1947優生保護法案提案理由説明の考察

1947年8月28日加藤シヅエ代議士、太田典礼代議士福田昌子代議士によって提出された優生保護法案(以下1947優生保護法案と呼ぶ)の提案理由説明(1947年12月1日衆院厚生委員会)についてTwitterに分散投稿した考察文章をまとめています。
考察1〜72まで投稿順に並べています。

考察1
参考情報  
投稿番号3(noteにUPした記事を参照して下さい)https://note.com/akiyamabonbon/n/n991c033cf3abの関連
国民優生法による優生手術実施件数
538件(1941〜1947  国会図書館レファレンス816号より)

考察2
参考情報
投稿番号20〜26の関連
(加藤シヅエ著)『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』より
「占領下のことですから、議員立法を出すにしても一応GHQの了承を得なくてはなりません。」

考察3
参考情報
投稿番号20〜26の関連
『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』より
「厚生問題のキャップ、サムス大佐にあって説明いたしましたら、よく判ったとおっしゃいました。・・サムス大佐は『日本の人口問題の将来について』というメモを発表なさったんです。」

考察4
参考情報
投稿番号20〜26の関連
『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』より
「サムス大佐の意見書のことがアメリカに伝わりましたら『よその国の人口問題に対して、司令部が口を出すとはけしからん』とカトリック信者が騒ぎ出しましたの。」

考察5
参考情報
投稿番号20〜26の関連
『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』より 
「マッカーサー元帥は日本占領軍の総司令官のお役目がすんだら、帰国して大統領選挙に出馬する計画を持ってらした。」

考察6
参考情報
投稿番号20〜26の関連
『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』より
「ですから、アメリカのカトリック勢力を敵に廻すことは避けたいと思われたんでしょう。」

考察7
参考情報
投稿番号20〜26の関連
『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』より
「(マッカーサー元帥は)サムス大佐に『日本の人口問題に手を触れてはならぬ』と厳重な命令をお出しになった。」

考察8
参考情報
『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』(日本図書センター1997)の記述について①
本書では加藤らが優生保護法の立法の説明をGHQのサムスにした後、彼が「日本の人口問題について」の見解を発表したことになっているが、事実は異なる。

考察9
参考情報
『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』の記述について②
GHQのサムスが人口問題の解決策として、工業化、海外移民、産児調節の三点を発表したのは1946年2月9日。加藤シヅエの初当選はその2ヶ月後の1946年4月の第22回衆議院選挙。

考察10
参考情報
『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』の記述について③
優生保護法の共同提案者となった太田典礼と福田昌子の初当選は1947年4月25日の第23回衆議院選挙。GHQの公衆衛生局長が「民間人」の意見具申を受けて人口問題の解決策を発表したことになるが・・

考察11
参考情報
『加藤シヅエ ある女性政治家の半生』の記述について④
本書の中で紹介されている彼女の親類の政治家でXという人物がいる。Xは1920年代から、「日本の人口問題の解決策は、もとより日本の工業振興策によるより外はない」と主張した。

考察12
参考情報
Xは1924年米国連邦議会で「排日移民法」が制定された後、渡米して米国を批判する講演活動を展開した。人種差別の『被害者』が『加害者』の懐に飛び込んで論陣を張ったわけだ。工業立国と移民は政治家Xの重要なテーマとなった。

考察13
参考情報
Xは翼賛政治会の総務を務めていたことで1946年1月〜1950年10月の間公職追放処分を受けた。彼が公職追放の身でありながら、1947年と1948年の優生保護法の立法に関与できたかどうかは不明である。

考察14
参考情報
投稿番号20〜26の関連
袖井林二郎著「マッカーサーの二千日」より
「マッカーサーが『日本占領の成功』という業績を看板に1948年秋の米大統領選挙に打って出ようという志はこのころ(1947/3)かなり固まっていた。」

考察15
参考情報
投稿番号20〜26の関連
袖井林二郎著「マッカーサーの二千日」より
「マッカーサーは投票日(共和党ウィスコンシン州予備選)の一ヵ月前の1948年3月9日『指名されれば受諾する』と声明(総司令部特別発表)を発した。」

考察16
参考情報
1948年米国大統領選挙と優生保護法国会審議の日程
共和党候補者を指名する共和党全国大会1948年6月21日〜25日(マ元帥惨敗)
第二回国会に上程された優生保護法案の参議院本会議可決1948年6月23日、衆議院本会議可決6月28日

考察17
参考情報
GHQと日本の優生政策の関係性について豊田真穂氏の論考。web公開あり。
「アメリカ占領下の日本における人口問題とバースコントロール マーガレット・サンガーの来日禁止をめぐって」
関西大学人権問題研究室紀要第57号(2009/3/31)
→1947年9月、米国のClarence Gamble(P&G創設者の孫)から加藤シヅエが創設した「産児制限普及会」へ寄附の送金がなされた記述がある。

考察18
参考情報
『GHQの対日ハンセン病政策』プロミンの導入と「日本型隔離政策」の容認と入所者自治会活動への警戒と。web公開。
「財団法人日弁連法務研究財団ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書(厚生労働省委託事業)」2005/3/1  P83〜93

