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僕は、ひとりぼっちで、吉祥寺で、どうやって、過ごしたらいいか、わからない。

吉祥寺によく行く。よく行くのだけれど、ぶらぶらと歩いて終わって帰ってきてしまう。『百年』という本屋さんがある。トークイベントなんかも盛んにやっているすてきなお店で、ファンジンやここでしか買えない本もある。

吉祥寺シネマという映画館がある。非常にいい感じの映画館で、立川みたいな爆音! みたいな売りはないけれど、僕は非常に好きだ。

500円で買えるピザ屋さんがある。近くのおかあさんたちがピザを持ち帰っているし、英会話学校帰りの学生さんたちが座りにくいけれど、いい感じのイスに座っておしゃべりをしている。

1200円でピザが食べられる店がある。おじいちゃんとおばあちゃんがやっていて、60年代のあの懐かしい感じのあるすてきなお店だ。小さくて、かわいくて、いつでも生きたくなるようなお店だ。

でも僕は吉祥寺でおりて、悲しいきもちであちこちを歩いて、時間を無駄にしてしまったと思って帰る。なんでそんなこと思うのだろうといつも思うけれど、理由はよくわからない。

吉祥寺と下北沢は、東京で人が住みたくなる町の二大筆頭だろうと思う。吉祥寺周辺の一軒家は空き屋がでたら億を超えると聞く。吉祥寺にあるいろいろなお店は、たぶん一人で過ごすことを想定していない。

もちろん、一人で過ごすことを想定しているお店もある。いせ屋という焼き鳥やさんで、井の頭公園前にある。今は改装されて、おしゃれで暖かいお店になったけれど以前は掘っ立て小屋同然の、というか単純に掘っ立て小屋そのものだった。

十年ぐらい前に、ある女の子と真冬でここで飲んだ。寒いねっていいながら、焼き鳥を食べた。僕はそれをとても印象的に覚えているけれど、彼女は覚えていないのだろうと思う。

はじめてサークルで「遠征」で、でかけたお店もいせやだった。いろんなことを教わった。バシュラールという思想家のことを教えてもらった。

そしてこの間、一人でいった。麦酒も、焼き鳥も、何も美味しくなかった。美味しいと思う心が壊れてしまったような気がした。うろうろして何もなかった。

都市は孤独を癒やさない。というか、癒える孤独を許さないのかもしれない。ずっとむかし、吉祥寺にはおおきなユザワヤがあってその屋上にラジコンカーのレース場があった。僕はそこでラジコンを走らせることをずっと夢見てきたけれど、大人になっておしゃれで空虚なビルに変わってしまったあとに自分が夢みたものは全部なかったことを知った。

いつからか、吉祥寺はおしゃれの町になった。この世界には服と電化製品しか買う物がないかのようだった。ちょっと前はそうじゃなかった。もっと猥雑で孤独だった。孤独で多様だったのだ。でも、その時代に吉祥寺を歩いていても、同じように孤独だったのかもしれなかった。

吉祥寺には夢とロマンがあると思っている。再開発の洪水がすべてを真四角なブースに変えてしまったとしても、誰もお昼にいないジャズ喫茶や、小さな音楽館、誰かが悲しそうな顔をしているギャラリーは残っているはずだ。はずだ。





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