【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その1:無明住地煩悩について】

 
 無明とは、迷いのことを指す言葉で、住地とはそこにとどまるという意味です。
 仏法の修行には五十二の位がありますが、その中で、物事や自分の行いに心が止まる所を住地を言います。「住」とはとどまるということの意味を持ち、「とどまる」とは何事につけてもその事に心を留めたままの状態を言い表します。
 
 貴殿(柳生宗矩)の兵法に合わせて言えば、向こうから斬りかかられた太刀を一目見てそのままそこに合わせようと考えると、相手の太刀にそのまま心が留まって切られてしまう。これが「とどまる」という意味です。
 相手の打太刀を見ることは見るが、そこには心を留めず、相手の斬りかかる太刀に拍子を合わせて斬ろうとも思わず、何の考えも分別も残さず、相手が振り上げた太刀を見るやいなや、心を卒度も留めず、そのまま付け入って相手の太刀にとりつけば、自分を斬ろうとした刀をもぎとって、却って相手を切る刀となるものです。
 
 禅宗では、これを「還把鑓頭倒刺人来」と言います。鑓は矛のことで、相手が持っている刀を自分の方へもぎ取って、却って相手を切るという心持ちのことです。
 たとえ相手から斬りかかられるとも、自分から切りかかろうとも、打つ人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも卒度でも心がとどまれば、自分の手元の働きはすべて抜け落ちて、相手に斬られることになるでしょう。
 
 敵に自分の身を合わせようとすれば、敵に心も取られてしまうことになるので、自分の身にも心を置くべきではありません。よく我が身に心を引き締めておけと言われるのは、あれは初心者の心得であって、ある程度上達した後もそのようなことを続けていれば、太刀に心を取られてしまいます。
 
 拍子を合わせることに心を置けば、拍子合わせに心をとられてしまう。自分の太刀に心を置けば、自分の太刀に心を取られてしまう。これではすべての事に心がとどまってしまい、自分自身は抜け殻のようになってしまうことでしょう。
 貴殿にもよくお分かりのことではありますが、仏法にも同じような事があるということです。仏法では、この留まる心を迷いと言います。ゆえに、このことを無明住地煩悩と呼ぶのです。
 

無明住地煩悩
 無明とは明になしと申す文字にて候。迷ひを申し候。住地とは止まる位と申す文字にて候。佛法修業に五十二位と申す事の候。
 その五十二位の内に、物毎に心の止まる所を住地と申し候。住は止まると申す義理にて候。止まると申すは、何事に付けても其事に心を止むるを申し候。
 貴殿の兵法にて申し候はば、向ふより切太刀を一目見て、其儘にそこにて合はんと思へば、向ふの太刀に其儘に心が止まりて、手前の働きが抜け候て向ふの人にきられ候。是れを止まると申し候。
 打太刀を見る事は見れども、そこに心をとめず、向ふの打つ太刀に拍子合せて打たうとも思はず、思案分別を残さず、振上る太刀を見るや否や、心を卒度も止めず、其まま付入て、向ふの太刀にとりつかば、我をきらんとする刀を、我が方へもぎとりて、却て向ふを切る刀となるべく候。
 禅宗には是を還把2鑓頭1倒刺レ人来ると申し候。鑓はほこにて候。人の持ちたる刀を我が方へもぎりとりて、還て相手を切ると申す心に候。貴殿の無刀と仰せられ候事にて候。
 向ふから打つとも、吾から討つとも、打つ人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも、卒度も止めれば、手前の働きは皆抜け候て、人にきられ可レ申候。
 敵に我が身を置けば、敵に心をとられ候間、我が身にも心を置くべからず。我が身に心を引きしめて置くも、初心の間、習入り候時の事なるべし。太刀に心をとられ候。
 拍子合せに心を置けば、拍子合せに心をとられ候。我太刀に心を置けば、我太刀に心をとられ候。これを皆心のとまりて、手前抜殻になり申し候。
 貴殿御覧之可レ有候。佛法と引當て申すにて候。佛法には、此止る心を迷と申し候。故に無明住地煩悩と申すことにて候。