考察19
参考情報
栗生楽泉園人権闘争①
1938年   国立療養所栗生楽泉園に特別病室(重監房)設置。
園内規則違反者が収容され、その間入浴と治療停止。9年間でのべ収容者93名。死亡23名。 

1947優生保護法案提案理由説明の考察20
参考情報
栗生楽泉園人権闘争②
在園患者へ課された重労働(木炭、薪の運搬、温泉の誘導木管修理工事)と園当局者による配給食糧の不正取得、労働賃金ピンハネの常態化に不満が高まる。施設当局に対する追及は重監房、監禁室への投獄の覚悟を要した。

考察21
参考情報
栗生楽泉園人権闘争③
1947/5/3日本国憲法施行。
多摩全生園で前年施行された「生活保護法」の適用を患者全員が受け、保護費支給開始の情報伝わる。患者自治組織総和会執行部が園当局に問い合わせるも給付に関する進展無し。
同年6月GHQ宛て患者の実情を訴える書面送付。

考察22
参考情報
栗生楽泉園人権闘争④
1947/8/11 竹腰徳蔵参院議員(群馬選挙区)の公職追放に伴う補欠選挙(8/15投票)の遊説で共産党員(党中央委員伊藤憲一、関東地方労働組合協議会財政部長真穂七ら5名)楽泉園訪問。入所者と懇談する中で職員不正問題、特別病室問題で患者側から怒り噴出。
1947/8/12総和会常務委員会で患者大会開催を決定。

考察23
参考情報
栗生楽泉園人権闘争⑤
1947/8/15第一回患者大会開催。参加患者400名。
大会決定事項
1 全患者の要求をまとめること
2 同情的な職員との連絡を秘密裡にすること
3 窮迫せる生活状態と園当局者の非人道的な仕打ちに関する具体的な資料をとりまとめ日本共産党に提出すること

考察24
参考情報
栗生楽泉園人権闘争⑥
1947/8/15第一回患者大会。決定事項3について大会出席の共産党側から発言。『共産党は闘争の請け負いはしない。全面的な協力は惜しまないが、患者自身の基本的人権の確立のためにたたかう本隊は患者でなければならない。』全て共産党がやってくれるものと思い込んでいた患者、自治組織総和会へ決起を促す。

考察25
参考情報
栗生楽泉園人権闘争⑦
1947/8/17第二回患者大会。
協議された要求内容
1 生活保護法による救済金200円の支給
2 作業賃の増額
3 食費の増額
4 半強制労働の廃止
5 職員の人事刷新
その他
職員不正摘発委員、食糧倉庫調査委員の選出

考察26
参考情報
栗生楽泉園人権闘争⑧
1947/8/19  第三回患者大会。
「生活擁護・要求貫徹実行委員会」(26名)発足。
決定要求事項
・生活保護法による扶助料支給せよ
・作業賃は現在の倍額に値上げせよ
・半強制労働を廃止せよ

考察27
参考情報
栗生楽泉園人権闘争⑨
1947/8/19第三回患者大会
決定要求事項続き
・各種会計の公表、園の運営委員会を設置せよ。 
・患者の最低生活を保障せよ
・不良職員を追放せよ

※要求事項に断種や絶対隔離政策に関連する内容が無いことに留意。

考察28
参考情報
栗生楽泉園人権闘争⑩

1947年8月、楽泉園在園患者が園当局と対峙するということ。
・いつ何どき看護長によって重監房や別の監禁室に投獄されるかもしれぬ恐怖、不安。
・実行委の一人は投獄されたら、すぐ首吊り自殺が出来るように常に細ヒモを用意していた。
・施設側との交渉で患者側が敗れた場合、弾圧は決定的なものと思われていた。

考察29
栗生楽泉園人権闘争11
1947/8/22〜23第一回、第二回交渉大会。患者側600名。共産党数名。園側出席者は園長、庶務課長、医務課長、看護長。
・患者も職員も対等の資格で園の運営に参画する権利を認めて「療養協議会」設置を合意。
・作業賃は倍増させることで妥結。

考察30
栗生楽泉園人権闘争12
1947/8/25楽泉園職員組合、緊急総会開催。
・患者の要求を全面的に支持する決議採択。
・独自の対策委員会を結成、患者側実行委と連絡会議設置。

考察31
栗生楽泉園人権闘争13

1947/8/26上毛新聞『あばかれた栗生楽泉園/愛の聖地の内幕/耐えかねて患者起つ』の見出し。患者代表の談話として「特別病室」「別途会計」問題を紹介。
『そんな事はない/楽泉園当局は語る』という園長、看護長の談話も掲載。

考察32
栗生楽泉園人権闘争14

1947/8/27毎日新聞『狂死獄死が続出』の見出し。栗生楽泉園の「特別病室」問題を中心に患者人権闘争を報道。
1947/8/28衆院厚生委員会武藤運十郎代議士(社会党群馬3区)の質問で毎日新聞記事を紹介。
一松定吉厚相、ハンセン病療養所実態調査を確約。

