小説「ふたりぼっち」

昭和四十一年、夏。 クーラーの効きすぎた店内で、佐藤源三郎は一人、汗を流していた。

着慣れない一張羅の背広に、馴染のない高級ホテルのレストラン。普段の生活域とはかけ離れた場所である。

汗は、拭っても拭っても、顔面の至る所から湧き出してくる。汗を吸いきった手拭いは絞れるほどに重い。

源三郎の緊張メーターは、完全に振り切れていた。 喉が嫌に渇く。

なみなみと入っていた水差しの中身は、源三郎の連続手酌おかわりによって、いつの間にかあと数センチにまで減っていた。

源三郎の注ぐ水がワイングラスの中で氷と激しくぶつかり、やけっぱちな音曲を奏でた。

テーブルには源三郎の他に、上司の秋山とその妻が座っていたが、誰も言葉を発しなかった。

沈黙は一五分ほどだったが、源三郎には数時間にも感じられた。

秋山が腕を振り上げ、自慢のロレックスを大仰に見た。

源三郎は、この張りつめた空間から逃げ出したいと思っていた。

自分は今、見合いの席に座っている。

そう思うだけで咽喉が砂漠化するのだ。

源三郎はこの世に生を受けてから三十四年、一度も女性と付き合ったことが無かった。若い女性との接点が無いのである。

源三郎の勤め先は市役所の高齢福祉課。

同僚には薹の立った女性が多く、相談に来るのは年寄りばかり。

これからここで面前に若い女性を迎えたとて、何を話せばよいのか見当もつかない。

「すみません。通して下さい!」

レストランの入口付近から女性の声が聞こえた。

静寂極まる店内に、その声は一際響いた。

客は一同に声の主を見た。秋山が手を振ると、声の主は小走りにこちらに近寄り、源三郎達のテーブルの前で立ち止まった。

「すみません秋山さん、遅れちゃって」

胸が鳴った。一瞬で全身が凝固した。

吉永小百合似の可愛らしい女性が目の前に立っている。

熱心なサユリストである源三郎は顔を赤らめ、とっさに視線を逸らした。

「いやー時恵ちゃん、来ないかと思って胆を潰したよ~」

秋山がおどけて言った。

「すみません、バスがなかなか来なくって」

そう言うと、女性は源三郎に向き直った。

「初めまして、相原時恵です。遅れてしまって本当にすみません!」

女性は、窓ガラスが割れんばかりの大声で謝り、源三郎に深々と頭を下げた。

その拍子にテーブルクロスがずれ、水差しが落下した。

「あっ」

時恵を含めたテーブルの全員が声を上げた。

水差しは、源三郎の股間を直撃した。

「あーー! ごめんなさい! アタシ何やってんだろ!すみません、すみません!」

時恵はハンケチを取り出し、びしょ濡れになった源三郎の股間を拭き始めた。

「いや! あのっ、そんな」

源三郎は困惑した。

「本当にごめんなさい!」

「も、もう大丈夫です」

「でも私のせいでこんな」

時恵はしきりに謝りながら、源三郎の股間を拭き続けている。

「いや、そこ、場所が、あの、若い女性に、その……」

場所……と聞いて時恵は我に返り、とっさに手をひっこめた。

「はっ! いえ、あのっ」

時恵はパアッと赤面し、土下座せんばかりの勢いで頭を下げた。

「ヤダあたしったら! ごめんなさい!」

「だ、大丈夫です。自分、汗っかきで、あの、涼しくなって丁度いいです。ははは」

源三郎はそう言って、濡れた部分を指で摘まみ上げ、パタパタとズボンを煽いで見せた。

「あら。あっははははははは」

時恵は源三郎の滑稽な姿を見て、腹を抱え快活に笑った。

その屈託ない笑顔に、源三郎はまたときめいた。

「あ、あのう、座りませんか?」

源三郎は時恵に椅子を勧めた。

二人が落ち着いた頃合いを見て、秋山夫婦は席を立った。

——これが噂に名高い〝若い二人で〟だな。

源三郎は密かに思うのだった。

「どんなお仕事を?」

時恵が源三郎に尋ねた。

見合いの常套句である。

しめたとばかり、源三郎は言葉を噴射させた。

自分は昭和三十年頃から、医療保険の普及に尽力してきた。

現在のままだと国民の医療負担が益々増大し、医療にかかることができない……源三郎は時恵に熱く語った。

「お医者さん代って高いですもんねぇ。ちょっとお腹痛いぐらいだったら、私も我慢しちゃいますもん」

「そうなんですよ! だから僕はですね……」

源三郎の熱弁の間に入る、時恵の合いの手が妙に的を得ている。

源三郎は話していて気持ちが良かった。

秋山は、時恵が看護師として勤める病院の院長から、時恵の見合い相手探しを頼まれていた。

三十路を目前に控えて尚、男っ気の無い時恵を心配した院長が、秋山に相談したのだった。

高齢福祉課課長の秋山は、その院長には書類作成や相談等で何度も世話になっていた。

それに秋山も時恵のことは見知っていたので、二つ返事でOKしたのだった。

奥手で浮いた話などひとつも無かった源三郎に白羽の矢を立てた秋山は、源三郎本人の意見もそこそこに見合い話を勝手に進めたのである。

源三郎と時恵の会話は弾みに弾んで、

「そもそも国民保険はGHQが……」

と、見合いだか大学の授業だかわからない方向にまで発展していた。

「おお、おお。二人とも仲良うやってるやないか。ええ感じ、ええ感じ」

秋山がいつの間にか戻ってきて、茶化すように言った。

「いや、その……」

源三郎は急に体裁を整えようとしたが、変にドギマギとして言葉にならなかった。

時恵は、そんな目の前の男がなんだか愚直に見えて、小さく笑みを零した。

一週間後。日曜の朝早く、秋山から電話が入った。

秋山はいつになく熱っぽい口調でまくしたてた。

「佐藤か? OKだってさ、OK!」

「桶……?」

休日に叩き起こされた源三郎は、何事かを理解できないでいた。

「何寝ぼけてんねん、早よ起きい! 時恵ちゃんが、お前と結婚してもええってよ!」

秋山はそれだけ言うと、一方的に電話を切った。

しばらくの間、源三郎は受話器を持ったまま、茫然とその場で立ちつくしていた。

やがて徐々に歓喜がこみ上げ、ほどなく全身を駆け巡った。

「や、やった!!」

源三郎は飛び上がり、何度も何度もガッツポーズを繰り返した。

♪ふたりを~ 夕闇がぁ~、包む~ この窓辺に~♪

加山雄三の『君といつまでも』を大熱唱しながら、枕を抱きしめ、せんべい布団の上を右へ左へと転げ回る。

「うるさいぞ!」

隣の住人が薄壁を叩いて怒鳴った。が、幸福の絶頂を極める源三郎には知ったこっちゃなかった。

つづく。


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