が袖を捲くる。左手首より少し下に、小さな、黒い羽が付いていた。医師が眼を見開く。
「私以外にも、羽の生えているような患者さんが来たんですか?」
 医師は答えない。指先で羽をつまみ、引っ張った。
「……っ」
 悲鳴を押し殺すような息が漏れ、羽が取れる。腕には赤い点が空き、やがて血が浮きだした。と思ったら、押し出すように、黒い羽が伸びていく。私は思わず口を抑えようとして、羽を震わせた。床が青空に抜ける。
「……おそらく、多奇毛症です」
「私と、同じ……?」
「分かりません。今は……まだ」
 初めての診察の折、そういえば聞いていた。多奇毛症には二つあると。医師は袖を元に戻し、いつものにこやかな表情で自分への診察を下す。
「一先ず経過観察ですね。幻覚症状を伴わない多奇毛症は症状の進行が早いですし、そうでなくても幻覚症状の有無でも判断がつきます。同じ病気だったら、患者仲間としてよろしくお願いしますね」
「え、あ、はい」
 じゃあ、いつもの問診を。袖が戻され、ペンを持つ彼はあまりにもいつも通りで、私も思わず、いつも通りに応えるしかなかった。痛みの有無も幻覚の進行も、私のことよりも、彼のことが気になって仕方がないのに。

 次の日から、彼は入院患者に仲間入りをした。けれども白衣姿は変わらないし、医師の仕事もほとんどそのままに行っている。寝泊まりだけが、水晶の青年と共になったという。
「この通り。一日で前腕は殆ど羽に埋もれています。症状の進行から見て恐らくもう一つのほうでしょうね。念のためもう一日経過を見てから、手術に移ります。自分でやるわけにはいかないのが面倒なところですが」
 肩をすくめる表情さえいつも通りだ。私と共に二人の病室を訪れた花の女性も大仰に息をついた。ただ、青年だけが眉を潜めている。
「では、僕は午後の診察にいくので」
 ちらりと青年を見てから、彼はそう言って部屋を出て行った。彼女が明るい声で見送って、ほっとした表情で笑う。
「先生が入院って聞いてびっくりしたけど、あの分だとすぐ退院みたいだね。それでも病院にはいるけど」
「そう、だね」
 青年が曖昧に頷く。彼女が眉を潜めた。
「どうしたの? なにか……あった?」
 心配気に揺れる声に、青年が惑うように目を伏せる。
「彼に、なにかあるの?」
 私の声も震えていた。部屋に入ってからずっと空だった彼の瞳の色が元に戻る。それが、酷く不安だった。
「……なにかってわけじゃなくて。ただ、まえ多奇毛症について聞いた時、彼言っていたんです」
「なにを?」
「……彼女が、あなたが即座に治療出来ないのは残念だったけど、もしかしたら良かったかもしれない。もう一つの多奇毛症は進行も早い場合が多いし、腕が抜けるような痛みが襲う。完全に翼になると、痛みのあまり、ショックで命を落とすこともあるって」
 ひゅっと音がする。幽体離脱でもするように、五感が遠くなる。視覚ではない何かが空を探し、羽が起きる。けれどどこにも空はない。病室だ。誰の? 青年と、彼のだ。そう思ってから五感が戻る。主の居ないベットが青く抜ける。音を立てたのは私の喉だ。息苦しさを覚えて息を吸った。
「……先生、そんな様子、少しも」
「はい。だから、もしかしたら本当に、なんともないのかも。ただ……すこし、心配で」
 ため息を付く青年の瞳の中には雲が浮かぶ。陽光が眩しかった。
「でも、少なくとも治療は出来るわけだし。治ったあとででも、弱音、吐いてもらおう?」
 彼女が眉を下げる。落ち着いた声が優しい。
「そうですね。はい。とりあえず、一緒にいるぐらいしか、今は出来ない」
「心強いよ。それだけども。すごく」
 彼女の言葉は深かった。その気持は、とてもよく分かる。奇病でも、側に誰かが居てくれることの価値は、痛い程知っていた。
「明日までのルームメイトを、大事にします」
 笑う彼の瞳はまた元の濃い色に戻っていたけれど、もう不安は感じなかった。


 次の日は、土砂降りの雨だった。それでも、私には雨の音しか聞こえない。見上げた空はどこまでも澄み渡る、気持ちのいい青空だ。血が逆流するような飢餓感をやり過ごしながら、彼女とともに、青年と医師の病室を訪れた。
 部屋に入って、まず驚いた。青年と医師が向い合って座って、なぜか手をつないでいる。それも両手それぞれで、輪を作るような形だ。
「せ、先生?」
 声をかけると、医師はにこやかな表情で振り返った。「おはようございます」青年は沈黙したままだ。
「どうしたんです?」
「いえ、ちょっと」
「僕の症状が出たんです」
 いつもより沈んだ声で、青年が答えた。
「症状って、あの?」
 彼女が不安げに問いかけた。
「ええ。今までは、一箇所だけだったのに、どうしてだか、両手に症状が出て」
「両手、って……」
 確か彼の病気は、水晶化した箇所を【手】で抑えなければならなかったはずだ。両手が塞がったのならば、どうしようもない。
「彼がすぐに抑えてくれたんです」
「入院していて良かったです」
 あいも変わらず、にこやかに、医師は言う。彼が居なかったら、青年は誰も知らないままに病室で水晶になって、砕けていたのかも知れないのだ。隣に立っていた彼女が安堵のあまり、へなへなと座り込む。
「良かった……」
 私もほっと息をつく。青年だけが、暗い顔をしていた。

