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須崎途中経過

「茶色いところと、深緑のところがあるでしょう」と言う視線の先を見つめると、山脈が確かに二色の毛糸で編んだセーターを着ているように見えてくる。ぽつぽつと点在して見える茶色い木々はもとからの自然、山を覆う大部分の緑部は戦後に植林したヒノキや杉なのだそうだ。

緑色の山、という印象を構成する要素が、人が一本一本手で植えてつくった色彩の集合体ということにおどろく。

かつて印象派の画家たちが、光の粒子ひとつひとつを網膜から取り出してはキャンバス上に再構成する、砂漠を一粒ずつ運んでつくるような光子の途方もない運搬作業をおこなったように、山に打たれる緑色の点。

高知県須崎市のアーティストインレジデンス「現代地方譚」では、他では経験したことのないような日々を過ごしている。招聘作家として最終的になんらかの作品を残してゆく必要がある、というある責任感のような意識がシュワシュワと蒸発してしまいそうなくらい綺麗な海や、石の色彩の移り変わり、柚子のにおい、森の静けさ、湧き水の温度を手で確かめること、ただお風呂が入るのを待つだけのひととき、自然を眺めるのと同じように人の言うことを遮らずにひとことひとこと交換すること、そうして編まれてゆく時間。期日までになにかを作らなければ、と言うおもいは溶けて、今はただこれを見つめようと思って、須崎でのはじめの一週間を終えた。

プレートが押し込められたプレッシャーで隆起した高知の山々は、石灰石の取れる恵みの山。四角く切り取られては工場の中で形態を変化させながら下山し、濁りのない白い粉末に加工されてゆく。

海ではセメント工場が夜も働き続ける。蛍光グリーンの光に照らされた機械の腕が、海底の砂利を掴んでは運ぶ、掴んでは運ぶ。握力の違いで先から漏れる砂の軌跡が、重機を忘れてひとの指先のように感じる。美しいなあと思う。

丸太は150、300、600本も綺麗な三角形に整頓されて積まれ、その円柱さに驚く。内側の赤いもののほうが美しいため高価になり、より頑丈だけれども焦げ茶色いほうは安くなるのだと言う。色彩のあざやかさが、材の状態ですでに美的な価値があるとされ、美に価値があるということが当たり前に認識されていることにも気がつく。

新しい国や、町や、環境へ旅をするときに、ザラザラと眼に触れてくる新鮮な景観が好きだ。しらないものの積み重ねで作られている秩序は、美術館でとある絵画のマチエールに惹かれて無意識に足が運ばれるように、知りたいという根源的な欲求を煮立たせ、わたしの動物を動かす。グレーのラインが敷かれていなかったなら、四足歩行となって匂いを嗅いで指の腹で凹凸を試してみるところだ、と思うけれど、線の手前で二足で立つから見つけられる美しさがまた面白く、それが美術のたまらないところだ。学問としての芸術も、快楽としての美術も、エンターテイメントとしてのアートも、一つの身体に内包することができる。

装備の整わないビギナー用の山道だとしても、玄関を開けて湿った土に気がつく程度の自然だとしても、二足歩行的な美的体験と四足歩行的な行為を行き来するような美へのアプローチは行われ、それは自分の在りたい姿の揺らぎにも繋がっている。中身を切って汁の色を確かめたいという生き物と、柚子であるということを知ること。その両方を行き来しうる行動が料理なのかもしれない。今年のレジデンスのテーマは「食の間」ということで、ずいぶん悩んでいるけれど、そこに自分のリアリティがある、ようなないような。

なんにせよ後半につづく。

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