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「感情による認知の歪みと呪いの解き方について」(1)

2018年6月に某大学のメディア論の枠組みで、「震災とメディア」について特別講義をさせていただきました。

その講義録の文字起こしから、公開可能な部分を分けて公開していきます。講義録なので話し言葉のままになっていますが、ぼんやり聴いているような気持ちで読んでやってください。四限だったので学生さんたちはきっと眠かっただろうとそんな気持ちで。

講義タイトル:「知ることは自分や大切な人をいつか必ず助けること」

講義概要:知識を積んで行くということは、実際に自分自身や大切な人を助け、守る力になる。具体的に、AEDを迷わず正しく使えれば、人の命が助けられる可能性さえ出てくる。また知ることによって、不用意な差別などを意図せず言葉にしてしまい誰かを傷つけることも避けることができる。そうして意識を育てて行くと現実との差違に苦しむ日もあるが、そのときは事実を持って現実と向き合うことがまた、自分自身を守り助ける。震災という大きな出来事を通して、その実践経験を元に「知ること」の大切さを伝える。

「どうしてこの講義を持つことになったのか」

わたしがこの講義を持たせていただくことになったきっかけについて、ちょっと長い話ですけど最初に聞いてやってください。
澁澤龍彦って知ってますか?
八十年代に亡くなった作家であり、翻訳家であり、芸術を愛する、若干変態的な人物です。トンチキな男の人。学生の頃、みなさんくらいのとき好きで、昨年が没後三十年で、河出書房新社発行の「澁澤龍彦ふたたび」というアンソロジーに寄稿しました。興味が持てたら読んでみてね。
世田谷文学館でも昨年澁澤龍彦展をやっていて、友人が、その展覧会を見たい人々を無作為に集めまして。わたしが寄稿したのを読んでくれてわたしもその席にお邪魔しました。
T先生とはその席で出会いました。たまたま隣に座り、「プラトーン」という八十年代のベトナム戦争映画の話で盛り上がった。

「プラトーン」見たことある?
ほとんどの方が知らないと思いますが、わたしの好きな映画の説明をちょっと聞いてくれる? 家政科のみなさんだとうかがいました。わたしは国文。国文にはおたくが多い。おたくは自分の好きなものについて長く語る生き物だということも、ついでに覚えて下さい。
ベトナム戦争の終結は一九七五年。わたし五歳。なんか記憶にあります。世界にはまだ戦争をしているところがあるんだとぼんやり認識した。
「プラトーン」はざっくり言うと、終戦後初めてかなり現実的に描かれたベトナム戦争映画だとわたしは認識しています。終戦から十一年後に作られた。
高校一年生のときに映画館で観て、立ち上がれないほど衝撃を受けまして。
以来、時々見ます。
壮大なネタバレをするけど。

