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『浮世の画家』カズオ・イシグロ ①

『浮世の画家』は、ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロが、1986年に英国で発表した長編小説です。(英題は『An Artist of the Floating World』。)

舞台は戦後の日本。太平洋戦争が終わり、あらゆる価値観が変わってゆく時代に、それに翻弄される或る老画家を描いた作品です。

戦中、画家・小野は日本人への「戦意高揚」的な作風で名を成しました。やがて敗戦を迎え、焼け野原の町で、小野は過去の自分の画業について複雑な思いをいだくようになります。
それは、「徹底的に過去を否定する」というものでもなく、あるいは「過去のすべてを受け入れて、諦観の境地を生きる」というのでもない。その点が、イシグロの描いた小野のすごく“人間らしい”部分だと思います。

小野の悩みの中心には、娘の存在があります。
小野にはふたりの娘がいて、姉の方は嫁入りを済ますのですが、妹の方の婚約がぎりぎりになって破棄されます。それは小野が思うに、「自分のやってきた仕事」のせいだと。

小野が自らの作風を確立するまでには、「世の中に影響力のある画家になりたい」という純粋な夢がありました。その夢に真摯に、そして懸命に向き合った結果、師や友を失う経験もして、彼は確固たる地位を築きます。

作品そのものに胸を張れる時代は終わりました。しかし、小野は自らのもちつづけた信念、画業にたいする誇り、そういったものを完全に棄て去ることはしません。

過去を受け入れて、いわば「開き直って」生きること、それに限っては、実は簡単なことなのかもしれません。しかし、自分の過去が他人、よりによって大切な娘の未来にまで悪い影響をもたらしている――そこに、小野の悩みの本質はあります。

ふたりの娘、そしてかわいい孫。彼らの存在が、小野の信念や誇りの向こう側にあります。「自分のやってきたことで、大切な人たちの未来に迷惑をかけてしまうかもしれない」という不安。そして、一方では、がらりと変わる世の中の無節操に対するやりきれない思い。

ところでこの作品には、クライマックスとよべるようなシーンがはっきりとはありません。静かに、淡々と、過去と現在が行きつ戻りつ、語られます。

そうして物語は進行し、小野の悩みは、次女の結婚と、愛孫のたしかな成長によって、徐々に小野を解放してゆきます。

それとともに、「お父さんは考えすぎ」という長女の指摘は、実は本作の本質を突いた言葉であることがわかります。つまり、「世の中に影響力のある画家になりたい」という夢を叶え、そしてそれがいつまでもつづき、そのことによってマイナスの影響が小野の周囲に生じている。でもそれは、実は老画家の思い込みであって、意外と世の中は、良いことも悪いことも忘れて、小野の画業をすでに過去のものにしてしまって、未来に進んでいるんだよ、という指摘です。

【→②につづく】

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