小林賢太郎はラーメンズでなぜ情報不足なコントをつくったのか。小道具、セット、衣装替え、BGM、特殊効果もないアナログの世界で観客はなぜ笑うのか

はじめに

小道具なし、セットなし、衣装替えなし、BGMなし、特殊効果なし。体2つでよくやったって言われたいのがまずラーメンズのそのものの企画書ですから。それができてはじめて小道具とかセットとか使う権利があるのでないかと。自分にはそういう枷を作ってラーメンズってのをはじめました。(『BUZZ』 ロッキング・オン 401 2002/9/17)

 小林は「枷」という言葉を使い、自らの作品の作り方を語ることが多い。

 ここでいう枷とは、コント自体の長さや公演の枠を決める時間だけでない。
小林は、ラーメンズのコントを作る際”セット替えも衣装替えもない、小道具一切なし、音響も使わず、十分面白いものを作れ、という命令を、自分にするんです。それで、からだふたつでできることはなんだろう、というところから始める”のだという。

 そうしてできた作品は、何もない(あっても箱程度)シンプルなステージで繰り広げられる。にもかかわらず、緻密な状況描写と、巧妙な台本、2人の絶妙に保たれたちぐはぐな関係によって、観る者は知恵熱を伴った、ある種無防備な笑いを引き起こされる。
「ラーメンズ」のセットは限りなく何もない状態に近いが、その中に情報があるとしたら、ふたりが動くことによって何かが見えてくるのだ。

本稿では、情報不足のコントを作った作家小林の意図を考察する。

まず、小林が情報不足な世界を作った理由として、以下の3つが考えられる。
①目の前の観客を楽しませるという信念を実現するため
②耐久性のある作品をつくるため
③表現者として成長するため

以上3つの項目について、過去インタビューをはじめ小林の作品も踏まえて小林がなぜ情報不足のコントを作ったのかを考察していく。

目次
はじめに
第1章 クリエイターとしての覚悟
第1節|「目の前の観客を楽しませる」という信念を実現するため
1.1.1|小林が舞台を中心に活動する理由
1.1.2|情報制限によって積極的な観客を作り出す
第2節|予備知識がいらない笑い
1.2.1|情報制限によって観客なパーソナルな部分に入り込む
1.2.2|笑うために欠かせない図式はどのようにつくられるか
1.2.3|セリフは一行でも少なく
1.2.4|単純なルールから「驚き」や「発見」を見せるということ
1.2.5|道具を使わずに世界を作り上げる
1.2.6|らしさの笑い
1.2.7|「夢」を作る故にダメを笑う行為を制限する1.2.8|芸術における"封印"
第3節|耐久性のある作品をつくるため
1.3|アナログで作る理由
第2章 プロとしての覚悟
第1節|表現者として成長するため
2.1|表現力を丁寧に鍛えていく
2.1.1|芸で食っていくためには憧れよりも覚悟
2.1.2|日常で見応えをつくる
まとめ

第1章 クリエイターとしての覚悟

第1節「目の前の観客を楽しませる」という信念を実現するため



小林が舞台を中心に活動する理由

その前に、確認しておきたいのが、小林の活動が舞台中心ということ。
なぜ、小林賢太郎は活動の舞台を劇場に絞ったのか。小林の著書『僕がコントや演劇のために考えていること』で次のように書かれている。

そもそも、僕がやりたかったのは「自分の作品で目の前のお客さんを楽しませる」ということでした。…(中略)そして、その場で結果が出る「舞台」というフィールドにしぼることにしました。舞台はナマモノ、あとから加工なんてできません。面白ければ笑うし、そうでなければ笑わない。満足してもらえればまた次の作品も観に来てくれるし、そうでなければもう来ない。これを積み重ねることが、エンターテイメントクリエイターとして訓練になると思ったのです。(小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』幻冬社、18頁)

舞台について小林は、

演劇はお客さんとのコミュニケーションですからね。(『演劇ぶっく』 えんぶ 149 2011/1/8 24頁)  

と語り、ほかのインタビューでは「舞台は応接間。おもてなしするためにあの手この手ですよ。」と発言している。小林にとって舞台は観客と直にコミュニケーションを取れる場であるとわかる。

「面白くて、美しくて、不思議であること」が小林の目指す世界観である。
それを実現する重要なルールは「コント」とか「演劇」という概念の完成予想図を持たずに自分の作りたいものを純粋に形にするというやり方だという。

その見せたい世界観をパフォーマー側が「見てください!」と一方的に押し付けるのでなく、観客側も一定以上の努力をして「見せてください!」という態度であり、リアリティのある表現の場であることが舞台を中心に活動をする理由の1つであるという。

前掲書に、"デビュー当時から 「自分の作品で目の前のお客さんを楽しませる」ことがやりたいことだった"と小林は記しているが、この信念というべき創作への原動力は、物心ついたときからのものだと考察できる。

小林のホームページで公開された観客からの「どうやって今の職業をやると決めましたか?どこからそんな勇気が出てくるのですか?『好きなことをやる』というのと『この世界で生きていく』ということを考えたとき、不安はありましたか?」という質問に対して小林は次のように答える。