クリスという若い新兵が主人公。一年間、ベトナムの最前線にいなくてはならないその一日目から映画は始まります。アメリカはその戦争に負けてるわけなんだけど、敗戦国アメリカ側の死者は六万人、人的被害は何十万人と言われています。そこに降り立った若者、クリス。
最前線には、1973年まで徴兵制度が採用されてます。なんと抽選です。18~25歳の健康な男子、みなさんの年齢ですね。誕生日で抽選されました。
でもクリスは志願兵です。大学を辞めて志願したんだったかな。監督のオリバー・ストーンの実体験で、その徴兵制度に疑問を持って自ら志願したのね。反戦運動に走った人々ももちろんたくさんいました。
そのクリスはだから、そもそも反戦思想を持って最前線に行くんだけど、エリアスとバーンズという二人の上官に出会うのね。
天使と悪魔。右の天使、左の悪魔みたいな感じ。
エリアスはやさしく人道的で、最前線での蛮行や超法規的措置を絶対に許さない。
バーンズは一方、勝つためにならなんでもやる、戦場での最低限のルール、国際法とかね、そういうことも侵す軍人です。
クリスは人道的なエリアスに傾倒するんだけど、エリアスとバーンズは真逆の立場なので、二人は反目しているのね。何しろ天使と悪魔だから。バーンズにはエリアスは邪魔でしかないので、ある日密林で二人きりになったときに撃ち殺してしまいます。
証拠はない。
映画の最後に敵も味方も全員皆殺しだみたいな爆撃があり、朝が来て、バーンズとクリスはたまたま生き残る。
援軍を呼べというバーンズを、クリスは撃ち殺してしまう。
エリアスとバーンズは、自分の父であり母であったと思いながら、負傷兵となったクリスは帰国するんだけど。
憎しみで復讐をしたら、それは連鎖だよね。
わたしはそう思うので、クリスはバーンズを殺してはいけないと思う。
でも十六歳のときから何度この映画を観ても、わたしは最後、クリスの中に入って、迷いながら引き金を引いてしまう。
これでは平和は訪れないよと、わたしは時々「プラトーン」を観ては、もうバーンズを撃ち殺さないことができるだろうかと、自分を試します。
という話をしていたらT先生が、
「その見方も興味深いですね。私は職場の上司に置き換えると、とてもわかりやすいと思うんですよね。有能だけど大嫌いなバーンズに着いて行くか、やさしいけれど生き残れないエリアスに着いて行くか」
そうおっしゃって。
「はー! その視点はなかったな。そうですよね。エリアスがどんなに好きでもエリアスについて行ったら最悪死が待ち受けてるし、バーンズがどんなに憎くても最前線で生き残るのはバーンズだ」
「そうそう。上司だと思えばね、好き嫌いでは決められない」
「まあでも、今のところバーンズを撃ち殺してしまう私なので自己弁護なんですが。バーンズは、本当に兵士として生まれて来たんだと思うんですよ。だからベトナム戦争が終結して本国に帰っても、何もできないとは思うんですよね」
「あ、それもあれですよ。有能な上司の退職後の末路」
「ああ、お父さん定年退職した途端に家で邪魔者みたいな。だからクリスも撃つんですかね。どうしても引き金引いちゃう私の言い訳なんですけどね」
とT先生と盛り上がっていたら、その会を主催した友人がですね。
その場に、人形作家さんが連れていらしたとても美しいおとなしい青年が一人おりまして。その青年に向かって、
「女子会の女子トーク、大丈夫?」
え? なんでこのタイミングで!? わたし撃ち殺しちゃうんですよねって言ったそのタイミングで、なんで訊いたの? てゆかこれ女子会だったの? 女子会って何!?
女子会の無限の可能性について、学ぶこともできたという有意義な日でしたが。
という楽しい女子会のその場で、
「うちで講師やってくださいよ!」
と軽く頼んでいただきまして、
「引き受けましょう」
とその場で引き受けて本日ここにおります。
そういうご縁ですので、気楽に構えてやってください。

「知ることは誰かを助けるよ」

と、言いながらテーマがちょっと堅苦しいかなとも思うのですが。
わたしは、
「知ることは人を助けることである」
という思いが強くあります。
わかりやすく言えば、
「AEDの扱い方を知っていたら、目の前で死にかけている人の命を救えるかもしれない」
それは物理的なことですが、知識を積み重ねることは大切な他者を、そして何より自分をね、自分が保ててなかったら他人助けるどころじゃないからね、自分を必ず助けることになる。
これから社会に出て行くみなさんに、社会は茨だよなんて言いたくないけど。
仕事やら、結婚してみたりとか、いろいろするよね。これからいろいろする。しなくてもいいんだよ? そういう日々の中に、
「これ以上生きて行けない」
そういう岐路が、人生には残念ながらやってくる。
悪い予言者みたいに覚えて帰らないでね。
こんな感じのわたしにも、普通に、そういうことはありました。結構誰にでもやってくる。そんなにスペシャルでもない。
震災もその一つの出来事です。震災はスペシャルが過ぎたな。
そういう、大きな負の出来事をね、生き抜くために、自分や他者を守り助ける力は、知識と知恵です。あと思いやりもあったらいいね。
そして知ることは、いくつも大切な力をくれる。
「知らないことによって、思いがけずうっかり他者を傷つける」
ことも、知識を重ねれば少なくなっていく。差別や偏見です。
身近なところに引き寄せて言ったら、若い頃って大きな病気の名前冗談で言っちゃったりすることってない?
わたしはそんなこと言わない? 大丈夫?
たとえばちょっとなんか忘れちゃったときに、やばいあたしアルツハイマーかもーなんて言っちゃったことない? わたしはあるんだけどね。よく知らなかったときにね。わたしがみなさんぐらいの年齢の時は三十年前なので、アルツハイマーの認知も今日ほどではなく、言ってしまいました。
でも、ちょっと財布忘れちゃったみたいな感じであたしアルツハイマーかもあははって言った、目の前の友達の、お母さんとかお父さんとか、おばあちゃんとかおじいちゃんとかが今実はアルツハイマーで、その子は大変なことになってたら、財布忘れたくらいであたしアルツハイマーかもとか言われて、笑えないし、泣きたいかも知れない。
それでもそのことも言えないかもしれないし。
アルツハイマーがどういうものなのかちゃんと知ってたら、そんなこと言わない。
その友達と親しくてお互いのことちゃんと知りたいような関係性築けてたら、打ち明けてくれるかも。そしたらまず言わないよね。
その友達の目の前で、あたしアルツハイマーかもなんて、知ってたら死んでも言わない。
傷つけないですむ。泣かせないですむ。
知るって、そういうこと。
ほとんどの人の人生に度々訪れる負のライフイベントを……わたし普段ビジネス英語使わないんだけど、大学の講義っぽくわかりやすいかと思って使ってみた。「岐路」、ね。そこを切り抜けて生きて行くために必要なのは、
「知ろうとすること。知ること」
かなとわたしは思う。
「他者を、何より自分を守り助けて生きて行くために、知ろうとすることを惜しまないで欲しい」
それが少しでも伝わったら嬉しいです。

