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【小説】MAMA2(同人誌「深青」3号掲載)

先日「MAMA」という短い小説を載せましたが、実はこのお話には続編というか、アンサーソング的な物語があるんです。ニコイチなので、ここまで読んでもらって「完結」だなぁと思うので、2の方もnoteに載せておきますね。2とついていますが、こちらを先に読んでも大丈夫です。「MAMA」の方を未読の方、読み返してからにしようという方は記事貼っておくのでこちらからどうぞ!
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   『MAMA 2』


 あー、うるさい、うるさい、うるさい、うるさい。
 隣家の子供がわめき散らす声に、一体何を思うだろう。例えば真夜中の一時過ぎ、子供の、ほとんど叫びに近いような泣き声が聞こえてきた場合に、真っ先に浮かぶ言葉は「うるさい」で間違いないのだけれど、苛立ちが頭の中で熱を持つ前に、もう一つの冷えた感情が浮かんできたりはしないだろうか。私はする。
 この声は何故。
 アパートの、厚いとは言えない壁の向こうからは、ホラー映画さながらの泣き叫ぶ声が聞こえている。隣の家のこの子供は、もう夜泣きをするような赤ん坊ではない。幼稚園とか、いやもしかしたら来年は小学生だとか、そんな年齢ではなかったか。男の子だ。小さくて、細い。くりんとした大きな瞳は、母親に似ているのだと思う。
 仕事のない日の昼間に、たまに母親と子供が一緒に居るのを見かけた。服の間から覗く腕や足が、子供であることを考慮しても細すぎる、というのが最初の印象だった。母親は、私とさして変わらない年齢……三〇歳前後だと思う。瞳が大きくて、太ってはいないのだが頬がふっくらとして顔が小さくて、どこか幼さのある顔立ちだった。多分、美人と言われる類の顔の作りなのだけれど、全体に影があって、何だか近寄りがたい。母親も子供も明らかに傷みのある服を着ていて、そういうところから感じる貧しさのせいなのか、元々の彼女の性格の暗さなのか、あまり幸福を感じさせない雰囲気があった。
 こんにちは。
 挨拶をすると、母親は決まって困ったような顔で会釈をする。きっと、綺麗な服も着せず、やせ細った子供を連れて歩いている自分がどう思われているのか、怖いのだろう。子供の方は、そんな母親とは打って変わって朗らかだ。少しはにかんだ様子の笑みを浮かべて、「こんにちは!」と弾んだ声を返してくれる。母親の元気のなさを補うようなその明るさに触れていると、少し罪悪感から逃れられるような気がした。
 そう、罪悪感だ。私は二人を見かけるたびに小さな罪の意識を抱いていた。明らかに何か問題があるとわかる子供の様子。どことなく気まずそうな母親。時折聞こえてくる怒声と泣き声。往々にして遅い時間で、罵る声は女のものではない。そういうことから導き出される可能性について、私は彼女自身に問いかけることをしなかった。代わりに虐待が行われているかもしれないと匿名で電話を入れた。下手な立ち入り方をするよりも、専門家の力を借りるのが得策だと思ったからだ。しかしそのことによって何かが改善したのだろうか。一時的に少し落ち着いた時期があったかもしれないが、今はまた相変わらず、夜でも怒鳴り声がする。床に何かを叩き付ける音。皿か茶碗か、何かが割れる音。
 私はこの、隣の家の主人である男を見たことが何度かある。アパートだから、どうしたって時々は帰宅のタイミングが重なったりするものだ。彼は、少し神経質そうな尖ったオーラをまとってはいるものの、ごく普通の会社員に見えた。良いものだと思われるスーツをまとい、くたびれた様子もなく、姿勢よく歩いて行く。アイドル的な美形ではないが、それなりに整った顔立ちで清潔感がある。仕事もうまく行っているんだろうな、という堂々とした様子で、私にはそういうところがかえって不審に思えるのだった。あの彼と、あの母子が一緒に暮らしている。その取り合わせの奇妙さは、いつも喉の奥に刺さった小骨のように違和感と焦りを私に与えるのだった。
