「思春期」と「恋愛」と「信仰」

思春期の頃、好きな男の子は神様だった。

我ながらとんでもないことを言っているなあと思うけれど、別に神様を好きになっていたわけではない。
中高生の頃は、好きな男の子が、神様みたいに見えていたのだ。そして恋愛というよりは一種の信仰のように彼のことを追っていた。
何をしていても完璧で、何をしていてもかっこよくて、そして、わたしをいつか救ってくれるものだと勝手に思い込んでいた。

思春期の頃は、と言いながら、去年好きだった男の人のことも、どこかで神様のように思っていたような気がする。
高校を途中で辞めてしまったせいで、思春期をうまく終わらせることができていなかったのかもしれない。
好きで好きでたまらないというよりは、わたしを今のつらさから救ってくれるんじゃないかという期待がそこにあったように思う。
その人に愛されたらすべてが救われるのだと、どんなことがあってもつらくなくなるのだと、半ば本気で信じていた。

その男の人も、今まで好きだった男の子たちも、だれひとりとして、神様でもなんでもなかった。
なんでもできるひとも、わたしを救ってくれるひともひとりもいなかった。というか、そんなひとはいるはずがないのだ。
それが身に染みてわかった時に、ひとつ腑に落ちたことがある。

わたしは昔から父親が苦手だった。
父親も子どもの扱いが得意なタイプではなくて、幼い頃から父親と遊んだ記憶などはないと言ってもいいくらいだ。
父親と仲がいい友達の話を聞くと羨ましくて仕方がなかった。
小学生の頃、土日に習っていたソフトボールにクラスメイトを誘った時に「土日はパパが遊んでくれるから」と断られた時は涙が出るほど悔しかった。

たぶんほんとうは、わたしは好きな相手に「父親」になって欲しかった。
幼い頃甘えられなかった分甘えさせて欲しくて、つらいときに支えて欲しくて、わたしに関心を持って欲しかった。
わたしはわたしの「父親」を焼き直したくて、身勝手にもそれを彼らに期待していた。
わたしは彼らの加護を受けたり、あるいは子どもになってみたかったのだと思う。

今年の春、好きだった男の人とお花見をしに行ったのに、河原の護岸工事で桜がほとんど見えなかったことがある。
その時に、枯れた細い木だけが並んだ河原を見ながら、なんだかもう、そうやって期待をするのはつかれたなあと思ったのだ。
だれかに神様にも、父親にもなってもらわなくても、ひとりで勝手に立っていたい。そうやって人を好きになりたい。

次に好きな相手ができたら、それはどんな人なんだろうなあ、と考える時がある。
どんな人で、どんな性格で、どんな言葉遣いなのだろうか。
まあ、どんな人でも、もうだれのことも神様にも父親にもしたくないなあ、と今は思っている。
思春期は河原で終わってしまったのかもしれない。

#エッセイ #恋愛 #精華人文note

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SEIKA JINBUN note

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