考察33
栗生楽泉園人権闘争15

1947/8/30厚生省調査団(第1回)、患者傍聴で公開調査。進展無く、紛糾。
同日、草津町で「楽泉園真相発表演説会」開催。
音楽部の演奏、プラカードで患者100名、湯畑広場まで行進。患者代表より在園患者の実情を草津町民、温泉客に訴える。

考察34
栗生楽泉園人権闘争16

1947/8/30実行委より厚生大臣、衆議院議長、共産党書記長宛てに以下の打電実施を決定。
『派遣調査団ハ不良職員ノ弁護ニキタモノト見做ス、調査報告ハ真実ナラザルモノアリ、正シキ調査団ノ派遣ヲ望ム』

考察35
栗生楽泉園人権闘争17

1947/9/1楽泉園入所者対象の闘争資金カンパ集め。草津町での真相報告会募金箱と合わせて18,450円。
1947/9/2実行委、草津町民生委員に生活扶助費支給について要請、日本共産党群馬県委員会を通し県当局に対しても同様の申し入れ。

考察36
栗生楽泉園人権闘争18
1947/9/3実行委26名、職員労組対策委員十数名、共産党眞穂七(まさほななつ)関東地方委員、社会党県連石井繁丸代議士で四者懇談会開催。
→療養所への配給品、統制品の不正問題の拡がりが園職員の他、園外の地域住民をも巻き込む様相を呈し始めていた。

考察37
栗生楽泉園人権闘争19

1947/9/5自由法曹団小沢茂弁護士楽泉園訪問。実行委、不法監禁等人権蹂躙問題で園当局者を告訴したい旨相談。→後日、前橋地方検察庁に園長と職員2名を告訴。入所者より特別病室(重監房)を殺人罪で訴える要望も出されたが、実現せず。

考察38
栗生楽泉園人権闘争20

1947/9/6実行委より2名、多摩全生園に応援要請の派遣(当時は各園患者自治会間での連絡交流は無かった為、紆余曲折あり)。
1947/9/9全生園で「生活擁護患者大会」開催。入園者700名参加。楽泉園闘争へ呼応する要求決議採択。
(全生園に波及、他の療養所に拡大する可能性も)

考察39
栗生楽泉園人権闘争21

1947/9/12実行委2名厚生省陳情。大臣出張中のため政務次官に2時間面会。要求書にたいする正式回答は19日の確約。
1947/9/18厚生省調査団(第2回)東龍太郎医務局長(後の東京都知事)、実行委と交渉。『こんどの事件は責任を感じている』発言、患者側要求をのむ。

考察40
栗生楽泉園人権闘争22

1947/9/18実行委要求への厚生省回答要旨
・生活扶助金支給同意
・半強制労働廃止
・運営協議会設置承認
・患者の最低限衣食住支給承認
・園当局幹部3名更迭
・保育児童待遇改善
・治療資材施設の改善
・特別病室撤廃

考察41
栗生楽泉園人権闘争23

1947/9/21国会調査団楽泉園訪問。社会党武藤運十郎代議士、自由党小暮藤三郎代議士、民主党飯村泉代議士(共産党代議士は排除)。日本ニュース映画班が同行し、特別病室と投獄体験者の証言を撮影。後日全国の映画館で上映され、社会的な衝撃を呼ぶ。

考察42
栗生楽泉園人権闘争24

1947/9/26衆議院厚生委員会 武藤運十郎代議士による楽泉園国会調査団報告。重監房の至急取り壊し、職員による煙草不正受給の事実確認。患者治療に注力する必要性と同時にハンセン病患者の完全隔離の重要性を力説。→11/6東龍太郎医務局長の国会答弁に繋がる

考察43
栗生楽泉園人権闘争25

1947/10/1厚生省、全国の療養所長招集。楽泉園の事態の説明等。
1947/10/2長島愛生園園長光田健輔より一松厚生大臣へ嘆願書提出。→楽泉園幹部への寛大な措置を求め、重監房設置の意義を主張。療養所側の巻き返し始まる。

考察44
栗生楽泉園人権闘争26

1947年10月上旬実行委、共産党との協力関係解消。
→一部の園職員による不正事件の追及方針をめぐり両者に齟齬が生じる。
1947/10/6ハンセン病療養所入所者への強制断種を明記した「優生保護法案」議員立法として国会上程。

→共産党が退き、療養所の巻き返しが始まるタイミングでの法案上程。

考察45
栗生楽泉園人権闘争27

1947/10/11衆議院厚生委員会受理「国立療養所栗生楽泉園獄死事件に関する陳情」(第五〇三号)陳情者国立療養所星塚敬愛園患者代表金丸正男他九名
→獄死事件について峻厳かつ公正な調査と裁判の行われることを要望。

考察46
栗生楽泉園人権闘争28
1947/11/6衆議院厚生委員会 一松厚相による楽泉園厚生省調査団報告。重監房設置に至った経緯の詳細な説明。10/2光田健輔愛生園園長提出の嘆願書の内容に呼応。『草津送り』が「悪質な患者」の犯罪を抑止した「社会秩序保護の功績」を強調。

