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『浮世の画家』カズオ・イシグロ ②

物語の終盤に、小野の戦前からの知己・松田は言います。

「きみやおれみたいなのが昔やったことを問題にする人間なんてどこにもいない。みんなおれたちを見て、杖にすがったふたりの年寄りとしか思わんさ」

「気にしているのはおれたちだけだ。過去の人生を振り返り、そこに傷があるのを見て、いまだにくよくよ気に病んでいるのは、世の中できみやおれみたいな人間だけだよ」

と。

あきらめでも開き直りでもなく、また強引な思い込みでもなく、小野が達するのは、現実に対する、ささやかな悟りの境地です。

過去への信念や誇りを胸の内にたしかに秘めながら、けれど未来を楽観的に、そしてこれからの世代に期待して生きてゆく。小野や松田は終戦という重すぎる出来事を、「考えすぎだよ」といわれて、笑いながら、静かに乗り越えたのです。

人の悩みのほとんどは、ひょっとするとこの「考えすぎ」からきているのかもしれません。世の中は、――たとえば戦後すぐの日本がそうだったように――悩んでばかりで立ち止まる人にペースを合わせてくれるほど、悠長ではないのです。

小野は、自分の悩みの核であった、娘や孫の未来を直視し、彼らのために(画家としてではなく、家族として)懸命に奔走します。そしてそのことによって、自らの未来に対する希望をも手にするのです。
それは、戦後という、かつてないほどダイナミックな時代とともに、老画家が新しい人生を歩き出した瞬間といえるでしょう。

「浮世の画家」は、こうして「ただの人」になりますが、そこには解放感と達成感と安堵感……、さまざまな明るい兆しが満ちあふれています。

爽やかな読後感とともに、本を閉じることができました。

カズオ・イシグロの偉大な仕事に、――たとえ時代が変わっても――拍手が送られつづければよいなと思います。


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