「もういいよ」
 動けない彼らに代わって昼ご飯を持ってきた時だった。ぽつりと青年が言う。
「なんのことだ?」
「わかってるでしょう」
 ずっと俯いていた青年が顔を上げる。いつもの柔らかい表情は消えて、怖いくらい真剣だった。
「手を離してください」
 隣の彼女が息を飲む音が聞こえた。にこやかだった医師も表情を消す。
「何を言っている?」
「腕。進行がかなり速いんじゃないですか」
「……大丈夫だよ」
「服の上からでもわかる! もうほとんど翼になってるでしょう!」
「大丈夫だから」
「手の温度も下がってる。隠そうとしたって、顔色も悪い。本当は今も痛みで死にそうなんでしょう」
「大丈夫だ」
 言われて、気づく。首筋に滲む汗。それにも関わらず顔色が悪い。指摘されたからか声を出しているのが辛いせいか、かすかに体が震えていた。
「早く手術しないと間に合わないかもしれない! 僕はもういい。君がいなかったらどうせ」
「大丈夫だから!」
 医師が声を荒げた。呼吸が上がる汗が噴き出すほどなのに抜けるほどに顔が白い。一瞬ですべてが掻き消える。何も見えない。ただ、空の中に立っている。
「俺のことは、いいから」
「よくない、でしょう……」
「いいから。頼むから、もういいなんて、言わないでくれ」
 声だけが聞こえる。どんな表情をしているのだろう。ふわりと足が浮く。羽が風を切る。違う、錯覚だ。ただの幻覚だ。
 幻覚の中で羽ばたく翼は、薄紅の混じる白ではなくて、黒い羽根を持っていた。


 私も彼女も、病室を出ることはできなかった。医師はどんどん顔色を悪くして呼吸が乱れていく。手は震えているのに、決して離そうとはしなかった。青年もまた顔色の悪い悲痛な表情で、それでも医師から眼をそらすことはなかった。
 影の色が濃くなる。窓の外は変わらず晴天に見えるけれど、きっともう夕刻なのだろう。すでに背を折って、半ば青年にもたれ掛かっていた医師がうめき声をあげる。
「……ぐ、ぁ」
「先生」
 彼女が不安に揺れる声をかける。青年が医師の名前を呼んだ。医師は答えず、また獣のようにうめいた。
「が、あ、ぁあ」
「……もう、もう」
「だ、めだ」
 呻きの間を縫うように医師が答える。
「だめ、だ。頼むから。もう……少し。まだ、ま、だ」
 医師の体が跳ねる。それを抑えるように大きく呻く。
「先生!」
 誰の悲鳴だ? ちがう、私だ。私の声が医師を呼んだ。
 医師が大きく体を震わせながら、懇願した。
「まだ……手の、まま、で……」
 袖口から伸びて青年の手のひらを覆う医師の手は、黒い羽に覆われていた。
 青空が広がる。黒い羽が、横たわっていた。


 死んでしまったの。もう、いないのよ。どこにも。
 彼女の右目は、涙を流さない。右目に咲いた、血のように赤い花が、震える。蕾が開く。花弁を伸ばして、一枚ずつ散らしていく。ひらひら。ひらひら。花びらが落ちる。燃えるような赤が零れていく。すべての花びらが散るとまた蕾が膨らむ。何度も、何度も。散らばった花びらの上に、彼女の左目から落ちた滴が跳ねる。
 ぞっとするほど、美しい光景だった。


 涙が枯れるほどに、泣いた。
 私は、人の腕を取り戻した。彼が腕を切り取ったときに、皮膚も一片摂取して、私に与えてくれた。彼は知っていたのだ。私の想いを。
 退院するとき、彼はいつものむやみににこやかな表情で「さようなら、お元気で」と言った。きっとそれが答えだった。
 涙が枯れるほど、泣いた。
 赤い花を持つ彼女は、泣いて、泣いて、泣いて。ひらひら、ひらひらと、赤い花を、たくさん散らした。
 花は、枯れてしまった。きっと、涙が枯れたから。
 空を見上げる。雲ひとつない、青い空だ。きっとあの空を羽ばたけたなら、とても、気持ちがいいだろう。けれど薄紅の滲む白い羽をもっていた時のような、強烈な渇求はもうない。
 眼を閉じる。そこに青空はない。瞼の裏を焼く陽が赤い。
 ああ、空を飛びたい。滲むようにそう思った。そこに渇きが無いことが、ただ、悲しかった。