図書の国

 月を引いてごらんなさい。針をかけて釣り上げる? いやいや違う。引くのは頁。辞書ですよ。

 翡翠の瞳を歪ませて友が笑う。学生運動なんてやってる癖に、友はとことん現実主義だ。夢のある話はしてくれない。青年は肩をすくめて言われるがまま辞書を捲った。

「つ、き。地球の衛星。赤道半径は1738キロ、質量は」

「他だとどうです」

「他?」

 青年が問い返すと翡翠の友は隣の本を取り出す。これも辞書だ。どころか見渡す限りの本棚すべて、ありとあらゆる辞書で埋まっている。

「えーと。地球の自然衛星。強く輝く天体。それに……丸顔?」

「ムーンフェイスって聞いたことありません?」

「あるようなないような」

 曖昧に返すと肩をすくめられ苦笑する。

「でも面白いね。同じものでも違う書かれ方なわけだ。」

「ええそうです」

 翡翠の友が得意げに笑う。そうかと思えば、眉を潜めた。

「辞書単一化がなされなければこういう楽しみがもっと身近だったでしょうに。全くくだらない」

 始まった。赤毛を逆立て憤る。いつものことだ、しょうがない。友は万年頭が火事なのだ。

「辞書は答えではなくて問いですよ。どいつもこいつも、夢見がちで困ります」

 過激派のリアリストに、青年は笑った。

「そうだなあ」

「そうです。わからせてやらないと」

 肩を怒らせる友を横目に別の辞書で月を引く。鮮やかな絵が目を引いた。辞書というより画集のそれは、月の味を詳しく書いていた。説明の形式は辞書の堅苦しいそれで、ついつい欠伸が漏れる。眦から滑り落ちた雫が月光によく似た結晶になる。

 かつて翡翠の友が、へえ美しいと述べた涙だ。友が拾って「落としましたよ」と小言を言う。全く現実的な友である。