雨が降るなら

数年前ツイッターで書いたものです。

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 だって嘘つきなんだ。蹴り上げた体操着の入った袋が地面に擦れたのを見ながら小さく言った。だから自分はちっとも悪くなんてないんだ。

 サッカーボールみたいに袋を蹴ることと、道の小石を蹴りながら運ぶのは帰り道の癖みたいなもので、友達と一緒の時は少し大きな石を奪い合いながら歩いたりする。点数つきのゲームとして遊んだりもするのだ。夢中になりすぎて道で騒ぐものだから、近所の人が学校に苦情を入れて、帰りの石ころサッカーは禁止になってしまった。袋を蹴るのは学校に禁止されていないけれど、地面に擦って袋を汚したり擦り切れさせたりするから、お母さんからは止めなさいと言われている。それでもこんな日は何かを蹴らずにはいられないし、それは小さな石よりも、重さのある袋の方がいいのだ。

 袋を持ち上げてポンポンと叩く。着いた砂が落ちて白い汚れがましになる。ぶらぶらと回しながら歩いて、やっぱり我慢できずに蹴り上げる。今度は地面につかないように。ぽん、ぽん。顔の高さぐらいまで袋を上げるように蹴り続ける。ぽん、ぽん。つまらないなと、ぼんやり思った。

 石ころサッカーを流行らせたのは、僕と亮太だった。電柱に当てたら一点。一回当てた電柱にもう一回当てるのは駄目。車には絶対に当てないように、僕らがやるのは細めの路地だ。サッカー好きの亮太がお父さんの車のガラスを割って怒られたことを知っていたから、そのルールはすんなり決まった。

 僕と亮太は家の方向が同じで、一年生の時から通学の班が一緒だった。三年生からは班で帰らなくても良くなったけど、大概放課後に運動場で遊んでから一緒に帰った。路地を抜けるまでの短い時間。たった二人で、それもボールじゃなくて石だったけど、運動場でみんなでサッカーをするのと同じくらい、僕と亮太は真剣に遊んだ。みんなにも広まったのは、一緒にテレビゲームをするために亮太の家に行った時だ。初めて五人で石ころサッカーをした。石ころサッカーという名前を付けたのは木下だ。そうして僕たちの路地以外でも、石ころサッカーは行われるようになった。雨の日に傘を差しながらでもやるものだから、歩いている人の邪魔になって、禁止されてしまった。

 ぽん。大きく蹴り上げた袋を回して、背中に担ぐみたいにして止めた。袋の紐を握っていた手が熱い。路地を抜けるまであと十歩くらいだ。早く帰りたい。珍しくそう思った。

 石ころサッカーが禁止されて、僕はとても怒った。木下達に直接言うようなことはしなかったけれど、それでもあいつらがやらなければ僕たちの遊びが害されることはなかったのだ。路地は人通りが殆どないし、雨の日は危ないからと、僕と亮太はやらなかった。それでも人通りは全くないわけではなかったし、迷惑に感じた人も、居たかもしれないと頭では分かっているが、でも、と思う気持ちは止まらない。

 悔しかった。それに、悲しかったのだ。石の大きさによって蹴る力を変えたり、電柱のある場所を覚えて作戦を練ったり。今日は勝ってみせるぞと思ったり。そんな帰り道が失われてしまった。自分たちで決めたルールももう使えない。とても残念で、悲しかった。

 亮太は言ったのだ。「残念だね。楽しかったのにね」と。僕も大いに同意した。大人ぶって「でも、仕方ないよな」なんて言ったけど、そうでなければ木下達の悪口まで言ってしまいそうなくらいの気持ちだった。

 くるん。袋を回す。路地を抜けた次の曲がり角を右に行けば家だ。真っ直ぐ行けば、亮太の家だ。明日は負けない。そういって別れた道だ。

 木下は、亮太に謝ったらしい。出来なくなってごめんな、と。亮太のサッカー好きは有名で、だから木下も僕じゃなくて亮太に謝ったんだろう。でも、亮太は木下に笑って言ったそうだ。「いいよ。あんなのもう飽きてたんだ」 木下にそれを聞いて、僕は本当に、本当に驚いた。だって言っていたのだ。残念だと。楽しかったのに、と。

 亮太は僕に、嘘を吐いたのだ。

 本当は今日も、一緒に帰るはずだった。昼休みにはみんなで放課後のサッカーのトーナメント表を作った。チームは四人一組、隣のクラスの奴らと四チームでやる予定だった。僕は亮太と同じチームだった。そのあと掃除の時間に木下から話を聞いて、僕は放課後、亮太以外の二人に謝って、先に帰った。代わりの奴一人ぐらいすぐに見つかるだろう。亮太には何も言っていないけど、きっと気になんてしないだろう。石ころサッカーより、普通のサッカーの方がずっと好きなのだから、遊べればそれでいいんだ。

