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あいまいの美学〜その「主語」はだれだ?〜【エッセイ】

 あいまいにしておくことの美徳と罪の重さの狭間で、われわれは生きているのかもしれない――仕事の帰りみち、京王線の電車を待つ駅のホームで、ふとそんなことを思った。月あかりの冴えわたる立冬の夜は、コートを羽織らずとも出歩かれるあたたかい気候だった。

 われわれというのは、ざっくりというとわれわれ「日本人」を示す。あいまいであること、あらゆることに於いて〝白黒はっきりさせない〟ということ、それは日本人が作りあげた日本文化の根幹を成す価値観ではないかと思う。

 暦のうえで冬が歩みはじめたきょう、なぜそんなことを思ったかと問われると、……はてどうしてだろう。仕事で上司に不満をいだいたわけでもなければ、「あいまいな」他人やなにか具体的な問題に出くわしたわけでもない。(出くわすことは多々あるが。)あたたかな冬の夜に吹きわたった一陣の寒風が、疲れた頭に無為なひらめきを落としていったようだ。――詩的な表現に逃げるのは、じつに「あいまいな」僕のよくないところである。――

 日本の冬を描いた文学作品といえば、まっさきに『雪国』を思い浮かべる。言わずと知れた、川端康成の名作だ。なんど読み返したことだろう。

 その冒頭の文章は有名だ。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 川端のノーベル文学賞受賞時のスピーチのタイトルが「美しい日本の私」であったように、この一文、そしてこの文にはじまる一連の描写、すべてがとても美しい。

 『雪国』の英訳をつとめたのは米の日本学者、エドワード・ジョージ・サイデンステッカー氏だ。『Snow Country』と題された訳文を冒頭から読んでみると、おもしろいことに気付かされる。

The train came out of the long tunnel into the snow country. The earth lay white under the night sky. The train pulled up at a signal stop.

 英文では「汽車(The train)」という主語がまず頭にある、ということが重要だ。トンネルを抜け、雪国へ辿り着いたのは「汽車」であり、「私(I)」や「彼【島村】(He)」ではない。汽車は物語の主人公・島村を乗せているが、その説明は省略したうえで、トンネルを抜け、雪国(snow country)へ着いたのは汽車(The train)なのだということを「はっきり」させている。

 一方で、原文の一文目には主語が省かれている。三文目になってはじめて、雪国へ辿り着いたのは、そのとき信号所に止まった汽車だということがわかる。その汽車には島村が乗車している。つまり、一文目の主語は「汽車」でもあるが、「彼(島村)」でも成立するということだ。英文の三文目にはThe trainがふたたび登場する。

 すべての文が主語をもつということが英文法のルールであるだけに、英文による表現はそれだけ具体的になる。明快なルールに従って書かれた文章は、より説明的な性質を帯びるものである。

 かたや日本語の表現は「主語の省略」が可能であるだけに、話を「わかりにくく」し、「あいまいに」してしまうことができる。すなわち、文の解釈に幅が生まれてしまうということだ。

 では、川端の原文が《「汽車が、」国境の長いトンネルを抜けると、「汽車が辿り着いたのは、」雪国であった。》というふうに書き改められるべきだったかというと、もちろんそんなことはありえない。あってはならないだろう。川端原文がこうであるべき根拠は、それが日本語の文として、考えられるかぎり「もっとも美しいから」に他ならない。

 日本人の美意識は、わかりやすさや具体性をないがしろにしてまで、ひとつの文体に対しても貪欲に働きかける

 ところがそんな日本人のあいまいさは、ビジネスや政治の場面においては、かなり致命的な弱味となるだろう。すくなくとも大きな信頼を得られるという期待はそうはできない。もしも「責任の所在の不明確さ」や「主体性や説得力に欠ける」などと揶揄されるならば、その原因はきっとわれわれの根深い美意識と、独自の国語の性質が背景にあるのではないかと思う。なにせ、国境の「トンネルを抜け」たのが誰〈なに〉であるかさえ、明記しない美意識を覚えてしまった国民なのだから。

 昨今の日本社会に現出したさまざまな歪みは、そんな「あいまいにしておく」という態度への、日本人の長年の信頼が招いたものではないだろうか。日本人の、世界に誇り高い一流の美感(僕はそう思う)には、同じく日本人の弱味が表裏一体となって隠されているようだ。それをどう扱うべきか、われわれの未来の議論はそこからはじめてみるのもいいかもしれない。

 さて。京王線の電車がやってきた。

 霜月のはじめの今頃は秋なのか、冬なのか、非常にあいまいな時季である。車両から降りてきた背の高い中年男と、すれ違いざま肩をぶつけた。どちらが悪いというのでもないので、僕はあいまいに会釈を返した。車中にはあいまいな意味あいの雑誌広告が吊るしてあって、それをあいまいな顔をしたスーツ姿の男が見るともなく見ている。――あいまいにしておくことの美徳と罪の重さの狭間で、われわれは生きているのかもしれない。――だれよりもあいまいな疲れた顔をおそらくして、夕食はなににしようかなどと考えながら、僕は夜の闇のなかに溶けてゆく、あいまいな街の輪郭を、車窓からぼんやりと見つめていた。

〈終わり〉

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