見出し画像

本荘ごてんまりの創始者は誰?~あなたの知らないごてんまりの世界②~

「ごてんまり」と呼ばれるまりは、本荘ごてんまりだけではありません。
『ミルシルハッスル ゆりほんじょう 平成23年度♯2』(注1)では、本荘郷土資料館資料調査員の工藤さんが「全国で『ごてんまり』と名付けているのは、4つほどある」と述べています。そう語る後ろには、日本の手まり分布図があります。この分布図の下には「新井智一『ふる里の手毬』1990年より作成」とあります。

その分布図を見ると、(本荘郷土資料館に実際にこの資料があります)「ごてんまり」と名の付くまりは、「本荘ごてんまり」「鶴岡御殿まり」「尾花沢の御殿まり」「松江御殿まり」の4つです。
この4つのまりの中で、「本荘ごてんまり」以外のまりは全て「御殿まり」という漢字表記になっていることからも、やはり全国的に言えば「ごてんまり」=「御殿鞠」という認識になっていることが分かります。

前回の論考で、『あきた』誌の記者が、「まり」について述べた一般論「(ごてんまりは)昔、御殿女中がヒマつぶしにつくった遊戯用のマリからそう呼ばれている。」を読んで、本荘のごてんまりの説明であると勘違いした可能性がある、と指摘されていることをご紹介しました。
『あきた』誌の記者が勘違いした気持ちも分からなくはありません。未だにわたしも「本荘ごてんまりは御殿で生まれたからごてんまりなんでしょ」と言われるくらいですから。

しかし、本荘ごてんまりは「御殿鞠」ではありません。他のごてんまりは江戸時代の御殿女中たちによって生まれたのかもしれませんが、本荘ごてんまりは違います。
では、誰が創始者なのかと言えば、それは昭和30年頃に生きた市井の女性たちでした。

『企画展 本荘ごてんまりと全国コンクールの歩み』(注2)では、本荘ごてんまりの創始者に、豊島スエノ(明治21年~昭和40年)・斎藤ユキノ(旧名:田村正子)・児玉八重子(旧姓 石塚)の3人の名前を挙げています。
由利本荘市観光協会のホームページでは、「”ごてんまり”の復活」のコーナーでこの三人の名前の他に、豊島スエノの娘大門トミエの名前も挙げています。

なんで三人もいるんだ、代表者一人だけでいいだろう、と言いたくなる人もいるかもしれません。

しかし、この三人は決して一人にまとめることはできません。

前述書『企画展 本荘ごてんまりと全国コンクールの歩み』の、本荘ごてんまりの創始者紹介ページを見ると分かるのですが、豊島スエノの名前の下には線が引かれ、その下に並列で記載された斎藤ユキノ・児玉八重子と明確に区別されています。

斎藤ユキノと児玉八重子は一緒に並べることができても、豊島スエノは並べることができないのです。

これは、当時ごてんまりの世界にどう考えても源流の異なる二つの派閥があったことを意味しています。だからこの三人は絶対にひとまとめにすることができないし、代表者を決めることもできないのです。

かつてこの由利本荘市で、「ごてんまり騒動」と呼ばれる騒動があったことをご存じでしょうか?
この騒動については、次回に書きたいと思います。


(注1)『ミルシルハッスル ゆりほんじょう 平成23年度♯2』郷土文化シリーズ①ごてんまり 2011年6月 由利本荘市教育委員会 

(注2)『企画展 本荘ごてんまりと全国コンクールの歩み』(本荘郷土資料館編 2007年9月)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?