Akita-Bijinってなんだろう④

秋田美人~川反芸妓時代~

秋田美人と言う言葉が出来たのは明治から昭和初期に花街(川反)のひとつの宣伝の仕方として出来てその後新幹線が出来た事で外部の人たちに広まった。
人の行き来が容易でなかった時代に雪深い国の色白の美人というのは人々により幻想的に伝わっていった。当時はイチ個人として『~置き屋のOO子』の様に宣伝するよりも『秋田美人』などとして宣伝した方が効率的だったのだと思われる。
(○○美人とつくものはざっと挙げるだけでも津軽美人庄内美人会津美人越後美人(新潟美人)・金沢美人京美人名古屋美人博多美人。。。かなりの数がある。)
国体や、石油の一大拠点などで秋田へ訪れた人達をもてなしたのは花街の女性たち、いわゆる川反舞妓と川反芸者の人たち。その芸やおもてなしに満足して地元へ帰った方達が秋田美人をより一層根付かせた。

秋田美人~おばこ時代~

そして太平洋戦争を経て、川反舞妓、芸者の数が少なくなるにつれて注目され始めたのが一般人。いわゆる『秋田おばこ』と呼ばれる人たち。

木村伊兵衛の撮影した『秋田おばこ』を
ポスターにした あんべいいな秋田県

昭和28年写真家、木村伊兵衛の撮影した『秋田おばこ』の写真が言葉も無く人々に『秋田美人』を印象付けた。
秋田おばことは明確な定義は無いが、おばこ(意:おぼこい、娘)から推測するに花街などに働いていない生娘の様な事だと推測される。
秋田民謡おばこの歌詞では「おばこなんぼになる、この年暮らせば十と七つ…。」と謡われるので17才くらいの一般女性と思う事もできる。
圧倒的に農家が多かったためか、秋田おばことして出て来る人達は絣を着て秋田蕗や、栗拾いをしている。
宣伝として○○美人と売り出していた花街が戦後徐々に廃れていくにつれ各地から○○美人が消えていく中、秋田美人という言葉は一般人に席を譲る事で運良く生き残る事が出来た。
舞妓、芸者だけが秋田美人と言うのではなく、一般人を『秋田美人』とした事が秋田美人生き残り最大の成功の要因。

秋田美人~高度成長期時代~

秋田美人 読売新聞秋田支局編より

高度経済成長期に秋田から都会への集団就職が行われる中、就職担当者たちの「秋田おばこ=美人」という宣伝の仕方が効果的だったよう。
訛りの強い秋田県人を少しでも良い就職先に就かせるために「秋田おばこは美人である事は言うまでもないが、さらに言うと雪国で育ったので我慢強い。素直で、仕事熱心である。仕事を放り出してコーヒーでも飲もうというどこかの”無責任時代”の娘サンとは全く別ですよ…」と。

秋田美人~観光レディ時代~

ホットアイあきた平成4年1月1日発行
あきた 昭和62年9月1日発行
秋田美人サイレントキャンペーン 2016年

秋田美人は時代によって変わってきた。
昭和~平成にかけては秋田県内にも『ミス○○』『観光レディ』が各地に溢れたそうだ。
『ミス観光秋田』『田沢湖観光コンパニオン』『ミスねむの花』『ミスかまくら』『小町娘』『ミスドンパン娘』『ミス清水』『ミス大館』『ミスじゅんさい』『ミス天鷺』『ミス黄桜』『ミス山ゆり』『ミスあきたこまち』
ここでも秋田美人は観光に一役買ってくれていた。
そして平成になってミス○○とは違った切り口を作ったのが『秋田美人サイレントキャンペーン』と、秋田美人をもじった『あきたびじょん』
そして平成初期に一時途絶えてしまった川反芸者が平成26年に復活を果たす。

そして令和はいかに!??^^