ぼくは「よしもと新喜劇」をちゃんと理解したい。

東京MXで水曜日の深夜、11時30分から12時30分まで、「よしもと新喜劇」を放映している。関西では主に土曜日のお昼にやっているそうだから、はっきりとターゲットが違うのだろう。

この「よしもと新喜劇」(本当は「吉本新喜劇」だけれど番組名にあわせる)、何が面白いのか実はよくわからない。僕は生まれも育ちも関東であって、大阪の人にあったのも大学に入ってからだ。大阪、というか関西圏の人々といままで数えるぐらいしか会ったことがない。

その人達にとってはまるで「空気のような」作品であるらしい「よしもと新喜劇」は、ぼくにとって謎が固まって注に浮いているようなテレビ番組だ

というようなことを以前某所で書いたところ、猛烈な抗議とよしもと新喜劇の面白さをさまざまな角度から説明してくれる長文のコメントを多数いただいた。詳細は省く。ぼくはそうした「面白さ」を評価する尺度をもって「よしもと新喜劇」を理解しようと努めたその結果、面白く感じられた

面白く感じられた以上、もう謎はなくなった。謎のなくなったよしもと新喜劇を僕は見なくなってしまった。

ところが、先日、あるフェミニストの女性に「よしもと新喜劇、すごい面白い」と言われてから、また見るようになり、今日もテレビでよしもと新喜劇をみながら、こいつはどうだぁ、と思うのだった。

「よしもと新喜劇」を楽しく見ているとわからないことなのかもしれないが、この新喜劇は恐ろしいまでの差別意識と保守イデオロギーの塊で出来ている。2017年、ここだけ昭和40年代で時が止ってしまったかのようだ。今日、見た目のわるい女性が「見られただけで笑われる」というシーンがあった。殺人犯が「音をだしたら殺す」といった横で大音量で踊り出すシーンがあって、さらにタケノコの胸パッドをしている男性を嘲弄するシーンがあった。どれもこれも不愉快だった。

でもそのフェミニストの女性は、力強く「新喜劇」の面白さを語っていた。そうか、とぼくは思った。これこそが「面白い」と思うことなのだ、と。

じゃあ見なければいいじゃない、というのはその通りだ。本当にそのとおり。でも面白いところもあったのだ。こういう時は困る。大変こまる。みたくないものとみたいものが同居するとき、僕は文化の輩として、見ることにしている。

とはいえ、新喜劇の歴史はまさにエンターテイメント闘争の歴史そのものだった。いくつもの困難があり、危機があり、マンネリやリストラや改革が行われた。松竹新喜劇はその洪水に負けてしまった。

その中でもっとも過酷だったのは1988年から始まった「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」だったという。目標が一日千人の動員が達成できなければ新喜劇自体をやめてしまうというキャンペーンで、最終的には目標の18万人を達成して現在まで生き残ることになった。

その際に、それまでほとんどが大御所や大家ばかりだった新喜劇のクルーを一新した。「勇退」という形で昭和の名優、花紀京や岡八郎らが消え、ほかのクルーたちの多くも地方へと飛ばされた。(なお、その際に九州に行った人達が新しく九州博多の地に「お笑い」を生み出し、博多大吉らを生み出す土壌となっていく。おそらくはサンドイッチマンたちも同じように地方へと飛ばされた芸人たちによる「下地」がなければ登場してこなかっただろう)

それからも今なんとなく「お約束」のように思えている多数の芸を作り出すのに血を血で洗うキャスティング合戦が繰り広げられた。そして何よりも、90年代に行われた大量の「東京進出」(お笑いアイドルブーム)によって新喜劇は複雑な立ち位置を要求される舞台となっていった(らしい)

僕がもうちょっと若かったころには、藤井隆というオネエとキャリア女性キャラをまぜたような天才的なパフォーマーがいて、彼が場にでるとハッするような「きたきた」感があったけれど、いまはそこまで前面に出る芸人もおらず、すっちーや川畑泰史が全体のバランスを見ながら笑いを取るスタンスらしく、お笑いというよりも舞台芸術的な性格が強くなっているように感じられる。

で、今日テレビで「よしもと新喜劇」をぼんやり見ていたとき、たけのこで胸パッドを再現する芸を披露していた人に座長たちが「情けの拍手をもらってはいかん」と言っていた。つまりこの場では〈すべって〉いる芸だと言っていたわけだけれど客席では誰かわからないおばちゃんが信じられないぐらいのツボに入ってしまって、すさまじい笑い声を上げ続けていた。つまり〈ウケて〉いたのだ。

「よしもと新喜劇」の保守性というか、ぼくが「面白い」と心底からおもえないのは、観客席も含めた舞台空間でおこる、こうした事実上の出来事(ウケてること)を、物語そしてお笑いの約束ごと(すべてっていること)が塗りつぶしていることなのだ

趣味や性行が多様化した現代ではおそらくグランド花月まで「笑いに来ている」はずの、つまり舞台を見るうえでの「合意」を取り付けているはずの人々の他動的なブレが許容されていない。(この許容というのは笑っちゃいけない、という意味ではない)。そしてそれは許容されないことで、笑いへとかわる。

僕はだからこそ、こうした「上書き」を可能にする新喜劇のさまざまなイデオロギー、まさしく思想といってよい根源的な価値判断に違和感があるから、新喜劇を楽しめないのだろう

それは絶望だ。内容のクオリティの問題ではない。作品のメッセージの問題でもない。ただひたすらに「笑い」をとる為には、このような価値をみんな(と物語)で共有しなければならないのか、ということに悲しみを覚える。だから新喜劇はゲイからやくざ、まっとうな女主人、老人、若者といろんな人達が出ているように見えて、その実はみんな大阪の男性なのかもしれない。

ぼくは批判しているのではない。批判的かもしれないが、ぼくはただ、ただひたすらに新喜劇を理解したい。心の底から、何も気にせずに新喜劇を理解したいと思っているだけなのだ。保守的な思想に芯からひたり、女性や老人や愚か者を心底から嘲弄して、愛してみたい夜なのだ。

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コメント1件

たしかに、新喜劇はマンネリを通り越してますからね
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