【沢庵和尚から柳生宗矩への手紙その14:水焦上、火酒雲】

 水焦上、火酒雲ということについて。
 
 「武蔵野はけふはなやきぞ若草の妻もこもれり我もこもれり」
 (あるとき、男が女をさらって武蔵野へ連れて行こうとしたとき、途中の国守の検問で見つかりそうになったため、女を草むらの中に隠したまま逃げよてしまった。国守が草を焼き払って探しだそうとしたとき、さらわれた女がこの歌を詠んで、火をつけないで欲しいと頼んだという故事)
 
 この歌を、誰かが同じ意味のものとしてこのように詠みました。
 「白雲のむすばは消えん朝顔の花」
 (朝顔の花も、日が昇って雲が出てくる時間になると、儚く消え去ってしまうという意味。転じて、生きている間は命を粗末にしてはならぬという意味に)
 
 さて、このたびは、これまでも内々に思っていたことを、諫めたく申し上げます。わたしのような者が申し上げることにてどのようにお思いになるか分かりませんが、ちょうど良い機会でもありますので、この後、書き進めることについてご覧いただければと思います。
 
 貴殿は兵法において古今無双の達人でございますから、官位や俸禄など伝え聞くことも素晴らしいことばかりです。ご主君からいただいているこの大恩を寝ても覚めても忘れることなく、常に恩を感じて忠を尽くすことだけをお考え下さい。
 忠を尽くすということは、まず自分の心を正しくして、自らの行動を正し、主君に仕えるに二心なく、人を恨んだり咎めたりすることなく、毎日の仕事を怠らず、家の中では父母によく孝行し、夫婦の間に少しもやましいことをせず、礼儀正しく、愛人や妾などを持たず、色欲を絶ち、父母には敬意を持って接し、使用人にはえこひいきなどせず、善人を積極的に登用し、自分に足りない所を反省し、自分の国の政治を正しく導き、つまらぬ人間は遠ざけるようにされますと、善人は日々さらによき人となり、善人ではない人間もいつの間にか、そうした素晴らしい主人に感化されて悪い所業を行わないようになり、善人に戻ります。
 このように主人も部下も、上下ともみな善人となり、強欲を持たず贅沢も慎むようになった時には、治める国は富み、その民も豊かになり、子どもたちは親を尊敬するようになり、みな主人の手足となって働くようになるならば、国は自然と平和になるはずです。これは、忠ということの基本でもあります。
 
 この、心から信頼できる兵を、今後も起きるであろう様々な出来事に対させることができたなら、たとえ1000万人を使おうとも、心の思うままに指揮できるでしょう。
 すなわち、すでに申し上げた千手観音の話と同じく、心を正しく使うことが出来れば千の手があってもみなそれぞれの役に立てられるように、貴殿の兵法の心が正しければ、一心を自由自在に動かし使うことができるので、数千人の敵に対峙しても、ただ1振りの刀のもとに従える事ができるようになるはずです。
 これこそ、大忠ではないでしょうか。
 
 その心が正しいということは、他人には分からないものですが、出来事というものには善と悪の二種類に分かれます。それら善悪の原因を考え、善きことだけを行い、悪いことは行わないようにすれば、心は自然と正直になるのです。
 悪いことと知りながらやめられないのは、その悪事が好きな心が痛むからです。
 
 たとえば色欲を好むとか、気ままに贅沢をするとか、そのようなことを心の奥底で望んでいるからこそ、あなたの部下に善人がいたとしても自分が気に入らなければ登用せず、まったく役に立たない無知な人間でも、いったん自分が気に入れば贔屓して登用するように、たとえ善人がいても役に立たせることができなければいないことと同じです。
 
 そのようなことになると、たとえ何千人の部下がいたとしても、何か問題が起きたときに、主人のために働こうとする人間は誰一人としていないことでしょう。
 その人がいったん気に入った無知で未熟な悪人は、もとから邪心を抱いている人であるから、何かことに臨んでも命を捨てようと思うようなことは決してありません。心が正しくない人間が主人の役に立ったためしなど、昔からありはしないのです。
 