「特に勇気を出した記憶はありません。うまくいかなかったらどうしよう、という考えはまったくありませんでした。「自分で作ったもので人を楽しませたい」という思いが物心ついたときからありました。始めた記憶がないので、辞め方がわかりません。どうしましょう。

小林は物心ついたときから「絵を描いて、お話考えて、なんか作っていた」と述べ、
さらに子供のころなりたかった人は「テレビ番組『できるかな』のノッポさんみたいになりたいと思っていました。ノッポさんは、毛むくじゃらの相棒と、いろんなものを作って見せてくれる、帽子を被った背の高いおじさんです……だいぶ近いところには来た気がします」と発言している。

幼少期よりもつ「自分の作品で目の前のお客さんを楽しませる」ことが実現できる場所こそが舞台だったのだろう。
 それでは、舞台に来る客を楽しませるために、小林はどのような工夫を施しているのであろうか。


情報制限によって
積極的な観客
作り出す

雑誌のインタビューで「観客の想像力にゆだねるとか、ある程度フォーカスをぼかす、という方法は最初から意図的だったのか」という質問に対して、小林は次のように答えている。

お客さんもいろいろ。ラーメンズをすごく好きな人もいれば、初見の人も相手にしなきゃいけない。興味ない人も知らない人もいるかもしれない。でも、二度目のお客さんも楽しませなきゃいけない。そこでどうしたらいいか考えると、それには情報不足というのが一番キーになった。

小林は舞台を観に来る「お客さん」が舞台に対してのモチベーションや予備知識に差があることを前提として、「消極的なお客さん」に合わせた作品を作っていると述べている。

小林は年に一回テレビに登場する。自身がプロデュースする「小林賢太郎テレビ」についてテレビと舞台との違いについての質問に小林はこう答えている。

テレビを見ている人と劇場に来ている人とでは、集中力が基本的に違うと思うんです。こちらからどのくらい歩み寄るかというところが難しいね。視聴者は部屋の中でテレビを見ていますけど、舞台は部屋より広い劇場で、遠い席はとても遠いんです。だから劇場の場合は、最前列より一番うしろのお客さんに合わせて作ります。距離感がまったく違うので、使う勘が違うんですよね。(『プラスアクト』 ワニブックス 67 2016/6/11 100頁)

また、小林がプロデュースした公演「ロールシャッハ」についてのインタビューで冒頭の演出の意図について次のように語っている。

 4人でできる最大公約数を目指したかったんです。それと、今回は入り口をコントにしたかったから。そんなに深刻に見ないでくださいと、最初にお客さんを油断させる係が欲しかった。だから久ヶ沢さんという信頼できる芸人さんに登場してもらって、笑いを取っていただきました。それで後半につれて深いところに、段階を追って落差をつけていきたかったんです。 やっぱり最初は客席に温度差はあるんですよ。…それを1回、冷静な人のほうにあわせてもらうんです。 とりあえず落ち着いて、あのガタイのいい人が何を作ってるのかに集中してくださいと。舞台は広いですけど、点で始めてるのはそういうことなんです。ここから全体を少しづつ、2時間かけて暖めていくんです。(『演劇ぶっく』 えんぶ 149 2011/1/8 23-24頁)

また小林は著書『僕がコントや演劇のために考えていること』の「楽しみ下手なお客様のためにできること」「演劇アレルギーは治さない方がいい」の章で、観客の多様性を認めたうえでの作品作りのこだわりを発言している。

子供の頃、学校行事で国立劇場にミュージカル「レ・ミゼラブル」に観に行ったときのこと。僕はとても感動して、カーテンコールでは泣きながら拍手をしていました。すると、クラスの一部の生徒が「見ろよ、コバケン泣いてんの」と、はやし立てました。すごく悲しくて、いやな気分になったのを覚えています。…(中略)感動を顔に出すことを否定的にとらえる人がいます。面白いと感じても、素直に笑わない人。感動して泣くことを恥だと感じる人。どういうわけだか、そういう人も客席にはいます。全員が積極席な観客とは限らないのです。 実は僕の作品は、そんな消極的なお客様に合わせて作られています。(小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』幻冬社 96頁)

「演劇を観るのが苦手」という人がいます。かつては僕もそうでした。…(中略)そんな演劇アレルギーを持っている僕ですが、その後、本当に面白いと思える演劇にいくつも出会うことができました。そして思ったのです。「アレルギー反応が出るときと出ないときとの違いはなんだ?」と。…(中略) 演劇を観るのが苦手な人の視点から観ても「面白い」と思えるものをつくることができれば、観客を選ばない強い作品ができるということですから。 僕の作品は、演劇を普段観ない人にも楽しんでもらいたいと思っています。「小林のつくるものは面白い」と思ってもらうには、面白い作品をつくり続けるしかありません。そしてその「面白い」は、けっして一部のマニアのためのものであってはならないのです。(小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』幻冬社 70頁)

以上の発言から、ラーメンズの舞台に訪れるいろいろなお客さんのなかには以下のようなお客さんが含まれると考察できる。

・ラーメンズをすごく好きな人
・二度以上舞台をみている人
・ラーメンズに興味ない人
・ラーメンズを知らない人、初見の人
・客席で冷静なままの人
・感動を顔に出すことを否定的にとらえる人
・面白いと感じても、素直に笑わない人
・感動して泣くことを恥だと感じる人
・演劇を観るのが苦手な人

