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名前


忘れ難い美しい悪夢と、そこから何かメッセージを読み解こうとするはたらき。ゆりかごのように、抽象、具象、抽象、具象、、と傾きながら、その真ん中に眠る生命力を育んでゆく。

文芸誌の挿画のために、旅の写真を一枚一枚グレースケールに変えてゆくと、何が写っているのかわからない曖昧なグレートーンが生まれる。意味の余白は液体の表情と相性が良く、しりとりのように1つの共通点、一致するグレーによってのみ接続される。白地に鳥のシルエットが浮かび上がり、足元の水面を認識するが、目線を移せば次第に抽象的な色面に溶けてゆく。


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思い出す高校時代の通学路、行きの電車では太陽光の下過ぎ去る景色の家の一軒一軒や人や物は分割された固有の名前で認識するものの、帰路の夜暗闇の中ではすべて一塊の陰影となる。現代では昼も夜もなく「目・鼻・口」とライティングされた中で細かに採寸されてしまうけれど、太陽や炎が光源の主役だった時代には、夜が来るたびに陰や影による美人がつかのまに生まれ出でていただろうと夢想する。その美しさというのは個人の持ち物ではなく、闇によって固有の名詞をひとつひとつ撫で消され、塊になった美しさで、誰の上にもきっと訪れる。8K、12Kと外部のガラスの眼の解像度が上がってゆくに従ってぼけの重要度に気がつくように、名前の境界を一度曖昧にして、もう一度必要なところにフォーカスを合わせる日があってもいいかもしれない。

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名前といえば、さまざまな肩書きで紹介されるけれど、自分は「絵を描く人」で、作品は「描かれている絵」で、どちらも現在進行形。「完成した絵」とセットで考えられるのが「画家」であるならば確かに画家ではないけれど、描くこと、形をなしてゆくこと、絵画未然と絵画後の二つの点を水で結んでゆく、描くことの本質を進む人を画家と考えている。

果物籠の絵を見て繁栄と衰退を読みとき、目に見えるシンボル・記号と意味される内容を行き来するとき、それは絵画の前に立った時の脳の動きだったけれど、自分の絵画はいわゆるオイルオンキャンバスではなく、しかし画家だけが絵に先立ち存在しているので、画面の制限を解かれ無尽蔵に記号と内容が現実を散らかしてゆく。束の間に定着させる媒体として絵の具と水が渦をつくるが、色彩も水もそのものが 「読み解かれ」の代表選手で、物体と意味が剥離したり、また一体となったりと、像は結ばれたり解けたり。その物に定着しない物づくりというのは画家の仕事から逸脱しているのだろうか。自分に付与されたさまざまな呼ばれ方を一度取り外してみるために、あの日の車窓を思い浮かべる。家や人を認識できる昼間だけを生きずに、心の景色を夜にしてみる。月光ひとつによって一塊にされたシンプルに揺らぐ陰影を想像する。黒い色面は身体から伸び椅子とつながり地面にピッタリと水平を作ってなお広がる。いくつかの影を共有した黒の混ざりを眺めれば、自分の質量は自分だけで責任をもたなくてもよいのだと感じる。椅子に座れば押し返す力が私を支えて、少し冷たかった腕時計は次第に肌と馴染んでぬるくなるように。

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新しいカメラにも慣れ、視覚が触覚の領域に重なると、今一つアドレナリンがでなかった映像編集にも作業の快感が遅れながらも伴いはじめ、厚紙をハサミでジョキジョキ切ったり、カリカリ音をたてながら描画するように動画をコラージュしてゆく。リモート会議でうっかり遅刻してきた人はやはり「バタバタ」と入室してくるし、平たい世界にもずいぶんさわがしい体感があると気がつく。しかしながらオンラインパフォーマンスでは届かなさが際立って、歯痒い思いばかりだけれど。体感することの難しい時期が始まって季節が一巡したが、ここからまた一年どう変化するのか、ひきつづき一つ一つ確かめてゆくことだろう。心身に昼と夜を持って、名前を自由に着脱しながら。







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