樹を植える女

その日俺は、山間にある温泉を目指してバイクを走らせていた。
だが、どうやら何処かで道を間違えてしまったようだ。
どれだけバイクを走らせても目的地には着かず、その内に日も暮れてしまった。
バイクを停めて時間を確認する。腕時計の針は19時20分を指していた。
場所を確認しようとしたが、生憎スマートフォンのバッテリーが切れていた。
宿に着いたら充電すれば良いと思い、昨夜充電していなかったのが敗因だった。予備のバッテリーを探したが、どうにも忘れてきてしまったようだ。
おかげで、ここが何処なのかまるで分からなかった。

道を引き返そうかと考えた時に、灯りが見えた。
庭のある瓦葺き平屋の一軒家。他の民家は無い。
周囲には、杉の木で出来た森があるだけだ。
窓からは電灯の光が漏れ、隣にある駐車場には、ユンボや中型のトラックが置かれていた。

助かったと、俺は思った。
少なくとも、ここが何処なのか教えてもらえるだろう。
俺は民家の前に立つと、インターホンのボタンを押した。

ジーンズ履きにジャケット姿の女性が、俺を出迎えてくれた。
年の頃は60代後半。女性としては背の高い部類だが、屈んだ腰がやや身体を小さく見せている。
目元には皺が刻まれている。
だが、その涼しい眼は、彼女が若かった頃に相当な美人であった事を想起させた。
そして口元は、マスクで覆われていた。そう言えば、花粉症の季節だった。
玄関先には無造作にスパイクシューズとチェーンソーが置かれている。どうやら、林業で生計を立てている農家のようだ。
ならば、花粉症になるのも無理からぬ事なのだろう。職業病のようなものだ。

俺が温泉までの道を尋ねると、女性は俺を居間まで上げてくれた。
エアコンが、冷えた身体を暖めてくれる。
そこにはテレビもノートパソコンもあり、女性の家から目的地までのルートは、すぐに把握する事が出来た。
1時間ほどスマートフォンを充電する間に、老女は夕飯を振る舞ってくれた。

「残り物で申し訳ないんだけど……」

質素な食事だったが、漬け物と味噌汁は美味い。
彼女は、俺が食べるよりも先に食事を済ませていた。

用意してくれた夕飯を食べながら、俺は彼女と世間話をした。
杉山にある一軒家。他に家族はいない。
女手一つで、杉を植えて暮らしている。
娘達は孫娘と一緒に、都会暮らし。
たまに尋ねてくれた客が嬉しいのだと言って、彼女の目が潤んだ。

どうしてこんな所で、たった独りで暮らしているのかと、俺は尋ねた。
林業などという過酷な仕事をしているにも関わらず、彼女に亭主がいる様子は無い。ざっと見回したところ、仏壇も無いようだった。

若さ故の過ちだったと、彼女は応えた。
若い頃の彼女は、札付きの悪(ワル)だった。
刃物を振り上げ、子供達を追いかけ回した事もあったと言う。
自分の美貌を鼻に掛け、罪もない大勢の人を畏れさせたのだと。
そして世間から疎んじられた。
そんな荒んだ暮らしが嫌になり、勤めていた病院を止め、植林の道に進んだのだと言う。

「病院に勤めていた頃にね、たくさんのカルテを見たのよ。その中にね、杉の花粉で人はアレルギーを起こすっていうのがあったの。予防するにはマスクをして、杉の花粉を吸い込まないようにするのが一番良いの。だから私は、杉を育てる事にしたの」

1980年台代。杉の植林は国策だった。それと同時に、高度経済成長は弊害として大気汚染を引き起こし、杉花粉症が蔓延し始めた。
そんな頃に彼女は、杉を育て始めたのだ。

「杉花粉症が広まれば、後は簡単だったわ。社会にはマスクが普及した。その後、いろんな病気が流行る度に人はマスクを手放せなくなり、遂にはマスクを付けていても不自然だと思われない社会になった。だから私は、娘や孫達が普通の人間として暮らす。そのために、杉を育てているのよ」

女性はおもむろに、ジャージのポケットから100円ライターを取り出し、煙草に火を点ける。
マスクを外した口に、彼女は煙草を咥えると一息燻らせる。
大きく吐き出した煙が、耳まで割けた唇から漏れて立ち上った。

俺は夕飯の礼を言うと、彼女の家を後にした。
そんな都市伝説もあった事を思い出しながら。
口割け女にも、平穏な人生は必要なのだ。


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