「容姿には認知の歪み、呪いがかかりやすい

わたしは十二年前に福島県に転居して、311、東日本大震災を福島県で経験しました。
その経験をもとに、知ることの大切さを色々お話しさせていただきたいなと思っていますが、せっかく女性ばかりの講義なので、ちょっと関係ないようでわたしには関係あるんだけどという、話を先にさせてください。先にさせてくださいが多いよね。本題に入ってってないようで入っててるからそこは安心して。

女子には結構気になる、容姿の話ね。
ここ半年くらいわたしはかつてなく、何故容姿って、こんなに人の心にとってままならない問題なのかなということを真面目に考えてました。色々きっかけが重なってね、なんでかなあって考えてた。人によってそれぞれだと思うけど、気になり方は。でも、かなり気になるお年頃かなとも思うので、わたしが丁度考えてた、タイムリーにと、容姿の話ね。
半年くらい考えて今の結論としては、人智の及ばないことだなと思ってるんですがね。

なんかこう、多くの女性は、痩せたいものじゃない? シンデレラ体重なんて言葉も見かけて。わたしも例にもれず今も、夏だわー薄着になるわーあとさんきろーなんて思います。
でももう四十八なので、若い頃より容姿のことって深刻じゃないな自分にはと感じながら。
中学二年生のときに、第二次性徴が来て、10キロ太りました。太ったというか、155センチくらいかな。42キロだったのが、一年で52キロになった。
要は子どもが大人の体になっただけの話です。今思えばね。
そのとき好きな男の子と……中学生の好きとかもう、ね。スカートの白墨を、白墨使ってた? ジャージの袖で落としてくれたから好きとかそういうやつですけど、当時のわたしはこれ以上に愛せる人など現れないくらいの好きですよ。白墨落としてもらって。で、わたしは教師とはだいたい上手くいかなかったんだけど、数学の先生がこう、フランクで、軽い感じで気に掛けてくれるのがなんか丁度よくて好きでした。男性教師。
その二人からその一年間、「おまえ太ったなあ。おまえ太ったなあ」と言われ続けたのね。不思議に別に恨んでないんだけど。恨みにくい脳みそ。トラウマとかフラッシュバックとか置きにくい。このことについては興味があったら最後質問して下さい。本題じゃないのでね。
そこからわたしは、「自分は10キロ太ってるから、10キロ痩せなきゃ」と、三十代まで思い続けた。若い頃はそんなに体重の増減も激しくなかったので、158センチ52キロから55キロで、二十年にわたって、「わたし十キロ痩せなきゃ」って思い続けてました。不幸中の幸いは本当に食べるのが好きで、過激なダイエットはできなかった。
三年ほど前に、引っ越して一度も開けてなかった、衣装ケース四つ分の写真を、ちょっときっかけがあって開けました。十二年ぶりに、自分の四十五年分の写真を一気に見た。たまに観るとおもしろいし、新しい気づきもあるもんだなと思ったんだけどね。
158センチ52キロ、まあ、中肉中背だよね。太ってないし、なんなら痩せてるって言ってやってもいいかも。そういうすっきりしてる自分の二十代三十代の写真を何枚も見て、
「このときも、このときも、このときもこのときもわたし、ずーっと自分のこと10キロ太ってると思ってた。10キロ痩せなきゃってずっと本気で思ってた。ここから10キロ痩せたら下手すると死んじゃうよ。馬鹿じゃないの!? この頃のわたし!」
写真見てびっくりした。よかったら一枚見て。