 嘘つきだ。ぽつりとつぶやいた。だから僕は悪くない。あいつを避けて何も言わずに先に帰ったって、僕はちっとも悪くない。嘘つきの亮太は酷いやつだ。あんな奴は嫌いだ。そう思って、罪悪感と、何も言わずに道を曲がる寂しさを誤魔化した。

 次の日、昼から降り始めた雨が続く空を見上げて、少しだけ息を吐く。五限の体育はドッヂボールだった。いつもだったらそれに不満を覚えるのだけど、今日はほっとした。元の予定ではサッカーをやることになっていたのだ。傘立てから自分の傘を抜き出して広げる。持ってきて良かった。朝言われなければ忘れるところだったし、置き傘はつい先日持ち帰ったままだ。持ち手に体操着の入った巾着を掛けてぶら下げると、傘がグンと重くなる。揺れる巾着を眺めながら水たまりを避けた。

「あ」

 傘で視界が殆ど覆われていたせいだからだ。

 前から聞こえた小さな声に、反射的に顔を上げてしまった。

「あ」

 間抜けな音を、今度は僕が出してしまう。音を受ける正面には、亮太がいた。

 唇を引く。眼を逸らすかを決めかねるうちにタイミングがなくなって、昇降口を出たところでそのまま二人向かい合って立ち止まる。横切る生徒たちが五人を超えたあたりで、亮太が口を開いた。

「今帰り?」

「……当たり前じゃん」

 ランドセルを下げた放課後に昇降口で聞くことではない。そっか、と亮太は照れたように、ぎこちなく笑う。なんとなく、傘と視線を下げてしまう。見たくなかった。亮太の顔か、それともその強張った表情をかは分からない。

「……一緒に帰ろう」

 伺うような声に、爪先に力がこもった。ぐ、と心に何かが乗って皺が付く。理不尽な気持ちになった。どうして責めないんだろう。悪いことをした。僕が? 違う、だって、だって亮太は。

 ぐるぐると淀む。少し先で水たまりを踏んだ下級生が笑いを含む悲鳴を上げた。背後のざわめきは、随分減っている。

 傘を引く様にして、頷いた。雨音に紛れずに聞こえた小さく息を吐く音に、傘を強く握った。

 たったの一日ぶりなのに、以前はどんな話をして帰ったのか分からない。分かったとしても、それを再現する気分では全くなかった。

「体育、残念だったね」

 亮太が言った。随分な沈黙があった割には明るい口調だった。無理矢理トーンを上げたみたいに。

「……好きだもんな、お前は。サッカー」

 つっけんどんな口調で返す。恨むような気持ちがにじまなかったことにほっとした。けれど口調が冷たいことには変わりない。

「秀平だって好きだろ?」

 雨音を跳ね返そうとするような声。その終りが、傘みたいに少しだけ震えた。それに気づいてしまったから、なおさらどう返していいのか分からなくて、沈黙する。

 雨が降ってよかった。亮太が体育を残念だと言ったばかりなのに、僕はやっぱりそう思った。雨が降ってなかったら、傘がないから、亮太の視線をもっと感じただろうし、亮太の顔を、見てしまっていただろう。傘があって良かった。雨が降って良かった。

 けれど、雨音をすり抜けて届く亮太の声みたいに、僕には亮太の表情が頭に浮かんだ。つり気味の眼が少し下がって、活発そうな顔が、とたんに気弱そうな風になる。さっきまで笑顔を作っていた唇から、力が抜けて、少し迷う様に小さく動いて、それから結局閉じるんだ。

 ぶらん。揺らした巾着が傘から少し出て、雨粒に濡れた。

 やっぱり雨は降ってはいけなかったのかもしれない。さっきまで喜んでいたのに、そう思う。傘の先から落ちる滴も、不揃いな雨音も、暗い空も。巾着に落ちた雨粒の滲みも、一層心を淀まされようで、僕は少しだけ唇を噛んだ。

「……あのさ、秀平」

 足を止めた亮太の気配に、巾着から視線を外す。いつの間にか、曲がり角に来ていた。

「……じゃあな、亮太」

 少しだけ声を上げて、けれど顔は見れないままで背を向ける。とたんになんだか泣きたくなる。少しならいいだろうか。傘できっと顔が隠れる。少しくらいなら。熱いものがぐっとこみ上げる。