 貴殿が弟子を取り立てるときにも、かような事があることを、苦々しく思っております。このような事はすべて、一風変わったことを好むことからおこる気の病に惹かれ、悪の道に堕落してしまうということを知らないからです。
 他人はそのようなことは分かるまいと思っていても、ほんのちょっとしたことから皆には分かってしまうことで、取りも直さず自分自身がそのような疚しいことを知っているのですから、それは、天も地も鬼も神も、万民も知ることとなるのです。
 
 このようなことで自分の国を保つことなど、本当に危ういことではないですか、それこそ大不忠であることだと思っております。
 たとえわたし一人があなたのためにわき目もふらず忠誠を尽くそうと思っても、主人の一族はまとまらず、柳生谷の民も背くようなことになれば、何事も失敗してしまうことに相違ありません。
 
 どのような人であっても、その人が善き人なのか悪しき人なのかを知ろうと思うなら、その人が信用し用いている臣下や、親しい友人を見れば分かるといいます。
 主人が善き人であればその近臣もみな善き人です。主人が正しい心を持っていなければ、その臣下も友人たちもみな、正しい人間はいないでしょう。そのような事になれば誰しもそのことを知り、隣国はその国を侮るようになるでしょう。「善なるときは諸人親しむ」(善いことがうまく行っているときは、全員が親しい間柄となるという意)とは、こういうことを言うのです。
 国は善人を持って宝とす、と言います。よくよく、その身に刻んでご理解なさるように。
 
 皆が見ているところで自分の不義を公に正し、つまらぬ人間を遠ざけ、何ごともきちんと考えぬくようにあなたが急いで変わるように、自国の政治は正しく行われるように、あなたの忠臣を第一にお考えなさいますよう。
 
 なかんずく、ご子息の行跡のこと(この少し前、宗矩の嫡男 柳生十兵衛三厳が、将軍家光より蟄居を命じられた件)ですが、親の行跡が正しくもないのに、子の悪行のみを責めるようなことは、まったく本末転倒です。
 まず貴殿の行いを正しくされ、その上できちんと説教するようにされれば、自然と子のおこないも正しくなり、ご舎弟の内膳殿(十兵衛三厳の弟、柳生左門友矩)も兄の行跡にならって正しくなるはずで、父子ともに善人となるのですから、それはめでたいことでありませんか。
 
 選ぶと捨てるとは義を基準にするべきであると言われます。現在あなたは徳川将軍の寵臣(このとき、幕府惣目付という監査役の長であった)でございますが、他の大名から多くの賄賂を受け取ったりするような、欲に義をわすれるようなことは、くれぐれも行わないようになさいませ。
 貴殿は乱舞能楽を好み、ご自身の能におぼれて、あちこちの大名へ押しかけては、能を勧めておられるとのことですが、これは偏った病であると思っております。
 さらには、最も素晴らしい唄は猿楽(能のこと)であるとおっしゃられたとか、またお世辞のうまい大名を、将軍様へ強く推薦されたりなどのこと、重ねて深くお考え直されるように。
 
 歌にもございます。
 「心こそ心迷はす心なれ、心に心心ゆるすな」
 (心があるからこそ心の迷いとなるのだから、自分のその心に心をゆるしてはならない)
 
 
 
