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本荘ごてんまりは御殿鞠に非ず~あなたの知らないごてんまりの世界①~


「本荘ごてんまりは、お城(御殿)で生まれたまりだから、ごてんまりなんですよね?」

そう質問してくる人がいます。
御殿で生まれたから、ごてんまり。
確かに分かりやすいですよね。
見た目も紅白の房が付いているし、きらびやかで華やかな感じがしますし。
それが真実であれば、誰もが納得しやすいと思います。

桜まりと菊

しかし、「本荘ごてんまりがお城(御殿)で生まれた」とする歴史的資料はどこにもないのです。
「ごてんまり」に関する資料は、「江戸時代はもとより、明治・大正・戦前の数万点を越える市史資料にも出てこない」(注1)のだそうです。
だからわたしは、本荘ごてんまり及びごてんまりのことを「御殿鞠」とは表記しません。必ずひらがなで「ごてんまり」と書きます。

それでもこういった質問がよくされるのは、「お城で生まれたからごてんまり説」がよほど納得しやすいからだと思います。旧本荘市に、実際に本荘城という名前のお城があったことも影響しているのでしょう。

由利本荘市教育委員会が発行した『ミルシルハッスル ゆりほんじょう 平成23年度♯2』(注2)という映像資料では、本荘ごてんまりの始まりについてはっきりとは分かっていないと前置きしながらも、今まで言い伝えられている二つの考え方を紹介しています。
一つは、「まりと殿様」の歌です。「てんてんてんまり てんてまり」という歌詞があり、その「てまり」に「ご」を付けて丁寧にしたのが始まりという説です。
もう一つは、慶長18年(1613年)頃に本荘満茂(ほんじょう みつしげ)が本荘城に城を移したとき、大奥の御殿女中によって手ほどきをされたという説です。つまり、城という「御殿」で遊んだまりだから「ごてんまり」という説です。

一つ目の「まりと殿様説」は、なぜ「ごてんまり」という名前になったのか、という名前に関する答えにはなっていますが、なぜこの由利本荘市で本荘ごてんまりが誕生したのか、という地理的および歴史的な答えにはなっていません。
一方「御殿女中説」は、なぜこの土地にごてんまりの文化が生まれたのか、なぜごてんまりという名前なのかという問いに、完璧に答えることができます。「ごてんまりは、本荘城の奥女中たちが遊戯用の手まりとして作った。それが次第に本荘地域に広がっていった」と聞くと、お城の中で手まり作りに勤しむ美しい女中たちの姿がすっと浮かんできませんか?
この「御殿女中説」は、資料を見たわけでもないのに、聞く人をすんなりと納得させてしまう不思議な力があります。しかし、前述したようにそれを裏付ける根拠はどこにもありません。

「御殿女中説」の真偽については、2002~10年年度に本荘郷土資料館で資料調査員を務めた石川恵美子さんという方が「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」(注3)で詳しく論じています。
この論文では、「御殿女中説」(論文内では「満茂説」となっています)の初出の可能性として、秋田県広報協会発行『あきた』昭和38年(1963年)11月号を挙げています。『あきた』誌の記者が、「まり」について述べた一般論「(ごてんまりは)昔、御殿女中がヒマつぶしにつくった遊戯用のマリからそう呼ばれている。」という文章を読んで、本荘のごてんまりの説明であると勘違いし、『あきた』誌内のごてんまり紹介文に転用してしまったことが原因なのではないかと述べています。

この論文は、平成24年(2012年)3月9日付の地元の新聞『秋田魁新報』が「“御殿女中説”異議あり 50年前、勘違いが通説に」という見出しで紹介しています。新聞では「“御殿女中説”を観光冊子で紹介してきた市は困惑している」と紹介し、最後に市商工観光部のコメントを伝えて終わっています。「市の宝であるごてんまりを後世に伝えることが何より大事。御殿女中説を採り続けるかどうかは検討の余地がある」

令和2年11月現在、由利本荘市観光協会のホームページでは、「御殿女中説」が「歴史ロマンを感じさせる説」という言葉で表されています。
https://yurihonjo-kanko.jp/yrdb/introduce/


「じゃあ、結局ごてんまりって何なの?」というもっともな疑問が生まれると思います。その問いに関しては、また別で書きたいと思います。



(注1)今野喜次「本荘八幡神社祭典と傘鉾―傘鉾の復活を願って-」『由理』第三号 2010年 本荘由利地域史研究会
(注2)『ミルシルハッスル ゆりほんじょう 平成23年度♯2』郷土文化シリーズ①ごてんまり 2011年6月 由利本荘市教育委員会 
(注3)石川恵美子「『本荘ごてんまり』の歴史と今日的課題」『由理』第四号 2011年本荘由利地域史研究会

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