根底は、小さな劇場で目の前にいるお客さんを笑わせるところから始まった芸人ですから、そこは大事にしたいと思っている。(『演劇ぶっく』 えんぶ 150 2011/3/9 12頁)

小林の信念は、2011年から一貫して変わらない。様々な観客を前に10年以上も舞台に立ってきた小林流の観客の楽しませ方を考察していこう。

第2節 予備知識がいらない笑い

小林が目指す笑いの一つに「予備知識がいらない笑い」があるという。これは「舞台作品の前に観客は平等であるべき」という思いから及んだものだという。予備知識がいらない笑いにこだわる理由として、小林は次のように発言する。

初見のお客様も常連のお客様も、同じように楽しんで頂きたい。ひらたく言うと「まんべんなくウケたい」。もちろんエンターテイメントにも好みがありますから、万人の大好物になれるようなものではない。でも少なくとも劇場に来てくれた目の前のお客様には、もれなく楽しんで頂きたいわけです。

 では、予備知識がいらない笑いのために小林が作品で制限したものはなにがあるのか。小林いわく、「世代や性別などによって、知識にばらつきがある題材は使わないようにしている。」それは、その題材を知っている人と知らない人とで、受け取る面白さが変わってしまうからだという。

インタビュー記事や、小林の著書から上記の知識にばらつきがある題材をまとめると以下の項目が挙げられる。

・はやり言葉
・若者を中心に使われる新しい表現
・そのとき話題になっている事柄
・恒例のフレーズ
・おなじみの見せ場

もちろん、シリーズ化したパフォーマンスはあれど、新作には旧作の情報がフリとして機能することが無いように気をつけている、と小林は言う。

上記に挙げた項目は、いわば「内輪ネタ」になりうるものだ。笑いは共通認識があってこそ起こるものである。

笑いの社会的機能について、笑いと社会の関係に詳しい森下は「笑い仲間が形成されるには、そのメンバーにある種の共同性が存在していなければならない。」と指摘する。

ここでの笑い仲間とは、「その連中といるだけで愉快になり自然に笑顔がわき、ジョークがとびだし、互いに悪口を言い、みんなで一緒に笑い合う、そんな仲間である。」と森下は表現する。

共同性の基礎となるのはたとえば仕事や職場や地域や趣味や階級や世代といったものの共同性であるが、メンバーが笑いを共有するためには、ユーモアに対する感覚の共同性、とりわけ笑いのツボに対する共通した感性が決定的に重要となる。

笑いのツボの中核をなすのは、知識や経験、価値観、世界観、人間観といったものである。小林は、極力までに笑いのツボに差が出ない「予備知識がいらない笑い」を目指す。

脳科学者である茂木は、過去のラーメンズとの対談記事の中で、ラーメンズが内輪に向けたネタを封印して笑いを作っていると指摘して、次のようにコメントをしている。

ラーメンズはそういうふつうの人を笑わせる回路を閉ざしてる感じがする。その原体験としてこうこうのときのことがあるっていうのは、すごく面白い。その場でうまくいっちゃう人って、それで回せるから、どんどんそっちいっちゃうもんね

茂木が指摘する「その原体験」を理解するには、小林がインタビューで繰り返し答える学生時代のエピソードにまで振り返る必要がある。彼がエンターテイメントの道に進む原体験はどこにあったのか。過去のインタビューでの発言を元に推測した記事のこちらを参照いただきたい。


情報によって
観客のパーソナルな部分に入り込む

真っ白な無機質な服を着ている状態でコントをやると、お客さんは勝手に、おまわりさんの恰好とかサラリーマンの恰好とか想像してくれるんです。…全員がパーソナルなものとダブらせてくれるにはどうしたらいいか考えると、もう無機質な恰好がストレートなんです。

パントマイムの研究を行う藤倉は、パントマイムにおける模写的表現が、観客の脳に補完を喚起し「現実を再構築」させる芸術であると主張したうえで、イメージの構築は各々の観客がその想像過程に積極的に参加することにより達成されるものだと指摘する 。彼は、観客の脳は積極的にその過程に参加することによって、その創作物をより現実的な身近な経験として共有することになるという 。

余白を残すことで、場面場面に観客の生活、常識、こうなるであろう、こうであろうという一定の図式が出来上がる。

笑うために欠かせない
図式はどのように作られるか

森下は、『ユーモア学入門』で、「知性レベルで生じる笑い」 を論じている。彼は、知性レベルでの笑いを、「知性の満足から生じる快笑系の笑いのもの」と「知性の撹乱から生じる苦笑系のもの」の2系統があると整理している。それぞれを「やっぱりそうか」の笑い、「ええっ、どういうこと?」の笑いと呼ぶ。加えて、「やっぱりそうか」の笑い、「ええっ、どういうこと?」の笑いとが結びついた笑いを「なあるほど」の笑いとする。