「あの」
 母親と子供を見かけ、ふと声をかけた。買い物帰りなのか、ビニール袋を手にしている。母親は警戒するように私に怯えた目を向け、「はい」と小さく答えた。
「お隣だし、何か困ったことがあったら言って下さいね」
 私はなるべく何でもないことのようにそう言った。この言い方は、彼女の家庭に問題があることを指摘しているように聞こえてしまうかもしれない。そういう焦りがあって、声は普段の私からするとおかしいくらいに明るくなっていたと思う。
「私は独身だから、あまり小さい子供と会う機会もなくて淋しいんですよね。良かったら、お子さんと遊びに来たりして下さい」
 そういう私の言葉は、彼女にどんな風に聞こえたのだろう。母親は相変わらず困ったような顔で、私の言葉に曖昧に頷いた。余計なことを言ったかもしれない。面倒な隣人だと思われて、かえって彼女を孤独にするのかもしれない。そういう考えがよぎったが、どうすることもできずに私はただ笑っていた。笑って、じゃあ、と手を振った。母親が無言で会釈して、子供の方は手を振り返してくれた。
 そう言えば、あの子の名前も私は知らない。そんなことにふと気づく。

 私はどちらかと言うと、子供が嫌いだった。落ち着きなく駆け回ったり、その辺にあるものを勝手に触ったり、その結果壊したり、所かまわず叫び声をあげたり、高い声で笑ったり、叱られれば泣きわめき、暴れたりする。そういう子供に振り回されるように、オロオロしたり、頭を下げたり、慌てて何かやっている母親の姿にもあまり良い印象を持たなかった。恋人はいる。それなりに長く付き合っていて、まぁ悪い相性ではないと思う。時々は彼も家に来る。共にいて落ち着くこともあるけれど、これが三六五日続くのかと思うと喜びよりは煩わしさを先に感じてしまう。まして書類を出して契約を交わして夫婦になることなど、面倒ごとが増えるだけ、という気がする。
 子供ほしくないの?
 結婚はどうでも、と言うと必ず言われるのがこの言葉だった。全然。私はいつもそう答える。彼も常々、俺は親になりたくないと言っていた。多趣味な人で、良いカメラを買ったり、自転車で遠出したり、マニアックな映画を見に小さな映画館に行ったり、そういうことが大好きで、俺はこれからも自分の趣味のためにお金と時間を使いたいから、全然子供のいる生活には憧れない。そう言い切っていて、そういうところが私たちはとても気が合った。
 そんな私が、子供といる。
 私は不思議な気持ちで目の前の光景を眺めていた。
 翔くん。隣の家の、小さな子供はそういう名前だった。彼は今、私の向かいに座り、私のカラーペンを使って絵を描いている。絵は私の趣味の一つで、我が家には七二色のペンセットや一〇〇色の色鉛筆がある。ずらりと色が並ぶそれが面白いようで、少し絵を描いてはペンを変えてまた描き出す。面白いな。一つの絵の途中で、色を変えて、不格好な線になるのも気にしないで続けていく。そういう自由なやり方が、大人の私にはもう難しい。子供がいる幸福について私は良く知らないけれど、多分こういうところがその一つなんだろう。嬉しそうにペンを取りかえる翔くんを見て、私はそんなことを考えた。
「ありがとうございます」
 翔くんの傍らに腰かけた母親が頭を下げる。彼女が朝美という名前であることもようやく知った。私は首を横に振る。いいの、楽しいし。そう答える。本心からの言葉だった。
 良かったら遊びに来て。
 そう声をかけた時の微妙な反応通り、彼女はすぐには私を頼ったり遊びに来たりはしなかった。姿を見かけることもないまま数週間が過ぎ、そこからどういった心境の変化があったのか、今日チャイムが鳴って、出たら二人が立っていた。
「翔と遊んであげてくれませんか。お願いします」
 午前一〇時過ぎだ。私は少し驚いたが、ちょうど仕事も休みで、一通りの家事も終えてのんびりしようと思っていた時間だ。ある意味、良いタイミングとも言える。いつもは暗くうつろな目をしていた彼女が、今日はどことなく明るい表情をしていて、私は少し安心して二人を部屋に招き入れたのだった。
