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共同厨房

 私自身が属する第二の群れが形成されてから、まず私を悩ませたのは、キッチン事情であった。それまでは少ない人数で悠々と使用できていた共同キッチンや食堂に人が溢れかえった。これらの設備は四方をコンテナハウスに囲まれ、共有スペースとして配置されていた。
 私は幼い頃から祖母に包丁を握らされていたことと父親が料理人であったことから、料理をすることが好きであった。特にパスタとスパイスカレーを作ることに拘りがあり、それはオーストラリアの地でも変わることはなかった。当時、私はポモドーロとビリヤニ作りに凝っていて、それらを作る姿は共同の厨房では物珍しいものに映ったらしかった。
 私が調理をしていると、幾人かの日本人が集まって来た。何を作っているのか尋ねられ、いくらか調子に乗って料理について持論を唱え、お互いに作ったものを共有して食卓を囲むことがしばしば増えた。そのような人だかりは、より人を呼び寄せた。台湾人やフランス人、スウェーデン人と日本人のカップルなどが加わり、輪は広がっていた。私は、少しうんざりしていた。人が増えると、料理に集中することができず、前に何度もした説明をまた他の者にしなくてはならないことが、凄く鬱陶しく思われた。私の説明は等閑になり、対価を示せない人間に対しては冷たい態度を示すようになっていた。情けないことだ。自分に余裕がなく、八つ当たりをしてしまっていた。
 しかし、救いとなったのは、最初期から共に食卓を囲んでいたメンバーが、私の気持ちをよく察し、汲み取り、私の代わりに集まってきた人々との対話を請け負ってくれたことであった。私は、彼らのおかげもあり、醜態を晒さずに、料理担当者として慕われるような立場を得ることができた。集まった人々から材料を寄付されて、人数分の料理を作った。余ったものは翌日の朝食やランチになった。料理をしているときは、人とあまり話す必要がない一方で、必要があれば手を借りるために堂々と話しかける大義名分を得た私は、この数名の集まりの母親のようなポジションにいた。心地がよかった。
 調理を終えると、先に出来上がったものを食べ始めていた面々の横にちょこんと座ってビールを飲む。そしてまた次の日はイチゴ畑に出るのだ。悪くないルーティンであった。
 人が集まることによって生じた問題は、集まった人々によって解消された

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