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【タカホとアキラの往復書簡】“うまい議論”“へたな議論”って何よ。

【往復書簡】「議論」と「対話」って、どんな風に使い分けてる?

「意見を戦わせることでともすればヒートアップしたり、うっかりすると、互いの意見ではなく人格とまで戦いそうになる議論においては、『ファシリテーター』がいればうまく議論できるんじゃないでしょうか?」

まずはこちらの歌をどうぞ。
「みんなで考えるのうた」
僕は「これまでの考え方がかわっていくのを楽しみます」というフレーズが大好きです。
この「対話」の場面での“ファシリテーター”って誰なんでしょうか?
あるいは“ファシリテーター”は人ではないかもしれません。
この場面での“ファシリテーター”は何でしょうか?
いずれにせよ、「対話」は「戦わせる」ものではないみたいです。
僕の敬愛する埼玉大学の宇田川さんのこちらの記事もあわせて読んでみると、「対話のすがた」の輪郭が少しだけ見えてくる感じがします。
「対話」をしないから“生産性”が上がらず、忙しいのだと思います
“流行りの対話技法”では「対話」は生まれない──ナラティヴ・アプローチによる組織変革

一方でこちらの動画もどうぞ。
『コンセンサス(直接民主制@ウォール街占拠)』日本語字幕版
なんとなく、「議論」は「戦わせる」ものっぽいから「ルール」が必要みたいです。
動画を見る限り、どうやら「みんながファシリテーターになりうる」という関係性だと「議論を戦わせる」じゃなくて「議論を交わす」ことができそうですね。

上手なファシリテーターだと議論を交わせそうです。
下手なファシリテーターだと議論を戦わせちゃいそうです。
議論が交わることができたら「対話ステージ」に進んで「これまでの考え方がかわっていく」のを楽しめそうですね。
一方で議論を戦わせちゃうとその先にあるのは「勝ち負け」で、勝ったほうは得意げな顔で「はい論破〜」で、負けたほうは顔を赤らめて「ぐぬぬ」となって「対話ステージ」にはたどり着けなさそうです。

「議論」の場において、ファシリテーターがいたほうがうまくいくテーマと、ファシリテーターがいないほうがうまくいくテーマもありそうです。
あらかじめ結論が出ていて、その結論に「誘導」するような議論はファシリテーターは機能しなさそう。
結論は出ていないけれど、AかBかを選び決めなければならないようなテーマだとファシリテーターは機能しそう。

僕は職業的ファシリテーターなので、日常的に「議論」の場に立ち会うことが多いです。
白熱してお互いの人格攻撃に発展しそうな時は、当事者に「はーい、休憩〜。」と横槍を入れつつ休憩あけに「議論を整理するための指標やフレームワーク」を渡すことが多いです。
反対に対話の場に立ち会う時は当事者が集中できるように、周囲にいる人達が当事者を邪魔しない環境を整える事が多いかも。
例えば会議室で対話が始まりそうなら、部屋でふたりきりになってもらって僕は廊下に出て部屋に入ろうとする人に「ちょっといまいいところなので、部屋に入らずに待っててもらえますか?」といった具合に。

ここまで考えてきましたけど、いまいちしっくりきません。
むしろ「?」が増えました。

「互いの意見ではなく人格とまで戦いそうになる議論」って、実は「うまい議論」なんじゃない?
「うまい議論」「へたな議論」は何によってもたらされるんだろう?
「うまい議論」と「へたな議論」って何なんだろう?

うーん。
よし、前田さんに問うてみよう。

「うまい議論」の特徴と、「へたな議論」の特徴って、どんなものがあると思いますか?



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