「秀平!」

 曲がり角を早足で歩いたのに、すぐ後ろでかけられた声に振り替える。亮太は想像していた通りの顔をして、目線を一瞬泳がせ、けれどすぐに僕の手首をつかんだ。

「は……。な、んだよっ。亮太っ!?」

 涙を見られたかもしれないという不安と、突然手首をつかんで走り出す亮太に困惑する。亮太は答えず走る。手首を捕まれたままではひどく走りずらい。もう一度、今度は怒鳴ろうとして、けれど水たまりを踏みそうになって声を飲む。揺れる巾着が走りにくい。

「おい! 亮太!」

 亮太の家はこっちじゃない。あの角を曲がらずに真っ直ぐに、もうしばらく歩かなければいけない。こんなにこっちに来てしまっては、帰るのが遅くなる。何より目的が分からなかった。

 名前を呼んでも亮太は振り返らずに走る。まさか僕の家に行こうとしているのだろうか。けれど亮太は僕の家よりも手前の角を曲がった。

 曲がってすぐのところには小山がある。鳥居の先には神社があり、去年木下達と立派なご神木に上ろうとして酷く叱られた。

 鳥居の近くで、亮太が手を離す。そのまま無言で鳥居横の草を分けて奥に進み始める。背の高い雑草はすぐに亮太を見失わせて、慌てて追いかけた。

「亮太! どこ行くんだよ!」

 草の群れは思ったよりも大きくなく、すぐにまばらなものになった。けれどうっそうとした木々が空を覆う。雨雲の隙間から覗く日が届かず、随分薄暗く見えて不気味だった。

「亮太!」

 もう一度よんだ名前に、ようやく亮太が立ち止まる。

「秀平、ここ、見つけたんだ」

「は?」

 木の下に立つ亮太の視線を、思わず追った。

 天井だった。

 正確には長く伸びる枝に続く大きな葉っぱが、緑の傘を作っていた。亮太が立つ前の木は、あの神社にあるご神木に負けない位太く、そしてご神木よりずっと枝ぶりがよかった。気が付けば雨音が遠い。傘を下ろすと、ほとんどが葉っぱに遮られて木の傍では落ちる滴が殆どない。

「あそこと、あそこ」

 葉っぱと枝の天井の、その軒下の端と端には、大木の半分くらいの太さの木がそれぞれ並んでいて、柱のようになっていた。

「あれ、ゴールにして、で、普段はここ。この根っこの間にさ、ボール隠しておいて」

 亮太は言いながら、大木の根っこの下あたりを強く蹴る。土を削るように三度繰り返すとボールが跳ねて飛び出した。

 思わず足でボールを止める。亮太が嬉しそうに、にっと笑った。

「今度はこれ、俺らの遊びにしよう!」

 今日初めてまともに見た亮太の顔に、その笑顔に驚いてしまって、僕はとっさに声が出ない。

「……遊び?」

 ようやく出た言葉は間抜けなおうむ返しで、恥ずかしくなる。けれど亮太は大きく頷いた。

「新しい遊び! ……どう?」

 得意げな笑顔はしかし固まったままの僕の表情を見て、不安げなものに変わる。亮太が意味もなく親指を服に擦った。それを追って視線が下がる。

「あれ、飽きてたから、これ考えたのか」

 亮太の親指の付け根あたりを注視して、そう小さく尋ねた。新しい遊びそのものは、楽しそうだと思った。この大きな自然の傘も、初めて入る場所にも少し心が躍るのを感じていた。呆然としていたけれど、それでも根っこのしたからボールが出てきたときには驚いたし、亮太の説明を想像すれば、ワクワクする心も確かにあった。

 けれど、やっぱり心に残ったしこりは取れなかった。だって楽しかったのだ。石ころサッカーは。新しい遊びも確かに楽しそうだけれど、僕がとても楽しんでいたあの遊びを、一緒に考えてやっていた亮太はつまらないと思っていたのだろうか。我慢して遊んでいたのだろうか。

「……秀平が飽きてたんじゃないの?」

 困惑気味に揺れる声と、その内容に驚いて、反射的に怒鳴ろうと顔を上げる。亮太は眦を下げたあの気弱そうな顔で、けれど責めるように眉を寄せていた。亮太と喧嘩をすることも、亮太が怒った顔を見るのも初めてではない。けれどこんな不安そうな、怒りを隠そうとする顔は見たことがなかった。怒ってはいけないと思っているような顔。