考察47
栗生楽泉園人権闘争29
1947/11/6衆議院厚生委員会 東龍太郎医務局長による厚生省調査団報告。患者に対する特殊の法廷、刑を科す施設の設置の検討と『治療を目的とするところの全癩患者の収容』を国策にする旨明言。→9/26武藤運十郎代議士の国会調査団報告と呼応する内容

考察48
栗生楽泉園人権闘争30
1947/12/1衆議院厚生委員会「優生保護法案」提案理由説明。ハンセン病療養所入所者を強制断種の対象に加えた件には全く言及せず。→審議未了廃案。
1947/12/5 楽泉園在園患者と職員による「療養協議会」設立。目的は園内の明朗並びに民主化

考察49
栗生楽泉園人権闘争31
入所者証言集より
当時15歳「(人権闘争が)終わって、変わりましたね。それほど、職員に対してビクビクしなくなったしね。かなり言いたいことは言うふうにはなりましたね。追放(不良職員を)、全部しちゃったですからね。」

考察50
栗生楽泉園人権闘争32
入所者証言集より
当時23歳①「昭和20年(楽泉園入所者が)1290人くらいおった。で、1年で120何人死んでいきますから、ちょうど1割くらい死んでったんです。120何人死んで、代わりに120人ほど新患が入ってくる。もう入れ替わり立ち代わり。5年間であの頃は600人くらい死んだんじゃないでしょうか。」 

考察51
栗生楽泉園人権闘争33
入所者証言集より
当時23歳「(炭背負いと丸太投げの特別奉仕も)昭和22年の人権闘争までですね。・・人権闘争、22年10月頃で終わったですから。その前と後じゃ、かなり患者の意識が違うと思いますね。」

考察52
栗生楽泉園人権闘争34

入所者秩父明水闘争詠

自由もなく平等もなくただ病むを
歎きはかなみて憐れがられき

人いきれ暑き会堂にいきどおる
鋭き声ぼそぼそと弁疏(べんそ)する声

会堂に赤旗立ちしうつつさえ
むしろ快し蔑まれ来て 秩父明水

※補足
証言集には入所者が先輩の秩父明水から、短歌や点字を教わる記述がある。熱心なキリスト教信仰者だった明水は、社会問題に対してはまず祈ることが大切で、それを短歌の題材にすることには否定的だったようだ。歌を闘争詠として紹介することは御本人には不本意なことだと思うが、闘争の渦中で心が動いた瞬間を見事に表現した紛れもない闘う短歌だと思う。

考察53
栗生楽泉園人権闘争35
参考文献
「高原」栗生楽泉園機関誌
「風雪の紋 栗生楽泉園患者50年史」
「栗生楽泉園入所者証言集」
「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」
「回春病室」光田健輔著朝日新聞社発行
「愛生園日記」光田健輔著毎日新聞社発行
国会会議録  


考察54
参考情報
優生保護法案(1947/10/6上程審議未了廃案)①
第三章 強制断種
第六条 精神病院の院長並びに癩収容所の所長は、
その収容者に対して子孫への遺伝を防ぐために、その者の生殖を不能とする必要を認めたときは、(続)

考察55
参考情報
優生保護法案(1947/10/6上程審議未了廃案)②
第三章 強制断種
第六条 (承前)優生委員会に対して、その者の生殖を不能にすることが適当であるかどうかの審査を求めることができる。

考察56
参考情報
優生保護法案(1947/10/6上程審議未了廃案)③
第三章 強制断種
第十条 医師は優生委員会の依頼があれば本人並びに配偶者の同意がなくとも、これに対して断種手術又は放射線照射を行うことができる。  

考察57

1947優生保護法案の提出日について①
『優生保護法解説』(谷口弥三郎 福田昌子共著研進社1948)によれば衆議院議長から議院に「優生保護法案」が送付されたのは1947年10月上旬。その前に福田昌子太田典礼加藤シヅエの共同発議として同法案が衆院議長へ提出されたのは1947年8月28日だった。

考察58

1947優生保護法案の提出日について②
1947年8月28日は、栗生楽泉園人権闘争が始まって2週間。入所者の闘争貫徹実行委員会と共産党の協力関係は継続中で、患者大会、園当局との交渉大会は盛り上がり、上毛新聞毎日新聞の特別病室の惨状を伝える記事が出て、衆議院厚生委員会でも取り上げられたまさにその日。

考察59

1947優生保護法案の提出日について③
谷口弥三郎参院議員は1947年8月2日に「産児制限に関する質問趣意書」を内閣に提出した。内容は国民優生法の申請手続き簡易化や優生手術対象者の中絶の合法化であり、ハンセン病患者への言及は全く無かった。

考察60

1947優生保護法案の提出日について④

1947/8/2   谷口弥三郎参院議員産児制限に関する質問趣意書提出。→ハンセン病患者への言及無し。

1947/8/15栗生楽泉園第一回患者大会→人権闘争開始 

1947/8/28「優生保護法案」福田太田加藤の共同発議で国会提出。→ハンセン病療養所入所者の強制断種明記。

※補足

谷口弥三郎参院議員の質問主意書への片山内閣の答弁文書には「研究中」「慎重」という文言が目立ち、優生政策の新法を求める機運が希薄な状況下で、政権与党社会党代議士によって1947年の「優生保護法案」は提出された。マ元帥の大統領選挙出馬問題が決着する1948年6月まで「待てなかった理由」は何か。