 まず、「やっぱりそうか」の笑いとは、図式どおりに現実が進行することによって知性の満足から生まれる笑いである。ここでいう図式とは、人間が知性に蓄積する「〇〇はこれこれこういうもの」(森下曰く、〇〇の部分は、カボチャでも、時計でも、山でも、パソコンでも、愛でも、人生でも、政治でも、神でも、なんでもいい)という、漠然とした知識あるいは図式である。

森下は、われわれはそのような図式をいくつか組み合わせることによって、推論や予測を立て、そのとおりになることを期待し、そして実際にそうなったとき、「やっぱりそうか」と知性の満足を感じると論じる。ただし、あまりに推論や予測が容易すぎるときには、知性はそれだけの働きをしていないから、報酬はわずかにとどまるという 。

 つぎに、「ええっ、どういうこと?」の笑いとは、図式のズレからやってくる、知性の撹乱から来る逆説的な笑いである。常識的図式をくつがえし、それから大きくはずれた姿を認知したときに、ある種の新鮮な愉快さを感じる逆説的な愉快さを感じる。森下は、この図式のズレから生じるこの逆説的な愉快さこそ、ユーモアの本体ほかならないと主張する 。

 最後に、「なあるほど」の笑いは、現実と図式からズレによって知性がひとたび撹乱されたのち、最後にそれが図式の中に再度おさめられることによって生じる知的安心感が、それぞれ愉快感と笑いのもとになって生じる笑いである 。

セリフは一行でも少なく

小林は「セリフはヒント集」というように、セリフによって舞台上の二人の関係性、状況を観客のイメージによってつくられていく。いわば、観客は舞台上に自分で作った世界観を生み出す状態となる。

僕が台本を書く時には、一文字でも言葉を少なくしたいんです。まぁ、それはまず一文字でも覚える量を減らしたいからという現実的な事情はありますが笑、「伝えたいことは何なのか」に関わるからでもあります。(『西尾維新対談集本題』 講談社  2016/10/14 17頁)

観客は与えられた言葉の量に対して、受け取る内容の濃さを察するのだと小林言う。観客自らが考えるためのヒントを受け取り、察する楽しさを味わうことは笑いや感動を押し付けない、観客の体内に発生させることができるのだ。

小林は笑い方には3つあると言う。「笑われる」「笑わせる」「観客が自分の力で笑う」のうち、セリフをヒントとして使うことで最後の笑いを引き起こすことができる。

"僕の場合には劇場にいらっしゃったお客さんを笑わせて、それからストーリーを理解してもらって、あとは九十分の所定の時間内に納めなければいけないわけで、その目的を果たすためにも、できるだけ体脂肪の低い台本にしていきたい。(中略)もちろん、演劇に必要な装飾としての言葉というのもあるんでしょうけれども、それにしても「なくても同じ程度の見ごたえ」なのだとしたら、僕としては「ないほうが水準が高いんじゃないかな?」と、特にコントや演劇に関してはそう思っています。"(中略)そうした考えがあって、セリフにふくまれる説明文みたいなものはいつもタイトにするようにしているんです。(『西尾維新対談集本題』 講談社  2016/10/14 18-22頁)

体脂肪の低い作品、つまりは必要最低限で必要最大限の笑いの作り方は非常に広告の作り方と似ている。小林は小学校から「広告批評」を愛読していたことや、父が広告代理店で勤めていたことなど、広告に強く影響を受けていることを語っている。

父が広告やってたというのもあるけれど、CFって15秒でしょう。15秒のなかに盛り込める最大限の情報を入れなければいけない。入れたい。それに近いものとして俳句があると思うんです。CFは映像の俳句だと思う。で、祖父が俳句家をやっておりまして…小さいころから、おじいさんの俳句、ずっと読んでたんです。真似事で自分もやっていた。

広告に近いものとして俳句があるというが、祖父に習って俳句をやっていた小林。時間や文字数などの「枷」にたいして最大限の情報を盛り込んでいく思考は家庭で培われたものだと考えられる。

単純なルールから
「驚き」や「発見」を見せるということ

小林のつくる作品はシンプルでいて簡単なしくみから、思いも知らない面白さを生み出す。単純なルールから観客に驚きや発見に見せる作り方について小林は次のように語る。

お客さんが「どういう構造でできているか」をシンプルに理解できるものでなければ。それこそ「今回はこんな単純なものだけでものごとを実現させますよ」「こういう『枷』でやってますよ」というルール説明をしておいて、ちゃんとお題を解決させるというのが大事なんですね。何がすごいのかということがわからなければ、ほめてもらえないですから、できるだけ、単純な範囲の中にある驚きを採用するようにしています 。

そのようなシンプルでいて、しかもまるで観客が思いつかない発想をみせるという作り方は、「小さなころからマジックが好きだったために余計にそういうものを作りたいのかもしれませんね 。」と語る。