 朝美さんはやはり、私と一つしか違わない年齢だった。いつ会ってもどんよりと沈んでいた顔が今日は血色も良く晴れやかで、彼女はその理由を口にはしなかったし私もあえてそこには触れなかったが、例えば家を出ることや、何かしらあの夫に抵抗することなど、何か前に進む決断をしたんじゃないだろうかと思わせる雰囲気があった。
 翔くんの、服から覗く腕も以前に見たよりもふっくらしているように感じる。時々痣を作っているのを見たことがあったが、今日はそういうものもなく、私は少し安堵した。洋服も、色が落ちてくすんでしまった、首元がだらりと伸びた傷んだTシャツなんかをよく着ていたけれど、今日は新品のように綺麗なものを着ている。
 良かった。
 そんな言葉が浮かぶ。翔くんはまたペンを取りかえて絵に色を足していく。良かった。子供が元気な様子というのは、こんな風に落ち着くものなのか。楽しそうにしている子供を見るというのは、こんなにも心が満ちるものなのか。私は思いの外、胸いっぱいになっている自分に少し驚いた。ここから二人は、きっと変わっていける。きっともっと幸せな暮らしに向かっていける。白いノートにお絵描きを続ける翔くんの、くりんとした透き通った目を見ているとそんな希望が見える気がして、私はふいに泣きそうになった。
 そんな自分の顔を隠すために立ち上がる。リビングを出て二人に背を向けてから涙をぬぐって、それから自分の机から、この間買ったばかりの小さめのスケッチブックと、あまり使っていない二四色入りの色鉛筆セットを手にして戻った。
「これ、翔くんに」
 差し出すと、朝美さんは慌てて首を振る。
「そんな」
「いいの、見るとつい買ってしまって、多すぎるくらいだから」
 私は苦笑しながらそう言って渡す。朝美さんは、少しとまどいながらも、小さく頷いて受け取ってくれた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「私、もっと早く、翔に好きな事させてあげたかった」
「これからさせてあげればいいじゃない」
 私はスケッチブックを軽く叩いて、「ね、いっぱい描かせてあげて」と言った。朝美さんは、込み上げるもので言葉が出ないようで、ただ、うん、うん、と噛みしめるように頷いた。
「そろそろ、お腹すいてきたでしょう。何か作ろうか」
 言って、何があるかなと冷蔵庫に向かう私を、朝美さんが呼び止める。そろそろ行きますから、と首を振る。お昼ぐらい、と言ったが次の予定があるからとやんわり断られた。
「翔、これいただいたのよ」
 そう言って朝美さんが差し出したスケッチブックと色鉛筆に、翔くんが、わっと飛びつく。
「いいの?」
 きらきら。そんな風に形容される子供の目が、自分にまっすぐに向けられることが少ないから、私はその眩しさに戸惑いすら覚えてしまう。こんなに純粋に、喜びを味わえるなんて。そんな感受性豊かな存在が、恐怖や痛みを覚えることはどれほどに苦しいことだろう。
「いいんだよ、いっぱい使って」
 私が言うと、翔くんは、嬉しそうにぎゅっと胸元にスケッチブックと色鉛筆を抱き寄せた。朝美さんはそんな彼の様子を、喜びと、それだけではないどこか苦しげな眼差しで見つめていた。
 玄関先で二人を見送る。
「また遊びに来て」
 そう言ったけれど、朝美さんは少し困ったような顔で、曖昧に頷くだけだ。二人はもう、このアパートからは離れてしまうのかもしれない。そうだとしても、仕方のないことだ。
「本当にありがとうございました」
 朝美さんが深々と頭を下げる。私は軽く首を振った。
「じゃあ、行きますね」
 そう告げる顔は、言いしれない寂しさがあった。満たされたように、納得したように笑みを浮かべているのに、それでもどこか哀しい。私は、もっと早くこの人に声をかけるべきだったのではなかっただろうか。ふとそんなことを思う。朝美さんが翔くんの名を呼んで、彼が嬉しそうに母親の手を取った。そうして二人手をつないで、もう一度軽くお辞儀をした。