考察61
1947優生保護法案の提出日について⑤

1947/12/1 加藤シヅエ代議士「優生保護法案」提案理由説明。

1947/12/9 第一回国会閉会。「優生保護法案」審議未了廃案となる。

1947/12/13 谷口弥三郎参院議員を中心として新たな「優生保護法案」立案作業開始。翌年6月可決成立。→ハンセン病は任意優生手術の対象となる。

※補足①
谷口弥三郎参院議員は著書『優生保護法解説』の中で、廃案となった1947年の「優生保護法案」について『極めて進歩的のものであった』と記述している。

1948年の優生保護法案の提案理由説明は、参院では谷口弥三郎議員、衆院では福田昌子議員が行った。

※補足②
1948年6月可決成立した優生保護法の共同発議者
参議院議員 
谷口弥三郎(民主党熊本地方区) 
竹中七郎 (無所属愛知地方区) 
中山壽彦 (無所属全国区)   
藤森眞治 (緑風会兵庫地方区) 

所属は第一回参議院選挙当時のもの。

※補足③
共同発議者の続き

衆議院議員
加藤シヅエ(社会党東京2区)
太田典礼 (社会党京都2区)  
福田昌子 (社会党福岡1区)
大原博夫 (国民協同党広島2区)
武田キヨ (自由党広島2区)
榊原亨  (自由党岡山1区)

所属は第23回衆議院選挙当時のもの。
加藤と武田を除く8名は医師でもある。
選挙区が西日本に偏っていることに留意。

考察62

法案の「強制断種」について①

法案にはハンセン病療養所の入所者への断種の強制が盛り込まれた。入所者には子孫を作らせないという戦前からの国家の既定方針の継承と高揚した楽泉園人権闘争へ対抗する意味合いがあったと思われる。

考察63
法案の「強制断種」について②

1940年の国民優生法では、ハンセン病は遺伝ではなく伝染病であるという理由で、優生法の対象疾病からは除外された。一転して強制断種の対象に明記した法案を提出したことは、国民優生法の審議過程を否定することを意味した。

※63の補足①

片山哲内閣の一松定吉厚生大臣は、かつて立憲民政党の代議士として米内光政内閣の厚生政務次官に就任し、1940年の国民優生法では法案を提出した政府委員として関与した。ハンセン病療養所での断種について揉めに揉めた委員会審議の渦中にいた人物。

※63の補足②

「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」の77頁に第二次近衛文麿内閣が国民優生法を提出したと記されているが、この法案を提出したのは米内光政内閣。これを間違えると優生政策が戦後に強化される流れを掴めなくなる。この米内内閣に以前の投稿で触れたXがいた。名前はまだ書けない。

考察64

法案の「強制断種」について③

国民優生法案と同時期に帝国議会に上程され、ハンセン病者への断種中絶を明記した「癩予防法改正案」は政府提出法案であるにも拘らず審議未了廃案となった。療養所で実施されていた断種の法的根拠が無い状態が続くことになった。

※64の補足①
1940/3/15帝国議会衆議院国民優生法案委員会議録より
高野六郎厚生省予防局長答弁「癩の断種手術は特別の方法としまして従来既に相当数行っております。この事の刑法上適正であるかどうかと云うことは、司法省の当局などと相談をしたこともございますが、差し支えないものとして実行しております。」

※64の補足②
高野予防局長「但しこの国民優生法案が決定致しますると、却って癩患者がその手術を受けることの途が塞がれるところがあります。つまり法文の中にゆえなく優生手術を受くる者は罰すると云うようなことがありますから、そのゆえなき者に該当するか、しないかで解釈が分かれますが」

※64の補足③

高野予防局長「そこに少々不安がありますので、態々癩予防法中に一条文を設けよう、そうして是が正しい行いであると云うことを明瞭に致したいと云うのであります」


※64の補足④
癩予防法中改正法律案(1940/3/15帝国議会衆議院上程)
第三条ノニ
癩患者ハ勅令ノ定ムル所ニ依リ行政官庁ノ許可ヲ得テ勅令ヲ以テ定ムル医師ニ就キ生殖ヲ不能ナラシムル手術若ハ処置又ハ妊娠中絶ヲ受クルコトヲ得

→当時の政府提出法案としては極めて異例の審議未了廃案となる。

※64の補足⑤
1940/3/15帝国議会衆議院国民優生法案委員会議録より田中養達代議士(東方会滋賀全県区)発言「癩の何か改正法案が出たと云うことを聴いておりました。しかしこんな案が実は出るとは思っておりませんでした。私は高野さん(厚生省予防局長)からそれを聴いて実は驚いたのです。」

※64の補足⑥
田中代議士発言「生まれた子どもが気の毒だとか、色々な環境だとか云うことも無論実際問題として起こって来ましょうけれども、そういうことの為に法を拵えて、断種までやることが今日許されることですか。もう一歩進歩すれば癒る病気です。」