これ三十代。これで10キロ太ってると思ってた。あほだよね本当に。
自分で思い込んでるから、「痩せてるね」みたいなトークになったときに、「いや、太ってるよ」って返してたと思います。厭味じゃない? 嫌われたこともあったし、誰かを傷つけたこともあったと思う。本当に馬鹿だなあって、思った。
何故そんな風に二十年思い込んだかというと、二人の自分が好意的に思ってる男性に「太った太った」と一年言われ続けて信じ込んでしまったのね。
こういうのを、「感情による認知の歪み」と言います。

難しいかな。わかりにくい?
結構主題なんでね、この「感情による認知の歪み」を、ちょっと説明してみます。
わかりやすいのは、こんにゃくゼリーかなと思うんだけど。商品名蒟蒻畑ね。知ってるかな? 一度販売中止になった二〇〇八年までの十三年間で、二十二人の方が亡くなっています。死は、数ではないから。一人でもね、本当に痛ましい。それは本当にね、そうなの。
ちなみに日本での窒息死亡者数は、年間四千人という話です。
お正月にお餅食べること多いよね。日本人。一月には餅による窒息を含めて、四千人のうちの千人以上が亡くなっている。
蒟蒻畑は十三年間で、二十二人。
でも蒟蒻畑の方が危険だと思う人は、少なくない。
圧倒的に危ないし気をつけなければならないのは、餅だと人は、気づきにくい。
なんでか。
大きな悲劇や悲鳴で、認知が歪められてしまっているから、餅の方に気をつけなきゃっていうことに気づきにくい。
わたしは別に蒟蒻畑が食べたいわけじゃないんだけど、消費者庁が世論を優先して一旦販売中止にしたのはなんでかな? と、ちょっと調べてみた。検索した程度です。この辺は全く裏付けがないしわたしも信じてるわけではなくて、例として使いたいだけだから信じたり流布したりしないでね。悪意のあるその議員への誹謗中傷の記事かも知れないから。
その采配をした議員の地盤、投票する人がいる土地ね。その大手企業が、同様の商品を丁度売り出していたからという記述も出て来た。個人のブログみたいなものだったので、繰り返しますが真に受けないでください。
仮にそういう意図も働いていたとするよね。くどいけどこれは妄想例え話として受け取ってね。
意図も働いていたとして、そのことに気づくのって相当難しくない?
ぼんやりと声の大きい人の言い分だけ聞いていると、もちろんそんなことにも気づきようがないし、餅の方がもっと危ないから本当に気をつけないといけないというすごく大事なことにも気づけない。
そんな風に人は、知らないでいると、簡単に認知を歪まされてしまう。感情的な世論ならまだしも、この例みたいに、利益のために意図して歪めにきてる人もいるかもしれないのです。

もとの話に戻ると、わたしはただ大人の体になっただけなのに「太った」と言われ続けたことによって認知が歪んで、「わたしは10キロも太っている」と二十年思い込み続けてしまった。
いいことじゃないよね? ずっと自分は太ってるという思い込みによるストレスや、それが傲慢な言葉になって友達を傷つけたこともあったと思う。全くいいことじゃない。
もう少しわかりやすいことばで言うと、「感情による認知の歪み」は、「呪い」だよね。「太ってる」「この子全然きれいじゃなくて」「女らしくないから」「兄弟の中でこの子だけできなくて」。自分が絶対だと思っている相手、親、教師、親戚、好きな人から言われたことって、「わたしそうなんだ」って思っちゃうよね。
でも、二十年も思い込んでたのって今わたしから聞いて、そんなの馬鹿みたいだし時間もったいないって、思ったりしない? かわいそうだし、無駄だよね。
なので、認知の歪みは、早め早めに解いて行こう。呪いはすぐさまその場で祓おう。
どうやって歪みをとき、呪いを祓うか。
それは、知ることです。知る。周囲を見る。自分のことも、よく知る。わたしの場合は、わたし別に太ってないな? ってちゃんと知る。
そうすれば強い呪いを掛けられたときに、
「いいえ。醜いのはわたしではなく、不当な呪いをかけようとしているあなたです」
と、すぐに気づける。
それは意識して訓練していきましょう。
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