 隣に戻るものとばかり思っていたのに、二人はそのままくるりと後ろを向く。
「え」
 思わず声が漏れる。
「もうあの家には帰らないんです」
 朝美さんはそうきっぱりと言った。顔は見えない。凛とした声が、彼女の迷いのない想いを伝える。でも、荷物とか。浮かんだ思いは、しかし声にならない。彼女の手には何もない。鞄一つ持たず、掴んでいるのは子供の手だけだ。
「じゃあ」
 不思議な現象だった。私の前でそう告げられたはずなのに、声は耳元でささやかれたように聞こえた。耳の形に添って音が流れ込む。息遣いまではっきりと伝わるようなその声が、私の体の中に静かに落ちて広がる。
 一瞬。一秒。そんな時間のはずなのに、もっと長い永い時間に触れたようなねじれがあった。何だ、この感覚。そう思った次の瞬間には、朝美さんと翔くんの姿は消えていた。

 二人の死は大々的に報じられ、アパートには少しの間、マスコミが押しかけた。あの後、私は慌てて隣の家の呼び鈴を鳴らしたが反応がなく、大家さんに連絡を取って部屋を確認してもらったのだった。そうして三人が倒れているのを見つける。救急車は来たけれど、助かる可能性がほぼないのはわかっていた。
「息があるぞ!」
 そう声が上がって、でもそれで急いで処置を取られたのは、あの父親だった。虐待をした上に、自分だけが生き延びた。そういう報道が続いたこともあって、匿名の掲示板やネットニュースのコメント欄では、入院した彼の死を願うような声すら上がっていた。でも結局彼は回復をし、この世にとどまった。
 どうでもいい。
 アパートにやってきたマスコミからマイクを向けられることが時々あったが、私は口を開く気にならなくて何も返さなかった。想いが何もない訳ではなかったけれど、込み上げる感情はあまりに複雑で、それをほどいて短い言葉にするのは私には難しかった。ぽつぽつと何かしらの想いが浮かぶことはあったが、その中に父親のことは一つもない。あの男のことは、一番どうでも良かった。
 もうあの家には帰らないんです。
 そう告げる、朝美さんの凛とした決意のこもった声を思い出す。あの男は生き延びたんじゃない。この世に捨て置かれたのだ。あの二人と同じ場所になんか行ける訳がない。仕事も家族も失って、世間から激しい批判にさらされながら、うまく動かなくなった体で地獄に似たこの世を生きて、それから死んだら本物の地獄に落ちればいい。
 私はずっと絵を描いている。空白が恐いからだ。
 頭を使いたくないから模写ばかりだ。仕事に行く。絵を描く。美味しいものを食べる。絵を描く。そうやって埋め続けている。余計なことを考える時間が生まれると、呑み込まれてしまいそうだった。時折恋人がやってきて、私を励ますでも慰めるでもなく一緒に絵を描いてくれる。絵心のない彼の描く絵はまるで子供の落書きだけれど、いびつな丸も、不安定な線も今は愛おしい。そうだ、絵なんか好きに描けばいい。私はカラーペンを何本も使って、好きに色を付けてみる。それでも心に沿う絵は描けなくて、ああ、思いのままに好き勝手に色を楽しめる子供の感性って素敵だな、なんて考えてしまう。もう一度、翔くんがカラーペンを全色使う勢いで楽しく描いていたあの絵を見たいと思ったが、絵はどこにもなかった。
「生まれ変わりって、あると思う?」
 そんな問いを恋人に投げた。彼は自分の意見は言わなかった。けれど前世の記憶を持つ人がいたことなどをのんびりと話してくれる。そんな話を聞いているといくらか気持ちが落ち着いた。もう来世だとかそんなものに期待するほかに、どこにも救いがない気がして、私はひたすらに複雑な構図の宗教画を模写し続けた。
 無心に描き続けていると、ふと、向かい側に同じように誰かが座り、夢中で絵を描くのを感じることがある。そういう時、私は顔を上げずに描き続ける。 
 もしも輪廻とかそんなものがあるとしたら、また私の近くへおいで。そうしたら今度は、もっともっと一緒に遊ぼうね。



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