※64の補足⑦
田中代議士発言「今まで遺伝であったものが遺伝でない、伝染病であった。しかもその病原の黴菌までわかってきたと云うことになれば、是はもう一歩行けば、癒るのであります。その矢先にこれを断種することになりますと学問の進歩は止まります。」

※64の補足⑧

1940/3/17帝国議会衆議院国民優生法案委員会議録より一部抜粋

土屋清三郎代議士「この法案(国民優生法)と併行して癩予防法改正案が出ているそうですね、その目的はやはり癩患者に対して断種をしろと言うことですか」

高野六郎厚生省予防局長「左様であります」

※64の補足⑨

土屋清三郎代議士発言の抜粋「なるほど伝染病その他癩病院では、患者の承諾を得た形式に於いて、長いこと相当の断種手術をやっておることは私も聞いておりましたが、私はその都度始終疑義を持っておる」

※64の補足⑩

土屋清三郎代議士発言抜粋「伝染病ではないか、そうして治療すれば癒り得るのではないか、子供を生んでも生まれた子供は必ずしも癩病ではないではないか、将来あるいは癩病にかかるのではないかと言う疑念はありますけれども、癩病患者の生んだ子供必ずしも癩病にかかるのでは無い」

※64の補足11


土屋清三郎代議士発言抜粋
「私はその意味で癩病院に於いてあの断種手術をすることは、一つ政府として干渉して貰いたいと言うことを、前から考えておったのでありますが、図らずも今度の法案(癩予防法改正案)は私の考えと全く反対の考え方であります」

※64の補足12

田中、土屋両代議士は医師出身の政治家。斎藤隆夫代議士の反軍演説ー除名騒動直後の帝国議会で自分の職業的な知見、信条に基づいてハンセン病者に対する断種の不当を訴えた発言は、「人権」という言葉こそ使われていないが80年経っても不思議な説得力を感じる。

※64の補足13

帝国議会衆議院国民優生法案委員会でハンセン病患者に対する断種に異議を唱え、癩予防法改正案成立を阻んだ田中養達代議士と土屋清三郎代議士は1942年の第21回衆議院選挙(翼賛選挙)では翼賛政治体制協議会の推薦を得ることができず落選。戦後も国政に復帰することは無かった。


※64の補足14

帝国議会でのハンセン病者に対する断種の是非についての議論は、当事者の療養所入所者達に共有されることはなかった。それ故1947年に入所者を強制断種の対象に加える法案が発表された後も目立った反発も議論も起きなかったようだ。療養所の中では「当たり前のこと」だったから。

考察65

「陸の中の島:全国ハンゼン氏病患者短歌集」全国国立療養所ハンゼン氏病患者協議会編(新興出版社1956)より①

◎ひと式の茶器買ひて来し君よ
結婚は許さるるか判らぬといふに
大石桂司 駿河療

◎十七年の子なき生活はおのづから
ひねもす夫を衷(うち)に思ひぬ
浅井あい 楽泉園

考察66

合同歌集『陸の中の島』より②

弱き我の体を憎む妻の声
呪文に似たる翳をひきたり

夫婦舎の誰か死なねば空かぬ部屋を
共同部屋に幾組か待つ
赤沢正美 青松園

値の高き煙草を一つ買ひて来て
正月にのめと妻がくれたり
東光二  敬愛園

67

合同歌集『陸の中の島』より③

殺さるると覚悟決め来し癩園に
妻を娶りて十二年経ちぬ

風邪に臥す妻の額に口づけて
熱をはかりぬ手萎のわれは

鯉幟のはためく下に子を持てぬ
われの一生(ひとよ)を思ひつつ居り
阿南一弘 楽泉園

◦ 考察68

◦ 合同歌集『陸の中の島』より④

◦ 業ふかく負ふもののごとく生き来たりて
◦ 手術台の凍てに今日も血を流す
◦ 新井節子 愛楽園

◦ タイルの床に投げ出され水吐くホースありて
◦ 女患ばかりの朝の診療室
◦ 荒木末子 恵楓園

考察69
合同歌集『陸の中の島』より⑤

新しき畳の匂ふこの室に
夫と二人して住みたく思ふ

手術台に新しき防水布ひかりをり
心静めて吾は待ちをり

はぢらひも今はすぎけり婦人科手術
受けし吾が身がほとほといとほし

荒巻すず子 恵楓園

※補足①
三首目の短歌に引っかかっている。『ほとほといとほし』とは、どのような気持ちだろうか。単純に「本当に愛おしい」でいいのか。副詞『ほとほと』の語感からすると、ネガティブな言葉との親和性が高いように思われる。『いとほし』は、かわいそう、嫌だという意味も併せ持っている。

※補足②
本当にかわいそう、うんざりするほど嫌だという解釈をする余地もあると思う。頭句の「はぢらひ」という言葉の柔らかい語感にカモフラージュされているだけで、詠み手の荒涼たる心象を表現した『ほとほといとほし』かもしれないのだ。
何故異なる解釈の余地がある言葉を選択したのだろう。

