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ウィッシュについて

先日、ディズニー100周年記念作品の『ウィッシュ』を見ました。

しょっぱなからぶっちゃけます。
忖度一切なしの私から見ても、「これはひどい」内容でした。

これがディズニー最新の長編アニメーション作品……?噓でしょ……?とひどいひどいとの評判は事前にも聞きつつもちゃんと映画館で見ましたよ。まさか完全にシラフで見ても白目を向きたくなる内容とはね……。
ある程度、ディズニー作品を視聴していれば、余りにも書き込みが少なすぎる。周辺の背景が余り移されず、小物の書き込みが無さ過ぎて、キャラクター達のやり取りも殆どバストアップに頼り過ぎてました。
あ、スターとバレンティノはめっちゃ表現豊かで目を惹き続けました。小さくて可愛いものは正義です。

特に酷かったのは脚本ですね。
あらすじは分かり易かったけど主人公とヴィランの憧れから対立に至るまでの流れが雑過ぎです。
公開前からヴィラン役は決まってましたけど、実際見たら何故この王様が一方的に悪者として描かれているんだろう……と思いました。途中で闇落ちする気持ちはまあ分かるっちゃ分かる、けどその過程も雑過ぎです。
というか、主人公の主張を周囲が素直に受け取り過ぎ。掌返しが早過ぎ。お前らなんでそう簡単に反旗しちゃうのとマジで雑過ぎて途中で眠ってしまいました。
あ、歌は全部ちゃんと聞きましたよ。ミュージカルシーンはいつものディズニー感がありました。


ここまでだとほんと色々駄目だったねという感想で終わってしまうので。
わたくし、素人なりにこの作品の脚本を添削してみましょう。

※ここから先はほぼ妄想レベルの代物が書き連ねます。あしからず。


先ず、主人公アーシャを『魔法使いになりたい女の子』にします。
彼女の願いは『マグニフィコ王のような魔法使いになること』です。
はいこうするだけで王の弟子になれるか否かを面接するっていう序盤のストーリーに矛盾が生じませんね。

次に、アーシャは昔から独学で魔法の勉強をしていたが、魔法使いの素質はあっても殆ど魔法の使い方が分からない、下手っぴだった。という設定にしまして。どの道マグニフィコ王は彼女を弟子でなく、小間使いの一人として採用する心算だったと分かってしまう。

マグニフィコ王からすれば魔法使いになりたい『願い』なんてとんでもないことでょう。一番危険な反乱分子になりかねないから。法律(誓約)に従ってお前はまだ18歳じゃないから今回は見逃すけど、18歳になったらその『願い』を奪うからなとアーシャに宣言しちゃう。

此処で、先に18歳になって城仕えになった友達の一人が、以前の快活が見る影もなく腑抜けていた理由が分かってしまう。彼は立派な騎士になりたい『願い』を持っていた。『願い』を王に預けることの意味の本当の恐ろしさに漸く気が付いた彼女は城から怯えるように逃げてしまう。

夢破れたどころか、もうすぐ自分の『願い』が奪われそうになったことで絶望しかけたアーシャは、ふと亡くなったお父さんの話を、星には願いを叶える力があるんだよと教えられたことを思い出します。「この国は王に『願い』を捧げるけど、本来、お願いとは星に頼むものだ」という古来のディズニー(例:キノピオ、プリンセスと魔法のキスなど)を彷彿とさせる指針を提示します。

代表曲『この願い』を、スター召喚魔法として堂々と扱いましょう。
ここ重要です。
『この願い』は『ありのまま』と同じターニングポイントの歌です。
エルサは『ありのまま』を歌って氷の城を作って引きこもりました。
アーシャは『この願い』を歌ってキーキャラ/キーアイテムのスターと出会いました。
本編にてスター唐突に出てきたじゃんって感じになっちゃったのは、ちゃんと話にそういった伏線を仕込めなかったのが大きいと思います。
お父さんの話を深く掘ったり、アーシャ自身が魔法使いになりたいと強く願いながら、『星に願い』をブラッシュアップしただろう『この願い』を歌えば、スターが来てくれた件に運命力が上がります。

で、スターと出会えたアーシャは早速『私を魔法使いにしてくれ』とお願いしてみます。
スターはきっと軽いノリでいいよーと返事しながら、本編だと終盤に出してた魔法の杖をアーシャに与えます。
ちなみにスターちゃんのキャラクターは本編と特に変えなくても大丈夫です。ジーニーとかと違って単体でノーリスクハイリターンなスターは単体で見れば万能キャラ/アイテムと断言されます。
だから、リスクそのものをアーシャに付けるのです。
アーシャは魔法使いに憧れつつも、魔法使いとしてはド素人。試しに魔法の杖を使っても暴発しまくってしまいます。それをスターはクスクス笑いながら見守ります。悪気は全くありません。
バレンティノがスターの粉で喋れるようになる件は変えなくてもいいでしょう。ツッコミ役orノリ役が欲しいし。

