【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その8:有心の心、無心の心】


 有心の心と無心の心ということについて。
 有心の心というものは、妄心と同じ事です。有心とは、あるこころ と読む文字で、何事においても何か一方に思いつめていることです。
 心に思うことがあって、あれこれ考えたり判断に迷ったりするような思いが生じることを、有心の心と言うのです。
 
 無心の心というものは、本心と同じ意味のもので、何かに偏ったり固まったりすることなく、あれこれと考えたり判断に迷ったりすることのない状態、体のすべて隅々まで心が行き渡っている状態のことを無心と言います。
 
 何かに心がとどまれば、失いたくないと思う欲が生まれますが、どこにもとどまる所がなければ心に何の見栄も欲も生まれません。この、心に何もない状態を無心の心、または無心無念とも言います。
 この無心の心の状態に至ることが出来れば、何かが起きる毎に迷うことなく、何かに気づかないまま過ぎ去ることもなく、常に水がピンと湛えられているように、何事も自由に受け止め必要に応じて乗り越えることができるようになります。
 一箇所にとどまったままの心では、自由に感じ、考えることも出来ません。車の車輪も軸が滑らかだからこそ廻ります。何か一箇所でもつまってしまうと、車輪は廻りません。
 
 心も、ちょっとでも落ち着いてしまうと動かなくなってしまいます。心の中で何か悩みごとがあったりすれば、誰かからの忠告やアドバイスも、耳に届いても心には届かなくなってしまいます。
 これは、悩み事に心がとどまってしまっているからです。その悩みによって心が一方へ偏り、一方へ偏れば他人からの意見も煩わしく聞こえ、何かを見てもそれが自分にとってどのような意味を持っているのかが理解できません。これは心に物があるからです。ある とは、心中に何か思うことがあるからです。
 
 この、ある思いを手放して取り去ってしまえば、心は無心となり、ただ必要なときに必要なことだけを考え、悩むことなく成すことができる。
 だがこの心にある思いを取り去ろうと思う心が、また心中の悩みとなってしまいます。だから、そんなことすらも思わなければ、心の曇りも過ぎ去って、いつのまにか無心となれるでしょう。
 何か心の中にわだかまりを持った時には、常にこのことを心がけましょう。経験を積み、修行を経るといつの間にか心に曇りは無くなるものです。そうした地道な努力もせず、心の悩みを打ち消そうとしてもうまくはいきません。
 
 古い歌にもこうある通りです。
 「思うまいと思うことも、物を思うことです。思わないでおこうとすら思わないで下さい。」
 
 
 
 
有心之心無心之心
 と申す事の候。有心の心と申すは、妄心と同事にて、有心とはあるこころと読む文字にて、何事にても一方へ思ひ詰る所なり。
 心に思ふ事ありて分別思案が生ずる程に、有心の心と申し候。無心の心と申すは、右の本心と同事にて、固りたる事なく、分別も思案も何も無き時の心、総身にのびひろごりて全體に行き渡る心を無心と申す也。
 留れば心に物があり、留る所なければ心に何も無し。心に何も無きを無心の心と申し、又は無心無念とも申し候。此無心の心に能くなりぬれば、一事に止らず一事に缺かず、常に水の湛えたるやうにして、此身に在りて用の向ふ時出て叶ふなり。一所に定り留りたる心は自由に働かぬなり。車の輪も堅からぬにより廻るなり。一所につまりたれば廻るまじきなり。
 心も一時に定れば働ぬものなり。心中に何ぞ思ふ事あれば、人の云ふ事をも聞きながら聞えざるなり。思ふ事に心が止まるゆゑなり。心が其の思ふ事に在りて一方へかたより、一方へかたよれば、物を聞けども聞えず、見れども見えざるなり。是れ心に物ある故なり。あるとは、思ふ事があるなり。
 此有る者を去りぬれば、心無心にして、唯用の時ばかり働きて其用に當る。此心にある物を去らんと思ふ心が、又心中に有る物になる。思はざれば、曇り去りて自ら無心となるなり。常に心にかくすれば、何時となく後は曇り其位へ行くなり。急にやらんとすれば行かぬものなり。古歌に、

 思はじと思ふも物を思ふなり 思はじとだに思はじやきみ