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蒸気

病院の待合室ひとつおきに知っている顔が並んでいる。快晴の日向はぽかぽかと暖かい日、心に日が差さず背中にひとつカイロを貼ってあたたまる。身体は熱くなりすぎて白い紙コップに水をそそいで飲み干した。空のカップは役を終えても手の中に置いて心なしか安心感を与えてくれる。そういえばこれも白い紙だなあと思う。まっさらな白い紙は机に置くだけでまるで息を吸える空間を広げてくれる窓であった。今はコートのポケットの中でほのかな希望を溜めている。

親戚に仕事の成果を褒められて、なんだか声をかけられたその自分はずいぶん遠く昔にいるように感じられた。ふと一人の時間が訪れて、何気なくinstagramの地層をスクロールしてゆくと、ほとんどをライブの興奮冷めやらぬ終電でポストしてきたよな、と鮮やかに通り過ぎてゆく記憶のトンネル、極彩色の生命力、気配を感じて視線を待合室に戻すと淡い光の中祖父がいた。


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働き盛りに患ったあらゆる病を治してきた病院を出て、治すことを目的としない場所へ移る。自動ドアをでて車に乗るまでの短い間、その柔らかい時間の関節に触れるように家族が集う。持ち寄った一言がそれぞれあるだろうに言わないまま心に携えて、しかし渡せてしまいそうな距離まで近づいてゆくので、私はひとり離れて眺める祖母の隣にまで下がって並んだ。人が集まるリスクとか、渡すものも貰うものも他の家族に比べてないような気がしてしまう後ろめたさも飛び越えて、今本当に壊れそうなのが誰なのか見えた気がして。


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遠くを見つめる祖父の首と頭の周りから、陽炎のような見えない何かが立ち昇っている。人生や、激しい心や、言葉や、預かった色々なものが水蒸気に手を引かれて個から全へ戻されてゆくようで綺麗だった。車椅子ごとバスに運ばれ、そのまままるでファンタジーのように旅立つわけにはいかないけれど、私にとっての祖父らしい祖父はその蒸気の中に滲んで消えたように思えて、見届けることができてよかった。

隣に立つ祖母の荷物を半分預かる。合わせた瞳は流動しているガラス玉のようにたっぷりした涙が溜められて、強固な表面張力とともに祖母の眼にしがみ付いて溢れない。魂や意識は体の水の中でぐるぐると流動して、それが人間にとろみをあたえている。魂のみずみずしい祖母の瞳と対照的に、すうっと乾いて無垢に戻りゆく体、私は真ん中に佇んでいる。


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半年ほど経ったある日、出張先の宿で知らせを受けて、家族は自分の仕事を優先にと言うもののやはり急いで自宅に戻ることとなったが、1日に数本しかない特急にいますぐ乗ることもできず、2時間半ほどの空き時間をじつにのんびりと過ごすことになった。いつもの習慣をコーヒー一杯でなぞり、切符を渡し、切符を受け取り、自由席であるホームの先端を目指す。屋根から出て日向に一歩踏み込むと山の彼方からゴオッと気持ちの良い風が吹き抜いて、自然の大きな手が私たちを撫でてゆく。透明すぎる大気が森の匂いを運びながら、額の上を、首元を、シャツの中を、通り抜けてゆく気持ちよさに息を目一杯吸って空を見上げると気持ちの良い夏の始まりの青空が広がって、何の中にも生きることができるようになった人の永久の自由と、私が自分の身体で感じてゆく制限付きで終わりのあるこの上ない幸せを、こうして感受してゆかねばと思うのだった。一滴に自分の細胞を託して、大きな気流や水の流れに混ざってゆく。その小さな点を観察しながら、タイムリミット付きの私たちと共有してゆく。そして水面を掻き分けて進む絵筆は天と地を束の間に結ぶ階段となって、いっとき旅立たれた人々と会話することができるのだ。私にとっての絵はそういうことができる。

雨上がり、畑に霧が走り、私はそれを見にゆく。花々の間を歩けば空中がまるでハーブティーのような、大気全体で香水を作っているような、甘くてみずみずしい空気。人気のないこの村では遠くの遠くまでの鳥の鳴き声が聴こえてきて、どこかで飛び立つ羽音も感じられるくらい静か、そして自然が賑やかだ。なんて喋っているのか、上手に歌うわけでもないこの鳥の鳴き声、レコーダー越しにイヤホンで聴きながら、こうして確かめてゆくのだ。


you can talk to me.00_02_10_00.静止画001


誰にも止められることなく作業していると、帰る頃にはすっかり日が暮れて夜道、聴こえてくる音はカエルや虫の鳴き声のつくる大きな揺らぎ、意識を預けながら歩く。1、2、1、2、1、2と刻んで発しているのは二足で歩行する私の足音だけで、ここにそういう形の生き物がいるよと伝えている。姿形も見えない暗闇のなかで、今このビートにだけ属している。自分が歩いたときにだけ、ヒトの情報が現れる。闇の中で佇んで形と音をミュートしてしまえば、性別も職業も生物としての種も、いっとき体から剥がれ落ちるようでずいぶん軽やかな気持ちだ。しかし拍動も、血脈も、聴こえてしまえばずいぶんうるさい。このノイズが人間らしさなのだろうか。生きているということは、喧しくて、匂いがして、さまざまな名前で呼ばれて、全く簡単ではないものだ。ふと抱えていた茹でとうもろこしの甘い匂いが鼻腔に届き、この辺り熊が出たんだっけ、と我に返ってまたいちから人間を始める、1、2、1、2、1、2、1、2、、、、

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ときに旅立った人のいる静かな空間を羨ましく思う。私は今、大きな大きな生乾きの太極図の真ん中で矛の代わりに絵筆を持って立っている。二足であることを超えてしまう強烈な属性とその反作用。爆音と声に包まれながら私がステージで対話するのは静けさの国の人々。陰の声を陽に、陽の現象を陰に。混ざりきらぬまま水中に含んだ空気は泡の膜を押し上げて、儚いまま丸くなれ。声を向こうに届けるメッセンジャー、一言でも会話を交わせたのならば、交換に一晩だけ静けさのなかで眠りたい。想いを馳せる間に夏の暑さに汗がにじみ、そのまま伝うことなく揮発する。昇る蒸気、身体が伝えてくる、喧しいのは生きているからだと。

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