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血としての赤、海としての青

小学2年生のときのことだ。根から茎へ水を吸い上げるように滲む赤色を赤色色鉛筆で追っていく、広がった葉から根へ遡るように緑色で塗っていく、赤と緑の出会ったところのグラデーションを塗り重ねるうちに、あるときに絵から植物をすり潰したような匂いがして、その生々しさに驚いた。なぜ葉っぱは緑色で、なぜこの茎は赤いのか?そして色が混ざり合った時に、絵が本物よりも剥き出しの状態で命があるような、みずみずしいものになる感覚が、どうしても不思議で魅力的だった。

そういう不思議をなんで、なんで、と追いかけているうちに、絵の仕事をするようになった。絵の具を流動的な状態で発表して、色彩の混ざり合うところや、混ざらずにせめぎ合うところ、境界の乱れがやっぱり面白い。

今年は企業や他のアーティストからのオーダーも多く、そういうときには「こういうイメージで、青と緑のキラキラした感じで・・」など、要望をもらって抽象的なイメージを擦り合わせてゆくのだが、特に色の指定が赤ベース、青ベースに大きく分かれて興味深かった。その赤を構成する色の内容は、あらゆる黄や青から成り立っている赤だけれども、要望が帰結するところはやっぱり血や陽のメタファーであることが多く、青は水や海に結びつくことが多い。

ミュージックビデオ、テレビコマーシャル、多くの人が手に取る商品への映像制作で、直接的ではないけれど太陽や血や海といった人である限り共通に持っているイメージやモチーフを描きいれるのはとてもよくわかる。結果的に一番フィットする絵が、「カーキに金色を混ぜて透明のオレンジを注いだもの」であっても、それは「陽の光」がほしかったのであって、けれども打ち合わせでは「赤」と言われることが多く、何のメタファーとして赤がほしいと言っているのか の見極めが必要だ。

ヒトとして共有していることが多い自然現象でも、都市にいると実感がなくなってきて、駄目な美術教師が雲は白でしょう、太陽は黄色でしょう、葉っぱは緑でしょうといって、それらが紫色であることを否定するように、自分も手を伸ばす先のものごとの真の色を忘れてしまうけれど、もういちど、あの日植物の匂いが一体どこから立ちのぼったのか、それは赤でも緑でもなく何色とも言えない混ざり合った場所から滲み出たんだと、思い出すんだ。

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けれども明日は、そんな結びつきを全部断ち切って描こうと思う。何かの代わりや、意味の器ではない、目の醒めるような赤色の赤さを、これ以上ない青のあざやかさを、暴れ出す色彩そのものが目に触れる快感を。顔料そのままを描き出すから、目の潤いで溶かしてほしい。どんな風に色を感じたのか、どんなふうに光を受け止めたのか。不思議の背中はいつも未踏の地の光を浴びている。







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