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蝶々の採餌 最終話


「今日までありがとうございました。このピアス、お返しします。」

「そう。明日は卒業式?」

「はい。おかげさまで、無事大学を卒業できます。」

 3月の銀座に春の気配はまだなく、窓から眺めたマロニエ通りには葉の落ちた枯れ木と足早に通り過ぎる着ぶくれした大人たちばかりが目立った。

 3年半前、面接を受けたモーツアルトが流れる喫茶店で、私は艶子さんと向き合っていた。艶子さんはお店がお休みの今日、黒地に緑の亀甲模様の大島紬の着物に、葡萄の房と蔓や葉が描かれた名古屋帯を締めていた。生クリームが小山のように浮いたホットココアを幸せそうに口に運ぶ。私はブレンドコーヒーを口に運ぶ。酸味が少なく、後味に香ばしさが残るコーヒーは私好みだった。私は甘いものが昔から苦手なのだ。

「あなたならきっと素敵なお医者様になれるわ。研修医は大変らしいから、苦しい時はいつでも飲みにいらっしゃい。」

「ありがとうごさいます。こんなに良くしていただいて、本当に、お礼しきれません。」 

「何言ってるの、お礼ならglossにあなたを紹介したY教授にね。でもY教授はうちの一番のお客様だから、あなたはもっと我儘で良かったのよ。」

「・・・はい。」

 じんわりと目頭にあたたかいものがこみ上げる。そんな私に気付いて艶子さんはもう一度、あなたはもっと我儘で良かったのよ、と笑った。白いハンカチをハンドバックから出し、手渡しながら話題を変える。

「ピアスは少しは役にたった?」

「はい。これがなければ売り上げに貢献できなかったかもしれません。」

「そんなことないわよ?」

「いえ、だって、ピアスの光に吸い寄せられて、お客様は私についてくださったんです。」

「ピアスの力には気付いていたのね。でも惜しい、それはちょっと違うわ。」

 艶子さんはココアのカップをソーサーに戻し、一呼吸置いて私の目をまっすぐ見た。

「ピアスに男性を引き寄せる力はないわ。ただ、自分にとって相性の良いエネルギーの場所を教えてくれるだけ。私が大学で研究していた蝶の話、覚えているかしら?」

「・・・はい。この喫茶店で初めてお会いした時お聞きしました。蝶には、異性と餌が放つ微細なエネルギーが紫外線という形をとって肉眼で見えているって。」

「そう。だから、あなたのことを最初から可愛いと思っていたお客様と、あなたに贈られたプレゼントだけが、人間の目には見えない色で輝いて見えたんじゃないかしら。」

「そうだったんですか?いえ、私、そんな風にはまったく思っていなかったです。」

「勿体ないわね、あなたに向けられた愛情の存在に気付かないなんて。もっと美味しくいただいちゃって良かったのに。」

 そう言って艶子さんは笑い、白いカップについていた赤い口紅をナプキンで拭った。着物に良く合う、少し古風な印象の赤い口紅。初めてあった時と同じ。きっと、きちんと自分にあったものを知っていれば、何かに流される必要はない。

「でもみんな、案外そんなものかも知れないわね。平均より体重が多いとか、目が小さいとか鼻が大きいとか、理由を見つけてせっかく自分に向けられた愛情を見て見ぬ振りしてしまう。そんなことより、素直に受け取ってしまえば良いのにって思うわ。3年半、夜の世界に勤められたのはあなたが可愛いからよ。自信持ちなさい。」

「ありがとうございます。」

「そう。自分に素直にね。」 

「最後に聞いてもいいですか?」

「なあに?」

「なぜ、私を雇って、しかも特別なピアスまで貸してくださったんですか?」

「それはだって、初めて会ってここで面接したとき、あなた私のことを本当に綺麗な人だって心から思っていたでしょう?顔に出ていたわ。
 この子なら、私のためにもしくはうちのお店のために、一生懸命働いてくれるって確信したのよ。」

 そう言って艶子さんはころころと顔をほころばせて笑っていた。艶子さんにはきっと先天的に蝶の眼があるのだと思った。やっぱり私には夜の世界は向いていなくって、艶子さんのようなひとでないと生き残っていけないのだと思った。

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