超能力者とかマジシャンとか、テレビで不思議なことをやるおじさんたちが、僕が子供の頃にいっぱいいたんです。ユリ・ゲラーだったりMr.マリックだったり。僕はそういう人たちにすごいあこがれていて、いつも観ていて、そのうちにたとえば「スプーン曲げで曲げる対象がスプーンであること」には理由があると分かるようになったんです。まず、みんなが「これは硬いぞ」とよく知っているということ。指先ひとつではとても曲げられるものではないと知られていますよね。だから曲げたら不思議なのであって、それが「……見たこともない、鉄らしきものでできた何かしらの棒」で(笑)、それをテレビカメラの前で「見てください……はい、曲がりました!」と言われても、「あの棒……何なんだ?まぁ、やわらかいんだろうな」と思うだけじゃないですか(笑) 。
 しかし、スプーンでやられたら、われわれはスプーンの硬さをしているから、そこではじめて不思議さや面白さが生まれるわけです。つまり使われている道具をお客さんが「はじめから知っている」ということに意味があるのであって、それは今言ったようなサイキック・エンターテイメントに限らず、コントでも演劇でも、僕はそうなんだよなと思っているんです。

観客があらかじめ知っている素材は、日常に無数にころがっていると小林は語る。小林がどのような意識で日常を見つめ、拾い集めた素材を磨いていくのだろうか。

アイデアはたどりつくもの

小林の公式サイトで「いつも奇想天外でびっくりしています。パフォーマンスのアイデアは、どうしたら思いつくのですか?」という質問に対して小林は次のように答える。

僕はずーっと考え続けていられるんで、思いつくというより、そのうちたどり着く、という感じです。僕は作る段階では「アイデア」という言葉を使っていません。「何かいいアイデアないかなあ」という言葉で考えてしまうと、無意識のうちに頭の中で「アイデア」という言葉の概念をもとに完成予想図を作ってしまうからだと思います。完全に自由な状態から、作りたい、観せたいものを純粋に追い込んでいく。そのうちに「アイデア」と呼べるものにたどり着く、という感じ。この思考順序は、クライアントが自分自身だからできること。アーティストという立場の特権です。

アイデアは「ひらめく」とか「おりてくる」と表現されることがあるが、小林は「たどりつく」ものだと考える。日常のすべてにアイデアにたどりつくためのヒントが隠されているという。大事なことは、そのヒントをうっかり見落とさないよう、いつでも意識しておくことであるという。小林賢太郎テレビで、小林は「ヒントの拾い集め方」に対する考えを発言している。

見つけることはできると思うんですよ。いくらでも転がってますから、面白いことは。それを、面白がらないともったいないでしょう。それくらいの感覚でいいと思うし、僕はそれくらいの気持ちで拾い集めてるし。大事なことはそっから先だよね。
見つけてきたものを並べることは僕はアートでは無いと思うし。
表現を仕事にする以上は、自分の中を通して、出されたものがみんなにお金を払って買ってもらうっていうレベルまでは磨き上げないとなんか、成立してないと思うから。

小林は日常の中で見つけた宝物を「目で、手で、足で、何日でも考え続けます。作って、壊して、また組み立てて、壊して、まるめて、壊して・・・。最終的に『アイデア』と呼べるレベルに到達させる」のだという。合格の条件は「シンプルで、わくわくできること」

小林が拾い集めた素材の磨き方のひとつに、ルールの発明がある。例を挙げると、小林の作品に「戸塚区」というものがある。日本の地名の中で擬音風なものを集め、滑舌の良いボイスパーカッションのように繋いだ作品である。その作品の出発点は、「あるとき『戸塚区』という地名が、口に出すと打楽器の音に似てる」ことに気づき、日本の地名の一覧をプリントアウトして、片っ端から調べたのだという。このプロセスについて小林派このように語る。

こんなふうに、とくに面白くもない普通の言葉も、ルールを与えることで使える素材に化けてくれることがよくあります。良いルールにたどりついたら、可能性のある言葉を徹底的に調べ上げます。埋もれた宝物を見すごしてしまってはもったいないですからね。

拾い集め、磨き、素材へと変えていき、アイデアにたどりつく。そのアイデアは舞台上で生身の身体で表現されていく。舞台上にはほとんど小道具を使用しない。いかに道具を使わずに辿り着いたアイデアの世界観を観客に伝えているのだろうか。

道具を使わずに世界を作り上げる

ラーメンズの舞台では、演技においてほとんど小道具を使用しない。観客は、実際舞台上には存在しない物や、舞台上の2人以外の人物たちの動き、話しぶりを、2人の演技を通じて見ている。

私たちが行為をするとき、身体はつねに“何か”に向かっている。言い換えれば身体は“環境のなかにある対象または事実との関連を保ちながら(Holt1916)”動いている。
20世紀初頭の心理学者、エドウィン・B・ホルトは、これを“特定的な行動(specific behavior)と呼んだ。行為はつねに、それをとりまく環境に対して”特定的“である。ラーメンズの演技もまた、”不在の環境“を舞台上で”特定“している。

演技が“不在の環境”と“特定“するということ、つまり行為が環境を”特定“するとはどういうことだろうか。

 ホルトは、環境の中の対象や事実と関連する行為の単位を、フロイトから用語を借りて“意図(wish)”と呼んだ。ホルトのいう意図とは”身体という機構が環境との関連を保ちながら実行することができるひとまとまりの行為“のことである。