 
水焦上、火酒雲
 武蔵野はけふはなやきぞ若草の妻もこもれり我もこもれり

此の歌の心を誰か。

 白雲のむすばは消えん朝顔の花

 内々存寄候事、御諌可2申入1候由、愚案如何に存候得共、折節幸と存じ、及レ見候處、あらまし書付進じ申候。
 貴殿事、兵法に於て今古無雙の達人故、當時官位俸禄世に聞えも美々敷候。此の大厚恩を寐ても覚ても忘るることなく、且夕、恩を報じ忠を盡くさんことをのみ思ひたまふべし。
 忠を盡くすといふは、先づ我が心を正しくし、身を治め、毛頭君に二心なく、人を恨み咎めず、日々出仕怠らず、一家に於ては父母に能く孝を盡くし、夫婦の間少しも猥になく、礼義正しく妾婦を愛せず、色の道を絶ち、父母の間おごそかに道を以てし、下を使ふに私のへだてなく、善人を用ゐ近付け、我足らざる所を諌め、御國の政を正敷し、不善人を遠ざくる様にするときは、善人は日々に進み不善人もおのづから主人の善を好む所に化せられ、悪を去り、善に遷るなり。
 如レ此君臣上下善人にして、欲薄く奢を止むる時は、國に寳満ちて、民も豊に治り、子の親をしたしみ、手足の上を救ふが如くならば、國は自ら平に成るべし。是れ忠の初なり。
 この金鐵の二心なき兵を、以下様々の御時御用に立てたらば、千萬人を遣ふとも心のままなるべし。則ち先に云ふ所の千手観音の、一心正しければ千の手皆用に立つが如く、貴殿の兵術の心正しければ、一心の働き自在にして、数千人の敵をも、一劔に随へるが如し。是れ大忠にあらずや。
 其の心正しき時は、外より人の知る事もあらず、一念発る所に善と悪の二つあり。其の善悪二つの本を考へて、善をなし悪をせざれば、心自ら正直なり。悪と知り止めざるは、我好む所の痛あるゆゑなり。
 或は色を好むか奢気随にするか、いかさま心に好む所の働きある故に、善人ありとも、我が気に合はざれば善事を用ひず、無智なれども、一旦我が気に合へば登し用ひ好むゆゑに、善人はありても用ゐざれば無きが如し。然れば幾千人ありとても、自然の時、主人の用に立つ者は一人も不レ可レ有レ之。
 彼の一旦気に入りたる無智若輩の悪人は、元より心正しからざる者故、事に臨んで一命を捨てんと思ふ事、努々不レ可レ有。心正しからざるものの主の用に立ちたる事は、往昔より不2承及1ところなり。貴殿の弟子を御取り立て被レ成にも箇様の事有レ之由苦々しく存じ候。是れ皆一片の数寄好む所より其の病にひかれ、悪に落ち入るを知らざるなり。人は知らぬと思へども、微より明らかなるなしとて、我が心に知れば天地鬼神萬民も知るなり。
 如レ是して國を保つ、誠に危き事にあらずや、然らば大不忠なりとこそ存じ候へ。たとへば我一人、いかに矢猛に主人に忠を盡くさんと思ふとも、一家の人和せず、柳生谷一郷の民背きなば、何事も皆相違仕るべし。總て人の善し悪しきを知らんと思はば、其の愛し用ゐらるる臣下又は親しみ交はる友達を以て知ると云へり、主人善なれば其の近臣皆善人なり。主人正しからざれば臣下友達皆正しからず。然らば諸人みななみし、隣國是を侮どるなり。善なるときは諸人親しむとは此等の事なり。國は善人を以て寳とすと云へり。よく/\御體認なさるべし。人の知る所に於て私の不義を去り、小人を遠ざけ、賢を好む事を急に成され候はば、いよ/\國の政正しく、御忠臣第一たるべく候。
 就中御賢息御行跡の事、親の身正しからずして子の悪しきを責むること、逆なり。先づ貴殿の身を正しく成され、其の上にて御異見成され候はば、自ら正しくなり、御舎弟内膳殿も兄の行跡にならひ、正しかるべければ、父子ともに善人となり、目出度かるべし。
 取ると捨つるとは義を以てすると云へり。唯今寵臣たるにより、諸大名より賄を厚くし、欲に義を忘れ候事、努々不レ可レ有候。貴殿亂舞を好み、自身の能に奢り、諸大名衆へ押して参られ、能を勧められ候事、偏に病と存じ候なり。上の唱は猿楽の様に申し候由、また挨拶のよき大名をば、御前に於てもつよく御取り成しなさるる由、重ねて能く/\御思案可レ然歟。歌に、

 心こそ心迷はす心なれ、心に心心ゆるすな。