短編「『悲しき雨音』を雨の日に聴くということ(もしくはそのとき浮かんだひとつの想念)」

 選んだディスクの18曲目には、カスケーズの『悲しき雨音』(原題:Rhythm of the Rain)が収録されていた。そのディスクは、いわゆる〈オールディーズ〉とよばれる、米英の古きよき音楽のアンソロジー、コンピレーション・アルバムの一枚だった。三枚組CDアルバムの数ある収録曲のなかから、僕はこの『悲しき雨音』を偶然(それはほんとうに偶然)見つけ出し、いままさに再生しようとしていた。雨の日にいかにもな選曲をしてしまう自分自身に、この店の店長兼ディスク・ジョッキーとして僕は無邪気にはにかみながらも、それでも再生ボタンを押すことにためらいが生まれなかったのは、それはやっぱり「きょうが雨の日だから」というほかないのだろう。僕は「18」にトラックを設定して、オーディオの再生ボタンを押した。

Listen to the rhythm of the falling rain
Telling me just what a fool I've been.
I wish that it would go and let me cry in vain
And let me be alone again.

訳:雨音を聴いているとさあ
  僕の馬鹿さかげんが身に沁みてくるんだよ
  ただ、泣かせてほしいんだ
  そして僕をまたひとりにさせてくれよ

 心地よさそうに禿頭を前後にゆすっている老紳士は、眠りはじめたのかと思いきや、どうやら瞼の向こうにかれ自身の青春時代を追想しているようだ。鮮やかに血色のよい唇が歌詞にあわせて微かに動いている。それはもしかすると、僕の期待が、カウンター越しの遠目の僕に見せた錯覚かもしれないし、もしくはそうでないかもしれない。『悲しき雨音』は部屋をつつみこむようにオーディオから溢れ出し、またここにいるみなの意識のなかにかくじつにとどいていた。それだけで安直すぎる選曲にも甲斐があったと、僕はほっとした。

逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり

 ふと『拾遺集』のその歌が、文言としてではなく、まったくの想念として、僕の心に息づいた。それは僕が偶然『悲しき雨音』を見つけ出したように、偶然、記憶の書棚からこぼれおちた一首……ではなくて、この日この瞬間の必然性から生じた想念に、権中納言敦忠の歌がしかるべき輪郭を与えた、僕自身のかぎりなくオリジナルな発想――と、いってしまうのはすこし大げさだろうか? とにかく僕は『悲しき雨音』を聴きながら、「百人一首」のその歌を心に浮かべていたのだ。逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり。

 それぞれにばらばらの思い出や想念や、少しばかりの(そしてこの場かぎりの、刹那的な)快楽を、僕の選んだ『悲しき雨音』という古い歌がひとつのパッケージにして、僕のお店の電飾や装飾といっしょに、店内を心地よくいろどっていた。そしてそれは僕や、老紳士や、ほかの数少ないお客さんの意識のひだをそっと、やさしくなでて、しずかに鳴っていた。

 ほんものの雨音も、音楽といっしょに、そしてそれを邪魔せぬ慈悲深さで、オーディオの奥から、エイトビートの間隙から、たしかに聴こえてきていた。あすの明け方まで雨は止まない予報である。とにかくきょうは格別な日だと、僕はちょっとばかり得意になって、そう思った。〈終わり〉

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