一方マグニフィコ王は突然のスター襲来と自分以外の魔法使いが現れた件におったまげます。ここは本編と変わらず。

アーシャは魔法使いになって勝手にみんなの『願い』を叶えようとします。はいこれだけでドラマ性も上がりますね。まだ18歳になってない子供達の『願い』を中心に魔法で色々やらかして、先の暴発の演出も上手く活かせばコメディにして、スターや喋った動植物以外のマジカルファンタジー的な絵面も増やせたでしょう。

当然ちょっと待てい!するマグニフィコ王。いきなり国内に現れた、かつ好き放題する素人魔法使いアーシャの存在に怒り心頭。しかも彼女を魔法使いにしたスターの存在を知って更に激おこカムチャッカ。自分は長年努力して漸く習得した魔法で自分の理想の国を作ったのに、こんな星と小娘に滅茶苦茶にされて堪るかー!と禁書に手を出してしまいます。

アーシャもアーシャでスターに与えられた力だと忘れて増長してしまうことでしょう。どうせならおじいちゃんお母さんの『願い』を取り戻そう。(※既におじいさんの『願い』の内容を知っているなら、魔法使いになれたアーシャが自分の魔法で叶えさせるのかもしれない。当人は王に預けたままで忘れているのに)。ていうかマグニフィコ王が叶えてくれない『願い』なら彼に預ける意味ないよね。私が全部取り戻すわ!と意気込みながら王城に突撃します。

こうしてチート存在スターによって魔法使いになったアーシャと、封印されし禁書の力に頼らざる得なくなったマグニフィコ王の対決の火蓋が切られるのであった……。

……アレ?ここまで書いたら、ヴィランってマグニフィコ王じゃなくて、スターになるのでは?

ま、ええか。

要するに、『王のような偉大な魔法使いになってみんなの願いを叶えまくりたい夢見がちの女の子がわがままを貫き通し、現実も世間もよく分かっている大人である王が犠牲を払ってでも止める』っていうストーリーで良かったと思いますよ。
勧善懲悪ではないっていうか、正義vs正義の構図になりますが子供は割と楽しめそうです。夢見がちな子供ほど純粋にアーシャを応援するものですよ。


私がこの作品で重要視するのは、『願いとは、本当に大切なものなのか。願いは人の手で叶えて良いのか』という問いかけだと思います。
王は叶えられない/叶えきれない『願い』を何故集めるのか。本編中の描写から、魔道具の素材にしていましたね。おそらく彼らの魂の一部らしい『願い』で王自身の魔力回復から魔力強化をしているのかな。

ワンピースにビックマムというキャラクターが居ますが、彼女も巨大な王国の女王であり、そこの住民にはある周期で寿命を一ヵ月渡すという税を納めさせています。渡された寿命はこの世界での彼女の魔法によって無機物/植物に命を与えては彼女の従魔を増やしていました。
それと同じことをマグニフィコ王はしていたんでしょうね。
こう言った例とか、本編で具体的な『願い』の使い方が説明されてなかったのは痛い所の一つです。

願いって夢に直結するものですよね。俗っぽくすれば欲求、欲望です。
叶うかどうかは、現実的な問題等の外的要因も大きいですが、結局その人の器と努力に釣り合っているかなんですよ。
空を飛びたかったら、先ずは飛行機に乗ってみよう。鳥のようになりたいなら、スカイダイビングに挑戦してみよう。
船長になって大きな船の舵を握ってみたいなら、先ずは船乗りを目指してみよう。船のことを勉強してみよう。
作家も、歌手も、演奏家も、先ずは書かなきゃ、歌わなきゃ、楽器を手に取ってみなきゃ何も始まりません。

だからこそ、マグニフィコ王にしてもアーシャにしても、抑々他人の手で魔法の力で簡単に叶っていいの?っていう疑問が終始出てくるんですよね。
今までのディズニー作品の人達だって、魔法の力はあくまで背中を押してくれるものであって最後は必ず自分の力で自分自身が選択していくんだよね。その上で成功するか、破滅するかという明暗もちゃんと提示される訳で。

だからこそ本当に勿体無い、脚本で台無しにしてしまった作品なんですよね。幾らでも面白く出来た筈なのにね。

今回は以上です。

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