※補足③
婦人科手術も不妊手術だったのか、中絶手術だったのかは判然としない。手術前の二首は詠人の気持ちが単刀直入に伝わる歌だけど、術後の歌には簡単に感情移入することを躊躇させるような含意があると思う。

作歌の過程で詠人の気持ちの整理がついていないことに気づいたのかもしれない。

考察70
合同歌集『陸の中の島』より⑥

癩を病む今の私に要のなき
無痛分娩の記事よみ居りし
青山歌子 保養園

優生手術受けしを妻に秘めてきぬ
性欲おとろへしを病のゆゑとして
加藤三郎 楽泉園

栗の花こぼれ散りくる羊歯のなか
哀れなる胎盤を抱ききて埋む
伊藤保  恵楓園

※補足①
1947年提出の優生保護法案の提案理由説明でも1948年の優生保護法案提案理由説明でも、国民優生法では法の対象から外されていたハンセン病を対象疾病に明記した理由は一言も語られなかった。
 その説明を要求する政治家も政党も皆無の状況で法案は全会一致で可決成立した。

※補足②
1940年3月の帝国議会審議で、ハンセン病患者が妊娠出産しても、その子どもはハンセン病に感染して産まれてくるわけではないことは幾度も確認されている。同年3月24日の貴族院国民優生法案特別委員会で高野六郎厚生省予防局長はハンセン病の胎内感染の懸念を述べたが、具体的な根拠や裏付けるの提示は行われなかった。

※補足③
同日の特別委員会での小池正晁貴族院議員の質問で、ハンセン病療養所における断種手術は、療養所入所者の子どもが増えると療養所が非常に困るという、療養所の管理、経営上の都合が動機であることが指摘された。ハンセン病療養所での断種手術は優生思想からも逸脱していた。

※補足④
1940年の帝国議会で繰り返し批判されたハンセン病療養所での断種手術を戦後になって、再び法制化することを目論んだ理由は何か。やはり栗生楽泉園の人権闘争で危機に瀕した療養所の統治を支援、強化する目的以外考えられない。それは戦前からのハンセン病対策を丸ごと温存し継承する意思表示でもあった。

※補足⑤
療養所では1995年までに1,551件の不妊手術が「当事者の同意によるもの」として実施された(国会図書館レファレンス816号岡村美保子氏論文より。)
 中絶は全期間の資料ではないが、1949〜1964の16年間の累計で6,516という数字がある(太田典礼著『堕胎禁止と優生保護法』より)。

※補足⑥
戦時中の帝国議会の審議内容を引用する理由は、優生保護法を批判する視点を2023年の現在に求めていないから。1940年3月の第75帝国議会の官報に刷られた会議録を読んでいれば、法案の出鱈目さに気づいたはずだと確信している。1947年から1948年にかけて国会議員であった人々にも。 了


考察71
国会会議録より
第一回国会衆議院予算委員会1947/11/10加藤シヅエ代議士による質問をnoteに掲載しました。一部差別的言辞が含まれていますので閲覧の際はご注意下さい。

考察72

提案理由説明(1947/12/1)の考察
※投稿番号は固定ツイのnote参照
全体は3部構成になっている。
A国民優生法批判    投稿番号1〜7
B優生保護法と人口問題の関係    8〜26
C出産育児を困難にする劣悪な生活環境   27〜35


承前
A国民優生法批判
投稿番号1〜7
批判の要旨
・出産の強要があること。→優生主義と『軍国主義的な産めよ増やせよ』の傾向の二面性が一つの法律に併存している。
・煩雑な届出制のため、優生手術件数が少ないこと。


B優生保護法と人口問題の関係 
投稿番号8〜26
要旨
優生保護法は日本の将来の人口に計画性を与えはするが、人口問題と結びつけて考えてほしくは無い。
→極めて難解な説明。前後のAやCの部分と比べるとその異様さは際立つ。  

C出産育児を困難にする劣悪な生活環境
投稿番号27〜35
この提案理由説明全体の中で、一番内容に一貫性があり、説得力がある部分。『今は子どもを産みたくない』という主張は、かなりの訴求力があるように思う。これが産児調節運動家加藤シヅエの本来の姿ではなかったのか。

この「提案理由説明」の内容がとても理解しづらくなっている原因は中盤のBの部分で、優生保護法案を人口問題と結びつけて捉えて欲しくないと不思議な弁明をしている為。おそらく同年11月10日の衆院予算委員会で過剰人口解決策で踏み込んだ意見表明をしたことへの反応に対処したものと思われる。

Bの妙な言い訳のおかげで、この「提案理由説明」の政治的意図が少し視えてきた。

元来、発議者にはこの法案を第一回国会で通過成立させる腹づもりは無かったのではないか。

委員会で法案の提案理由説明さえ行えれば、議事録に法案全文が掲載されて、報道される可能性も出てくる。

提案理由説明の目的は、先ず法案内容の徹底周知、次に法案への反発が予想される相手の出方を探ることだったのではないか。

反発の可能性を有した対象は
療養所自治組織
共産党
米国の宗教団体

反発が無い状況を見定めて、同年12月13日に1948優生保護法の本格的な立法準備が開始された。

優生保護法を推進した人々①
優生保護法ニツイテノ回答文①(国立公文書館デジタルアーカイブより)
1948/10/2   SeattleのHarry L.Carleより内閣情報局週報宛問い合わせ
1.Did any particular group support the measure?(優生保護法を支持した団体についての問い合わせ))