ホルトの生きた20世紀初頭の心理学は、神経や筋肉など、行為をつかさどる諸要素を分析することによって意識の減少が解明できると考えていた。ホルトはそれを批判する。脳や筋肉をいくら細かく分けていっても、そこに”意図“は現れない。”意図“の単位は、むしろ、複数の反射弓(感覚―運動系)の”組織化の形式“にある。その反射弓が2つ以上複合すると、環境のなかにある対象を”特定“する運動がうまれるのだ。

 たとえば、ホルトがあげるのは次のような魚の例である。その魚は、右眼に光が当たると左ひれを動かし、左眼に光が当たると右ひれを動かす。2つの仕組みが組み合わさると、その魚はまるで“光に向かって”泳いでいるような行動をとる。つまり、その魚の動きは、“光”という外部の環境を“特定”している。それを“特定的な行動”とよんだのである。

 この“特定的な行動”の中には、環境がある。つまり、“特定的な行動”とは“有機体が環境のなかのある対象または事実との関連を保ちながら”動くことであり、行為はつねに、“周囲にある環境”から分離することはできない。
 しかし、ラーメンズがおこなっているのはその逆のことである。舞台上には、行為を制約する“環境”が存在しない。それでもラーメンズは、あたかもそこに環境があるかのように、行為する。そうすることで、行為を制約しているはずの目には見えない環境が、舞台の上に現れてくる。行為を見ているだけで、行為が“特定”している“不在の環境”が舞台の上に出現するのだ。

らしさの笑い

モデルはいないほうがいいんです。取材しちゃうとダメなんですよ。リアルとリアリティって違うと思うんですけど、リアルを作ってしまうと、その元を知らない人はピンとこない。だけど、リアリティなら、それっぽいということですから、”それっぽい”をやっておくと、お客さんは勝手に自分の記憶とつなげて見てくれるんです。そのための、あのセットと、あの芝居なんです。(『広告批評』 マドラ出版 321 2007/12/1 55頁)

らしさの笑いは、言い換えると「あるあるネタ」とも言えるのではないか。「ありがちなこと」や世の中の矛盾や変なこと、すなわち「言われてみればおかしいこと」がネタの中核となる。この笑いは、日常生活における小さな発見を元に作られる笑芸の最も基本的なタイプであるが、観客の側の共感が必須の笑いである。

例を挙げると、ラーメンズのコント「不透明な会話」と「名は体を表す」の笑いの素材はどちらも「誰もが思うことでもあり、見たわけじゃないけどあるあるが成立しちゃう内容」である。「不透明な会話」のコントは「透明人間を見た!」というパラドックスを取り扱っており、「名は体を表す」では「語感」を取り扱う。

小林のいう”それっぽい”や"どこかでみたことあるような気にさせる芝居"は、類似した体験や印象を観客が共有して初めて成立する。しかし、"リアル"、つまりは明らかに誰かをモデルにしたキャラクターやどこかを限定させた場所設定を基盤とした場合、その元を知らない人は笑うことができない。

小林は人間観察力に優れ、演技も高く評価されることが多いが、小林の演技の練習法は真似ることに重点が置かれていると、小林は明かす。

"真似ですよ。真似。好きな役者さんのセリフとかを、ビデオ撮って何回も見て、ずっとしゃべってますもん。これは一つのトリック。もう一つのトリックでもあるんですけど、似てない物真似って、オリジナルになってしまうんです。似てると、パクリじゃんって言われてしまうけど、似てないがために、小林賢太郎が作った新しいキャラクターになったりすることがある。(中略)どこかでみたことあるような気にさせる芝居にはしなきゃと思ってるんです。(『広告批評』 マドラ出版 321 2007/12/1 55頁)

どこかで見たことあるようなキャラクターや、気にさせる要素を提示された観客は、その言葉や演技から想起される現実世界を比較する。他方、ラーメンズのコントで描かれる「非日常の中の日常」の仮想世界とが対比される。 しかしラーメンズのコントで描かれる日常は、どこか観客が経験してきた馴染みの景色とも共存する。ゆえに、観客は非日常の世界を抵抗なく受け入れることができ、笑えるのである。

「夢」を作る
故にダメを笑う行為を制限する

ラーメンズでは、「予備知識がいらない笑い」を制限するだけでなく、コント上で「ダメを笑う」ことや「おどけて笑わせる」行為も制限している。
「ダメを笑う」行為を避けていることについて小林は、このように答えている。

例えば気にしている体型のこととか、年齢のこととか、そういった人のダメな部分で笑いを取るのは、僕は美しいとは思えないし、見えないところでだれか傷ついてるような気もする。笑える人と笑えない人がいたりするんですよね。もちろん本人が弱点を笑いに変えて、ポジティブに生きていくことはすごく大事なんですけど、僕たちが作ってるものは「商品」であって「夢」ですから。

身体的または能力的にネガティブなところに触れて笑いを取ることは、小林は作品に使わない。自分も他人を傷つけない笑いは、小林がコントは商品であり夢であるべきという考えが基盤となっている。

芸術における”封印”

茂木との対談で、茂木からの「苦しいこととか弱いことを逆転させるやり方が、笑いのひとつの水源地なんだけど、あえてそれを禁じてにしてるっていう意識。意図して封印してる?ナチュラルな指向性の表現なのか」という質問に対し小林は次のようにこたえる。

