【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その11:求放心】

 求放心とは、孟子の言葉で、いったん放たれた心を再び自分の身のうちへ引き戻すという、心の動きのことです。(「沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その6」参照)
 たとえば、犬や猫、にわとりなどがどこかへ行ってしまうと、わたしたちはそれらを元の場所に戻そうと、あちこち探し求めることでしょう。それと同じように、本来、正しい所業を行なうための心が、悪行や卑しい行為へと逃げて行くようなことを何としても引き止め、元の正しい道へと戻すようにしなければなりません。当たり前のことですね。

 ところで、邵康節(北宋の儒学者)という人は、心要放、心を放たなければならないと言っています。まったく逆のことのように聞こえます。
 この言葉の意味は、心がどこかへ行ってしまわないようにと頑なになっては逆効果であり、まるで猫がしなやかに歩くように心を自在に動かさなければならないということです。
 悪事にも何にも染まらないように、よく自分の心を使いこなすことができるようになれば、どこへ心を捨て置いても構わない、どこへでも追い放せと言っているのです。
 心に何かが染まるのではなく、物に自分の心が沁み入っていくのです。染まるな、とどまるな、自分の身のうちへ心を求め返せというのは、修行のうちの、初心の稽古のあいだのことです。
 
 それはあたかも、泥の中に咲く蓮が、泥に汚れず美しい花を咲かすかのようです。たとえ泥にまみれても悩むことはありません。よく磨いた水晶の玉は、泥の中にあっても汚れません。それと同じように、心がいきたい所へ自由にやりなさい。心を引き止めることは、自分を不自由にすることです。(斬り合いの最中に)心を引き締めても、ただ死に果てるだけです。
 
 稽古の中にあっては、孟子が言う求放心をよく心がけることです。しかし、その道を極めたならば、邵康節が言う心要放、心がいきたい所へ自由に放つようにするべきです。
 中峯和尚の法話に、具放心、心を放す心がけというものがあります。この意味はすなわち、邵康節が心を放つことをせよと言っていることと同じことで、心を一箇所に引きとどめておいてはならないと言っているものであります。
 またおなじく、具不退転、心を退転させてはならないとも、中峯和尚の言葉にあります。これは、やっぱりあのようにしていた方がよかったとか、こうした方がよいかも、というように、行きつ戻りつ悩んだりすることのない心を持ちなさいという意味です。
 
 人生、一度や二度の出来事ならば、なんとかうまくやり通すことはできますが、疲れたり、難しいことがずっと続くようなことになったとしても、折れない心を持たなければなりません。

 
 
 
 
11 求放心
 と申すは、孟子が申したるにて候。放れたる心を尋ね求めて、我が身へ返せと申す心にて候。
 たとへば犬猫鶏など放れて餘所へ行けば、尋ね求めて我が家に返す如く、心は身の主なるを、悪敷道へ行く心が逃げるを、何とて求め返さぬぞと也。尤も斯くなるべき義なり。然るに又、邵康節と云ふものは必要レ放と申し候。はらりと替り申し候。
 斯く申したる心持は、心を執へつめて置いては労れ、猫のやうにて身が働かれねば、物に心が止まらず、染まぬやうに能く使ひこなして、捨て置いて何所へなりとも追ひ放せと云ふ義なり。物に心が染み止まるによって、染ますな、止まらすな、我が身へ求め返せと云ふは初心稽古の位なり。
 蓮の泥に染まぬが如くなれ。泥にありても苦しからず。よく磨きたる水晶の玉は、泥の内に入っても染まぬやうに心をなして、行き度き所にやれ。心を引きつめては不自由なるぞ。心を引きしめて果つるなり。
 稽古の時は、孟子は謂ふ求2放心1と申す心持能く候。至極の時は、邵康節が心要レ放と申すにて候。
 中峯和尚の語に、具2放心1とあり。此の意は即ち、邵康節が心をば放さんことを要せよと云ひたると一つにて、放心を求めよ、引きとどめて一所に置くなと申す義にて候。
 又具2不退転1と云ふ。是も中峯和尚の言葉なり、退転せずに替はらぬ心を持てと云ふ義なり。人ただ一度二度は能く行けども、又つかれて常に無い裡に退転せぬやうなる心を持てと申す事にて候。