「なんで、そんなこと、言うんだ」

 怒鳴ろうとした勢いはすっかり消えて、切れ切れに尋ねた。

「飽きてたのは、亮太だろ?」

「飽きてなんてない」

 のろのろと下がる僕の言葉尻を無理矢理持ち上げるように、亮太がきっぱりと答えた。眦が元に戻って、意志の強い、いつもの顔になる。

「言っただろ、残念って。俺は石ころサッカー好きだった」

「でも!」

「秀平言っただろ。仕方ないって、普通に! 俺は腹が立ってたのに、秀平がそういうから」

「は」

 驚いて、声を漏らす。あの時の言葉を、亮太はそんな風に思っていたのか。

「……亮太も、木下達に怒ってたのか」

「怒ってた。石ころサッカーがもうできないのが嫌だった。悪気があったわけじゃないのは分かってたけど」

「……僕も怒ってた」

 そういうと、亮太は眼を丸くした。少し視線をさまよわせて、知らなかったと呟いた。

「……俺がサッカー好きだから、もしかしたら秀平は、気を使ってたのかと思った」

 亮太のサッカー好きは有名だった。僕もサッカーは好きだけれど、亮太ほどじゃない。

「僕だって楽しかった」

 そういうと、亮太はくしゃりと笑った。葉っぱを抜けて落ちてきた雨粒が頬に垂れて、泣いてるみたいになって、僕は小さく笑った。

「笑うなよ」

「ごめん」

「ここ。ここならだれの迷惑にもならないし、雨でもできるよな」

 亮太が僕の足元のサッカーボールを奪う。右側の木の根っこのところに蹴り飛ばす。根っこの間の部分に綺麗に向かったボールは木に当たって少し上に跳ね、そのまま根元に落ちた。

 にっと亮太が笑う。

「どう?」

「今のは、一点にならないからな!」

 言って、ランドセルと傘と巾着を、傍に在った木の枝に引っ掛けた。やる気になった僕を見て、亮太が嬉しそうに、自分もランドセルを下げた。

 亮太が枝に荷物を掛けてるうちに走り出し、ボールを逆側の木に運ぶ。気づいた亮太が声を上げるのを聞いて、思いっきり蹴っ飛ばす。ボールは根っこで大きく跳ねて、僕と亮太の間に転がった。

「イエーイ! 一点先取!」

「ずりー!」

 ボールを取ろうと、僕と亮太が同時に駆けだした。

 気が付くと、雨音が消えていて、僕と亮太は汗だくになった体を気に寄せた。ざらざらの表皮はひんやりとしていて気持ちがいい。

「いま何時?」

「わかんないって」

 笑いながら亮太が答える。そりゃそうだ。

「帰るか」

「そうだね」

 のろのろとランドセルを背負う。動かし過ぎた体には重かったけれど、不快ではない

。亮太もランドセルを背負ったのを見て、草を分けながら鳥居の方に進んだ。

「秀平。明日もやろうよ。これ」

 右の指先で巾着の紐に絡まって付いてきた樹皮を取っていると、亮太が少しだけ硬い声で言う。

 振り返ると、亮太も体操着の入った巾着を見つめていた。なんともなさそうな顔をしている。一瞬だけ、ちらりと伺う様に瞼が持ち上げられた。

「……亮太、寄り道になっちゃうけど?」

 軽口を叩くように、わざと意地悪な口調で返す。僕は乗り気だという主張を汲み取った亮太がニヤリと笑う。小走りで隣に並ぶ。巾着にくっきりついた靴跡が見えた。

「だから秘密な!」

 亮太が小走りのまま、そう言って追い越す。僕も背中を追いかけた。いつの間にか射していた木漏れ日が、亮太のランドセルに作る模様を見ながら。

「じゃーなー」

 ぶんと手の代わりに亮太が巾着を振る。僕も振りかえして家に向かった。家はすぐだ。

 ぶらぶらと、さっき大きく振り上げた巾着を揺らす。不思議な気分だった。雨が上がるより前は、沈痛な思いでこれを眺めていたのに。

 あの大きな緑の天井と、周囲に降る雨はとても不思議な光景だった。サッカーをするには似つかわしくないほどに綺麗な場所だったけど、だからこそ楽しかった。

「名前、決めないとな」

 明日亮太と話し合おう。帰り道に、こっそりと。

 楽しくなって軽くなった足で、思わず巾着を蹴ってしまう。あ、と声を漏らすもすでに遅く、くっきりとした足跡が巾着に付いた。

 そういえば亮太の巾着にもくっきりした足跡が付いていた。こんなふうに。

 あいつも同じ気持ちだったのだろうか。ワクワクとした落ち着かない気持ちのまま、思わず蹴ってしまって、そのまま足跡を付けてしまったんだろうか。

 すごく間抜けだ。僕も、亮太も。

 お互い勘違いして、落ち込んだり、苛々したり。似たもの同士なんだと思う。

 雨で抜かるんだ土を踏んだ靴跡はしっかりついていて、きっとお母さんには怒られるだろう。けれどその間抜けな跡をはらい落とす気にはなれなかった。

 ぶんと大きく巾着を回す。帰り道を駆けだした。

 早く明日に着くように。