最初の最初は択んだ。「僕にできることはなんだろう?」「僕らしさとはなんだろう?」「みんなに僕にやってほしいことはなんだろう?」って。そういうものが積み重なって、いまの自分の選び方になっていったんだろうなっていう気がしますけどね。

茂木はその答えに対して「芸術上の大収穫って、今まで使ってた大ネタを封印することで生まれるから」と絶賛するが、小林は「もともと面白い人ではなかったから、僕は。追いこまないとダメだったから。 」と自分を評する。

第3節耐久性のある作品をつくるため

「エンターテインメントの世界には、旬やブームがあって、それゆえに続けていく難しさがあると思うのですが、小林さんの先品はそことは一線を画していますよね」という質問に小林は次のように答える。

僕の作品はあんまり関係ないですよね。瞬発力がないぶん、持続力のある作品でありたいと思っています。その分ブームは作れない。ある程度のクオリティーを保って経済的な成功をしながら継続し続けるということ。僕はプロでやっていますから、僕は表現活動することでご飯を食べている人達がいるので、そこは社会人としての約束事ですよね。きちんと守らなければいけないことがあって、その上で続けていけることが理想だと思います。"

理想の笑いについて、「予備知識のいらない笑い」ともうひとつ「古くならない笑い」これも出来るだけ心がけるようにしているという。

例えば10年以上経っても当時と同じように笑えるコントは、純度が高いというか、本質的な笑いに近いのではないかと思うからです。

アナログで作る理由

考え抜かれた作品は、すべて身近な言葉や道具で表現されている。「わかる道具でやらないと意味がない」とは、彼の手掛けるすべての作品に通じて言えることである。時代を反映した要素、流行りの商品名、固有名詞などは使わない。

作品が古くならないようにするには、古いものを使えばいい。新しいものは古くなっていきますけど、古いものはすでに古いから、そんなに変わらない。スタンダードになるものは、スタンダードになるだけの実力を持ち合わせている。(『演劇ぶっく』 えんぶ 145 2010/5/10 30頁)

古いものの一つとして、アナログな手法があると言う。ラーメンズがからだ二つでコントをするのには、スタンダードになるための一つの理由である。

ラーメンズの基本はアナログです。デジタルの世界はものすごいスピードで進化しますよね。でも人間の手が2本あって、指が5本あるってことはこの先も変わらないと思うんです。それでできることを追い込んでやっていくことは、ひとつのものごとを極めていくことにつながるんじゃないかと。(『演劇ぶっく』 えんぶ 140 2009/7/9 5頁)

スタンダードというワードも、小林の作品のキーワードの一つ。

  こんなことをやったらお客さんが喜んでくれるんじゃないかという感じではなくて、僕がやりたいことをやりたいんです。僕が見たいと思うものを、一生向き合えるような作品を生み出せるようになりたいですね。…定番になりうる実力のある作品だからこそ、上演され続けるんですよね。定番になる作品を作ることは今後の目標のひとつではあります。それこそ僕が死んでからも誰か違う役者が演じ続けてくれるような作品ができたら、作家としては本当のエゴの達成ですよ。でもどうしていきたいか、どうなっていきたいかというのは、実はあんまり重要じゃないと思っていて。やらなければいけないことはどんどん自然に現れていくので、逆らわずにやるのみです。(『演劇ぶっく』 えんぶ 157 2012/5/9 25頁)

100年後に観て、最新のものと遜色なく楽しめる、そんな作品をつくるために小林はやるべきこと、超えなければいけない表現のハードルを日々超えていく。

第2章 プロとしての覚悟

第1節表現者として成長するため

小林賢太郎テレビのセットを手がけるスタッフは、製作裏話として小林のこだわりを明かしている。

どうしてセットがあるのか明確な理由がないとつくりたくないと。(中略)カット割りをせず、ワンカットだけで5分もつコントのほうがレベルとしては高いと考えている。好みとして、セットは真っ黒や真っ白の空間が多くなります。それも”セットに頼らない”という高い志ゆえ

表現力を丁寧に鍛えていく

ラーメンズのコントはセット替えも衣装替えもない、小道具一切なし、音響も使わない。なくてもいいものはなくすミニマムな舞台は、なぜつくられたのか。

表現者として成長するため、と作品の実力を純粋に評価してもらうための二つの理由が考えられる。小道具やセットを使わない理由として小林はこのように語る。

そういう道具については、なにか「基礎ができるようになってはじめて、そういうものの力を借りていいんだよな」と自分で決めていたんです。ほかの要素が自分を守ってくれている状態では成長できないだろうと思ってぜんぶ排除する、というところからコント作りをはじめたんです。衣装とかセットとか音楽とか、そういうものには力があるから頼ってしまうんですよね。ただ、お客さんがそのセットとか衣装とか音楽とかの効果もふくめて「今日の舞台は面白かったな」と言ってくれたとしても、それは企画力や演技力で純粋に評価されているわけではないから、実力を正しく捉えられないと思って……。

