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戦闘マシンと化したバーガーキングはマックを殺すためにレーションを作った。

バーガーキングにいった。

二駅先のバーガーキングには常に外国からきた方が働いていて、国際色豊かな営業活動を行っていた。僕はその猥雑でしばしば間違った注文が届くバーガーキングが好きだった。

僕は今日、バーガーキングにいった。

バーガーキングではいまうさわの「マックを殺すパック」というものを作っていた。表紙のそれが、それだ。マックをどう殺すのか興味があったし、大量の茶色が入って700円ちょっとという値段はなんだか感動した、というのもあった。

僕がバーガーキングに足を運んだとき、なぜか9名の老人たちが「珈琲と水」を頼んでバーガーキングの机を占拠していた。一生懸命コーヒーを入れていたインドネシアからの留学生はなぜか老人から痛罵されて苦々しい顔をしていた。その隣で日本人の女の子はのほほんと水を入れていた。

僕は老人が苦手だった。ただただ理由無く苦手だった。老人たちが飲んでいるコーヒーを飲みたくなくて、僕に応対してくれた女の子に「バーガーバックとコカコーラ」といった。女の子はうん、うんといいながら注文を取ってくれた。僕の後ろにいたおじさんも僕と同じ物を頼んだ。

喫煙室にいって、喫煙をせずにキングボックスを開いた。喫煙室にはフランス人の女性が、日本文学のなんたるか、何を研究するべきかを男性に蕩蕩と説明していた。よくわからなかった。『神道集』と『ホキ内伝』という超難解な書物についての話をしていたようだった。

キングボックスはこれだった。

僕は虚無を感じた。虚無といっても、失意といっても、かまわないそれ。夢として与えられた大衆品が与える現実と夢の妥協。そうしたものに馴れていた。馴れなければ僕は生きていけなかったのだった。

ただ、ただ、悲しかった。

中身は、予想した物が予想したとおりに、期待通りに入っていた。期待通りだったので、僕は安心し、安心と同時によくわからない失望を覚えた。もう一度言いたかった。

僕が食べたかったのはこういうカタチの夢だったのだ。

箱からはみ出ていたこれらと、寸分違わぬ箱の中でキレイに治められていた料理の群れは、間違いなく夢にみたこの画像のそれと同じものだった。ただ、同じでなかったのはそれが現実の目の前にあるものだったということだ。

僕はテリヤキレタスバーガーを頼んでいた。

箱に行儀良く詰められていたこの茶色い一群をみて、茶色以外の色がないこと、あるいはそれは色としての存在感をもたない「レタス」の申し訳なさに痛みすら覚えた。

痛みすら覚えた。

僕は無心で茶色い箱を食べて、ハニーディップなんとかのソースにつけたチキンナゲットを食べながら

「チキンナゲットは鳥を丸ごとミンチにして作成されるとマックでは習った。そのような倫理的に悪いチキンについて学んだが、はたしてこれはどうだろうか。おいしいだろうか。おいしいとか、おいしくないとかではない。これはチキンナゲットだ」

というようなことを思った。僕はこの「マックを殺すボックス」を食べきって足早に帰路について、分かった。マックと一緒に死んだのは僕だったのだと、理解した。理解できた。

痛切に理解したのはそういうことだった。バーガーキングが見せていた夢は現実にならないで欲しかった。

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バーガーキングにはしばしの休息が訪れていた。僕は虚無を引きずりながら店を出ようとした。

その時に会話が聞こえてきた。会話の主は老人の水を入れていた少女と、老人の珈琲をいれていた少女だった。

「インドネシアでは、私は北の方」ということばが聞こえてきた。

不思議と耳に残った。

不思議と耳に残ったのだった。

僕の記憶から「マックを殺す箱」の記録は薄れていった。マックを殺す箱の、箱の中身はマックを殺すための戦闘力が詰まったレーションだった。レーションだったが、味は悪くなかったのだ。

レーションだと思う事に痛みすら覚えた。

痛みすら、覚えたのだった。



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