優生保護法を推進した人々②
優生保護法ニツイテノ回答文⑵(国立公文書館デジタルアーカイブより)

1948/11/17  内閣官房内閣事務官より連絡調整中央事務局第二部行政課長宛回答

一  優生保護法案を支持した特別の団体について詳細は不明である。

優生保護法を推進した人々③
海外からの問い合わせに内閣官房が返答したように、法案発議者が運営する団体を除いては、法案成立に向けて活動した団体組織は無かった。当時の政権や厚生省も国民優生法に代わる新規立法には消極的な姿勢を崩さなかった。後年、強力な利害者集団に成長する日本母性保護医協会(日母)は設立もされていなかった。

優生保護法を推進した人々④
当初のスジヨミでは、内務省保健衛生調査会の残党と終戦後息を吹き返した左翼・リベラル色の強い産児調節運動家グループとの結託ではないかと推理していたのだが、加藤や太田らが叩かれるリスクを冒してまでハンセン病療養所の断種法制化に固執する意味がわからなかった。

優生保護法を推進した人々⑤
太田典礼が月刊誌「現代の眼」に連載した(1979年)『独りだけの闘争』ー異端児の歩く日本左翼史には、旧知の加藤シヅエと二人で進めていた1947優生保護法立案作業の途中で、社会党大物参院議員Zの秘書を伴って福田昌子が現れ、共同提案に加わる経緯が記されている。

優生保護法を推進した人々⑥
顔の広い議員や秘書が、議員同士の関係を仲介すること自体珍しいことではないだろう。私が引っかかるのは、1940年に成立した国民優生法の委員会審議で病を押して法案通過に「尽力」したある代議士の親族が国会議員になるのだけど、そのZが指導する運動団体の幹部でもあった事実。

優生保護法を推進した人々⑦
優生政策が立法化される過程でZが関与した可能性があるのかもしれない。以前よりGHQの見解と同じ主張を戦前からしていた政治家Xのことに触れてきたが、ひょっとして戦後日本を優生社会に改造しようとしたプロデューサーは二人いたのかもしれない。全く想像できなかった発見。


Zの登場で正直動揺しています。それでも、Zのことを一から調べていけば手掛かりが掴めるかもしれないと考えています。この連続投稿は一旦これで終了しますが、資料を集めて何か共有できるものが発見できればまた再開します。今まで根気よく読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m。


国会会議録より
第一回国会衆議院厚生委員会第35号
1947/12/1
出席者 
理事
田中松月(委員長代理)
山崎道子
飯村泉
武田キヨ
大瀧亀代司
委員
太田典禮
福田昌子
松谷天光光
武藤運十郎
大野伴睦
小笠原八十美
榊原亨
河野金昇
斎藤晃
寺崎覺
委員外出席 
加藤シヅエ 

徳田球一は欠席

加藤シヅエ代議士が1947年の優生保護法案の提案理由説明を行った衆議院厚生委員会の出席リスト。

提案理由説明の後、質疑に立つ委員が全く無く、法案は審議未了廃案となる。

出席議員の中の社会党所属議員
田中松月 
山崎道子 
武藤運十郎 
太田典禮 
福田昌子 
加藤シヅエ

提案された優生保護法案にはハンセン病療養所入所者への強制断種が明記されていた。1940年国民優生法と同時に厚生省から提出された癩予防法改正案が廃案となったことにより、療養所の断種の法的根拠がない状態が続いていた。

新憲法に掲げられた基本的人権と抵触することは明らかだった。

問題は法案が説明された後、出席した委員から全く質疑が無かったこと。この法案自体は審議未了廃案となるが、翌年の成立を期して新たな優生保護法の立法作業がこの直後に開始され、1948年6月に可決成立する。この1947年12月1日の委員会で法案の人権蹂躙を指摘していれば流れは変えられたと思う。

当日の委員会に出席した社会党議員6名から法案の発議者3名を除外すると残りは
田中松月
山崎道子
武藤運十郎
の3名となる。
横山尊著「日本が優生社会になるまで」によれば、戦前の社会大衆党党首の安部磯雄はハンセン病者への断種の合法化を主張していたらしい。

田中、山崎、武藤に社会大衆党との繋がりがあったかどうかwikiで調べてみたら全員シロだった。武藤運十郎は楽泉園の重監房を告発する新聞報道を委員会で紹介して、調査団にも加わっている。田中も山崎も経歴を見る限り人権問題に熱心に取り組む政治家という印象。

この日沈黙したのは何故か?

共産党の徳田球一(厚生委員会理事)が当日の委員会を欠席したことも併せて、社会党議員が沈黙した理由がわかれば、戦後日本の優生政策が拡大強化されていった政治的背景が見えてくるように思う。

社会党内部に強力な統制が存在したのではないだろうか。委員会の沈黙は決定的な役割を果たした。

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