小道具やセットや衣装は「もの」として舞台上に存在すると観客はそこから情報を得ようとする。しかし、ラーメンズ では何にも使わずに観客にものの存在を想像力をもって補う。それには演者側の技量が相当必要となる。ラーメンズについて小林は高地トレーニングのようだと発言している。

やっぱりラーメンズは一番むずかしいですね。高地トレーニングみたいな感じというか。自分を守ってくれるものが何もないので、そういう意味ではいいフィールドだと思います。(演劇ぶっく 』えんぶ 140 2009/7/9 8頁)

つくる側としても小道具一つ用意するということには時間も手間もお金もかかる。作品にお金をかけようと思えば、いくらでもかけることはできる。しかし、役者が台本を演じるだけの無装飾な作品ならば、予算もずいぶん抑えられる。そんな経済的な面の理由もあるが、なによりも無装飾な笑いは、芸で食っていくための覚悟の表れであろう。

芸で食っていくためには憧れよりも覚悟

小林はデビューしてからコントや演劇の上演だけで生計を立てることが割と早い段階でそうなることができたと語る。まず、芸で食ってるという憧れを現実にするために、アルバイトを辞めた小林。憧れは覚悟に変わり、とにかくコントがウケなくては生活していけないという自分の命に関わることとしてコントに向き合いはじめたという。

そうして「面白くなりたい」「ウケたい」「売れたい」という欲が強くなった上で、一番鍛えられる方法としてとったのが映像やセットや衣装替えをしない「無装飾」というやり方であった。小林はデビュー当時を振り返る。

勝負はコントの面白さだけ。脚本や演技の実力が一番バレるやり方です。思惑どおり、大変でした。その分成長できたと思います。

脚本や演技の実力が鍛えられる手段としてとられたのは無装飾という目で見えるものだけではない。コントの題材もまた、制限をかけて小林は作品を作っているのだ。

日常で見応えをつくる

ラーメンズのコントには
・人が死ぬ
・大事件が起こる
・極端な非日常
・極端で品のない言葉
・グロテスクな言葉
・差別的な言葉
・激しくおどける行為
・変な顔、奇声を発する
・社会的モラルに反すること

などといった事実として強い出来事は使われず、あくまで登場人物にとっての日常が描かれる。強い出来事を扱わないことにたいして小林はこう語る。

事件を起こしたくないんですよ。人が死ぬとか銀行強盗とか大惨事とか。そんなのドラマがあるに決まってるじゃないですか。それがない状態で同じような見応えを作ることができるなら、絶対そっちのほうが上質だと思うんです。ラーメンズが衣装替えをしないのもそこなんです。セットがないのもそこなんです。セットや衣装に見応えがあったら、弱い脚本でも面白いかのように見えてしまって、これは損なんです。脚本家が育たない。これは僕の欲ですね。

極端でない、激しくない、登場人物にとっての日常で見応えのある作品をつくれる実力、商品としてのクオリティに昇華させるためには、ストーリーやセリフで面白さを的確に表現する脚本家と表現者の両方の実力が必須である。

また、上記で小林の舞台は消極的な観客に合わせて作られていると述べたが、その環境も表現者としてトレーニングになるという。

欧米と比べて、日本人は感受性が乏しいいう意見があるそうです。しかし、感動しづらい人を感動させる努力は、酸素の薄い山の上でマラソンのトレーニングをすることに似ています。表現力を鍛えるには、いい環境だと思っています。(小林賢太郎『僕がコントや演劇のために考えていること』幻冬社 97頁)

なぜここまで小林は自分を追い込めるのであろう。小林は「枷」という言葉を用いて、自分の表現者としての理想を明かす。

「枷」を作って、その中で自分の能力を最大限だしていくという創作をどんどん繰り返していけば、スキルがどんどん上がっていくでしょう?"あらゆる「枷」を自分に設定して、どんなお題でも解けるようになっている。もしもそうした達人的な表現者になっていたら……その時にこそ「枷」なしで、ジャズみたいにもう、思うままに物語を作ってみたら、今はできていないことが何かできるかもしれないじゃないですか。

「自分の作品で目の前のお客さんを楽しませる」ために自分の作ったものをプロとして発表するのなら、それを買ってくれるお客さんには、計り知れない最高のレベルに達していなければいけない。そのためには、自分自身を疑い続けて、ハードルを見つけて、乗り越えてという革命を自分の中で何回繰り返せるかが勝負と小林は語る。

まとめ

小林が情報不足な世界を作った理由として、以下の3つが考えてきた。
①目の前の観客を楽しませるという信念を実現するため
②耐久性のある作品をつくるため
③表現者として成長するため

上記の理由のために、ラーメンズならびに小林のつくる作品では無装飾な舞台以外に、以下の項目が制限されている。
・はやり言葉
・若者を中心に使われる新しい表現
・そのとき話題になっている事柄
・恒例のフレーズ
・おなじみの見せ場
・人が死ぬ
・大事件が起こる
・極端な非日常
・極端で品のない言葉
・グロテスクな言葉
・差別的な言葉
・激しくおどける行為
・変な顔、奇声を発する
・社会的モラルに反すること

ラーメンズの情報不足のコントは、小林の憧れと覚悟によって生まれたものであった。

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